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魔界というのは広大かつ奇妙な世界で、あらゆる環境が存在する。
だから、地球とよく似た環境の土地も存在するが、悪魔が住むようなことはあまりない。
魔力が薄いと魔術の行使が面倒になるからだ。それは〈弐銘節〉や魔王とて例外ではない。
だが一方で、ときどきであれば丁度良い訓練になると、別荘を持つ者は少なくない。
〈ハーネス〉もそんな意図を持ってこの土地に別荘を持っており、人間の真似事が好きな傾奇者の彼らしく、別荘自体も独特に――具体的には西洋風の城を真似て造られている。
だから、謁見の間があり、そこには玉座がある。ゆえに、彼はそこにすわってアスタロトを待っていた。
そして謁見の間は、今やその周囲以外、見る陰もなくなっていた。
アスタロトの攻撃によって。
「おしいな。限定制御がなければここから動かすことくらいはできたろうに」
片肘をついて、重低音の声で、薄くベルゼハブは笑った。
大理石によく似た素材の床や壁や天井は、しかし鋼鉄より遥かに頑丈だ。それをことごとくアスタロトは削り、穿っていながら、ベルゼハブの周囲だけはきれいなままで、崩せないでいる。当然、ベルゼハブが結界で守っているからだ。
「はっ……はっ……」
まだ攻撃を始めて十分ほどだが、すでにアスタロトの息は上がっていた。
初撃に全力を傾けていたようで、玉座の後ろの壁は、ベルゼハブが防御した部分を除いて全て消し飛んで、夜空が覗いている。だからそれが無効だった時点で彼女の勝利はない。
たとえ彼女が諦めるまで、この『ここから〈ハーネス〉を動かせたらすぐに契約者と人質を元の世界へ帰す』という賭けが続くとしても。
「とはいえ、その状態ですらロッソと互角か。いやはや末恐ろしいな」
八対と一枚の揚羽蝶の羽も主の疲弊に引きずられるように精彩を欠いて、萎びている。
花だったのなら散る寸前といった様相だ。
「はっ……。……よく言う」
苦悶の表情を浮かべ、アスタロトはベルゼハブの軽口に答える。
「五対などお前の半分以下だぞ」
枚数的には半分以上だが、翼の数と本人の力は正比例するわけではない。
八対と九対に、九対と十対に、絶望的な差があるように、五対と九対には比べものにならない差がある。
「いやいや、工夫次第では椅子から動かすくらいはできるさ。足元の床を抜かなかったのが君の敗因だ」
「ああ、そうだな! だが、まだ敗けてはいない!」
「そうだな」
口元を冷笑に歪める。黒白反転の眼と蒼黒い肌はロッソと同じく、ベルゼハブの一族に共通する特徴。
だが、酷薄な微笑を浮かべるその様子は、魔王候補に――あるいは魔王を越えるとすら言われる存在に相応しく厳かだ。ほんの〈伍銘節〉でしかないロッソとは全く違う。
見ただけで心を――あるいは命を奪われる。
「時間に制限はないんだ、ゆっくりやればいい。ああ、直接私を動かさずとも椅子を壊しても構わないよ。自ずと動くことになるだろうからな」
「やかましい!」
一喝。だが、それでも動かすどころか、結界を破ることさえできない。
そもそも彼女が床をあえて抜かなかったのは、そんなことをすればますます〈ハーネス〉を動かすことができなくなるからだ。
普段からアスタロトが浮いているように、悪魔にとっては重力などあってもなくても大差ない。それでも、すわっている間くらいは重力に干渉しない。だが、床がなくなってしまっては重力干渉するよりほかにない。
そうなってしまってはもはや彼を動かすことは――少なくとも限定制御を受けている間は――できなくなる。
だからアスタロトは一瞬の隙を狙っているのだ。
そしてそれは二人の思惑を超えてやって来た。
この謁見の間に続く扉はアスタロトの後ろにしかない。それを破って――
『合わせなさいっ!』
――人質の少女、ちせりが勇ましく飛び込んできた。
構えるは三叉の銛。俊足で真正面から〈ハーネス〉に迫り、躰全体をばねにして渾身の突きを繰り出す。
「ふむ」
少女の銛と着弾点を同じにし、なおかつ大威力の光線を銛とほぼ同じ太さにまで収束、結界を揃って穿つ。
狙うは〈ハーネス〉の眉間。届けば後ろへ倒せる絶妙な位置取り。
だが、それは、それらは先と同様、結界に阻まれた。
ただ、半球状の結界に罅が走ってしまう。
「惜しい」
『もう一丁!』
零距離から上体の捻りだけでさらに突く。今度は銛に錐のような回転を加えて。
先と寸分違わぬ場所に撃ち込み、ついに結界は砕け散る。
それでも。
「この距離で当てられるとは思わぬことだお嬢さん」
指二本で止め、そのままちせりごと投げ返す。
空中で体勢を立て直し、アスタロトの隣に着地する
『さすがに魔王を超えると謳われるだけのことはありますわね』
『――お前、なぜここにいる』
驚きながらも、アスタロトが日本語で問う。
ここは確かに玄関より上階に当たる部分だが、それは見た目の構造だけで、空間としては断絶している。普通の人間に来られるところではない。
『愚問ですわね』
『いいから下がれ! お前らがいられるような場所ではない!』
『これは異なことを。こうしておりますのに』
『まだあいつが加減しているからだ! そもそも――』
そうだ。そもそもどうして彼女がここにいるのだ。彼女はロッソに眠らされていたはず――
『覇ッ!』
左頬から吹き飛ばされる。いや、自ら飛んだ。
――という疑問は掻き消えた。
*
「うん。普通」
なんの感慨もなく鋼志はつぶやいた。
拳は握らず、軽く開いたまま。
掌底で放った上段突きは発勁の一種だ。さらに鋼志は放った勁に上乗せして振動系の魔術を打ち込んでいる。
達人の発勁は対象を吹き飛ばさず、内側から砕く。その上、振動破砕の魔術の重ねられたのであれば、たとえ無様でも、ああして躱さなければ〈ハーネス〉は粉々になっていただろう。
「ホントに彼、本物なの?」
振り向き、無邪気に彼は自分の召喚悪魔に訊いた。
「何者だ……? お前は」
アスタロッテは、しかし、それには答えず、不躾にも質問を返した。
「あ、ここで訊いちゃいますか」
「訊かれたら答えて差し上げなくてはなりませんわね」
ちせりが嬉しそうに言う。鋼志に駆け寄り、それからわざとらしく咳払いをした。
「枯れた大地を潤す癒しの一水! 黎明の陰陽師、高白ちせり!」
「悪しき暗闇引き裂く裁きの雷! 黄昏の召喚士見習い、岩動鋼志!」
「我ら!」
「二人合わせて!」
『紫雀呂ラヴァーズ!!』
誰に見せているつもりなのか、あさっての方向へ格好をつける。
いや、というか。
「魔術師が名乗るなよ……」
「ご自分から訊いておいてなんですの!? その言い種は!」
人差し指を向けてちせりが怒る。代わりにアスタロッテの焦りや驚きは消えてしまった。
なんとも絶妙な間の外し方。場の空気を自分たちのものにするのは二人とも、とりわけ鋼志は上手い。アスタロッテから強敵を前にした力みが消える。
「ま、構いませんわ。返事を期待できずとも訊いておかずにはいられないその気持ち、わたくしにはよくわかります。ダニエル・クライトンもこのくらい素直でしたら昨日も名乗れましたのに。まったく」
「いや、あの、ホント、危ないんでやめようよ……」
通名とはいえ、〈弐銘節〉の前で名前をさらすなど、命知らずにもほどがある。
「しかも私が訊きたかったのはそんなことではない」
「まあ! 人の名前をそんなことだなんて! 他に――」
「動くな魔術師! 高白ちせり! 岩動鋼志!」
ちせりの発言に〈ハーネス〉が割り込んだ。余裕が消えてはいるが、なにか手傷を負った様子もない。正確に名を発音するために使用言語を日本語に切り替えているのが少しだけ印象的だった。彼の魔力ならその必要はないはずだが。
「おや、お早いご帰還で」
一方、魔王級の相手に名前で縛られたことで、一歩どころか指一本動かせない状況でありながら綽々たる態度を鋼志は崩さない。
「アスタロト、言うまでもないだろうが君も動くな」
アスタロッテの体に鎖が巻きついたような重みがかかる。ちせりたちと違い、なんとか動くことはできる。限定制御の状態で動けるのだから相当加減されているようだ。
「まずは詫びよう。本来であれば、君たち人間を巻き込むつもりはなかったのだが、少々事情があってね、強引な方法を取らざるを得なかった。それに、ロッソやアスタロトは勘違いしていたようだが、彼女から力を受け取ったら私が君たちを帰すつもりでいた。無闇に危険に晒してしまった。すまない」
「はあ。お構いなく」
昨日とは逆に鋼志が交渉を受ける。ただ、ダニエル・クライトンと違い、彼に緊張はない。
「それでだ。ここへ来たということは自分の世界へも帰れるはずだが……どうかね? このままアスタロトと解約して帰る、というのは」
「あれで済ましていいんなら帰るけど?」
と問うた先のちせりは不満を顔中に漲らせていた。鋼志と違い、彼女は話すことができないようだ。もっとも、口を動かさずに話せる鋼志のほうがおかしいだけだ。いや、部分的とはいえ、また、通名であったとはいえ、名前で縛られた命令を無視できるのは異常とすら言える。
加減してあるとはいえ、相手は魔王並み――それ以上の実力者だと言うのに。
「ダメだって。一召喚士としても約定未達のまま解約するのはちょっと」
「ふむ。さすがにアスタロトを召喚しただけあって肝がすわっている。だが、あまり命を粗末にするものではないぞ。勇気と無謀は違う」
「と言われましても。この期に及んでヴァンパイアを人間だと思っているあなたに脅威を感じるのは少し難しいです」
「………………」
夜風が部屋の空気をさらう。




