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本日2話目です。
フェーデルア/ロッソ/ラインガラルド/ベルゼリュト/ベルゼハブは己の主君に心酔している。だからこそ禁忌とされる世界を越えることもしたし、ミミックと嘲られることを承知で異世界に潜り込んだ。誘拐などという下賎な真似もした。
全ては主君のために。
「ようこそおいでくださいました」
人間が見れば城かと見紛うような建物も悪魔からすればあばら屋にすぎない。罠の一つも仕掛けられていないなど、正気の沙汰とは思えない。
それでも彼の主君はそれを要求し、だから彼はそれに応えた。
「アスタロトの姫君とその召喚者の人間よ」
二人を迎える主君のために。
玄関の大広間と二階をつなぐ大階段の踊り場で彼は執事然と立っていた。人間の擬態は解いて、蒼黒い肌と、黒と白の反転した眼を晒し、双翅類を思わせる透明の羽が五対と一枚、各所に取り付けられた灯りを照り返している。
場所が場所だけに二人を見下ろす形になるが、これは致し方ない。彼にとって、この距離が最も安全なのだ。
だがそこまで気を回す必要はなかったかもしれない。
「要求通りに来てやったぞ、ロッソ」
限定制御のため、自分程度に力を抑えられている主君の花嫁に対しても彼は恭しく答えた。
「主君がお待ちです。どうかこのまま上階へ」
「そうか。『行くぞ、コーシ』」
日本語で自分の召喚者を促す。
「お待ちください」
「なんだ。行けと言ったり待てと言ったり。私は犬ではないぞ」
「申し訳ございません。言葉足らずでございました。召喚者の方はこちらでお待ち願います」
「断る。女の所在も安否もわからぬ以上、契約者を守るのは最低限の義務だ」
即答。しかし、予想通りの回答。
「では」
予定通りに連れ去った女を自分の隣に出現させる。
焦点が合わない虚ろな瞳でぼんやりと立つ。
「お眠り頂いておりますが、わたくしを含め誰一人、指一本触れておりません」
「………………」
「どうか、お一人でお上がり下さい」
頭を下げる。
「横槍を入れるようで恐縮なんですけど」
悪魔の言語で交わされていた会話に同じ言葉で割り込む。
「ぼくはここで待ってるだけでいいんですか?」
「はい。姫君と主君のお話が終わればお帰りいただいて結構です」
特に気にすることもなく彼は答えた。花嫁の召喚者ならその程度のことは可能だろう。
「ふぅん」
「コーシ。余計なことはするなと言ったが?」
「まあ、問題ないんじゃないですかね?」
仮面のように張り付いて動かない笑顔で召喚者は言う。黒縁の眼鏡が光を返し、瞳を隠す。
真意のほどは読めない。
「――ふう。わかった。すぐに戻る」
「ごゆっくり」
嘲笑にも似た笑みを浮かべて召喚者は花嫁を見送った。これから彼女になにが起こるのか、いや、自分自身になにが起きるのかわかっていないのだろうか。
ふわりと彼の横を花嫁が通り過ぎる。かすかに舌打ちが聞こえた。
それなりに長い付き合いだが、彼女がこんなにも感情を露にするのを初めて見る。
当然か。
本来、彼も花嫁も気質は潔癖で卑怯な行為や姑息な手段を嫌う。ただ、彼に限ればそれ以上に忠義に厚く、そのためには己を殺すことさえ厭わない。
だからこうして人質を取っているのだ。
主君のために。
「さて、邪魔者もいなくなったことだし、ベルゼハブの眷属よ。余興代わりに質問に答えてもらえないかな?」
「構わないが」
自分の召喚悪魔を邪魔者扱いする、その余裕を怪訝に思う。彼は知らないことだが、その契約悪魔さえ不審に思うのだ。そうでない者にはいっそう奇妙に映ることだろう。
「きみの主は魔法使いかい?」
「いや。そうだったとしても言うわけがない」
「ふむ。それはそうだ。じゃあ、次。アーシュ――ぼくの契約悪魔の彼女と婚姻契約をある日突然、結びたがり始めたそうだけど……なにか心当たりはある?」
「突然ではない。姫君は主君とお会いになることが少ないためにそう感じたかもしれないが、考えに考えを重ねてのことだ。そもそもあれだけの力を持ちながら腐らせるなど本来あってはならないこと。お優しすぎるがゆえに遠回りをされたが、これであるべき姿なのだ」
「きみを異世界に赴かせることも?」
「………………」
この男は召喚士のくせに過去見まで扱うらしい。あるいは花嫁にさせたのか。いずれにせよさすがは彼女の召喚者だと胸中で感心するとともに、緩んでいた警戒を引き締め直す。
確かに君主は異界にも打って出るつもりでいる。だがそれは魔力の薄い世界に魔力の恩恵をもたらすためだ。
決して侵略のためではない。
だからこそ禁忌を犯すことに同意したのだ。
「侮辱は許さないって感じだね。でも、まあ、だいたいわかった。アーシュが危ないから行かせてもらうよ」
ごく自然な足取りでこちらへと歩を進める。
「やれやれ……さすがは姫君の召喚者と感心したところだったのだが、とんだ見込み違いだ。彼我の実力差もわからぬ痴れ者とは」
「そりゃ、わからなくて当然だと思うよ。ぼくは超能力者だからね」
「ハッ! 世迷言を!」
手を正面にかざし、光弾を一撃。殺すつもりで放った一発。どうせ彼らはここから帰ることができない。送る者がいなくなるからだ。ならば今死のうと早晩の違いでしかない。
が――
「油断大敵」
――すでに彼の懐に飛び込んできている。
「瞬動――」
術、と驚く暇もなく、彼の意識は飛び去った。
目を惹くような美しい中段突き――崩拳が腹に突き刺さり、そこを起点として超振動の魔術が彼の体に広がったからだ。
「おー、気絶で済むんだ。強いよ、きみ」
だから、召喚者の賛辞は聞こえなかった。
*
「ん……」
知らず艷めいた声が漏れた。
口と胸と腰とそれから左の腿に違和感がある。
特に口腔の違和感がひどい。くちゃくちゃとなにか柔らかなものでこすられているような、撫でられているような、それが気持ち良いような、むず痒いような。
ときどきなにかを嚥下するような音も聞こえる。
眠い頭を振り切って、目を開ける。
「あ、おはよ」
器用に喉だけを動かして眼鏡の少年はあいさつをすると、そのまま何事もなかったようにキスを続けた。見る者のほうが赤面してしまいそうな深いそれ。
自分の失態を思い出し、今の状況の理由を知る。
見る間に顔が、首が、手先が赤くなる。
あわてて口を閉じた。
「イダ!?」
婚約者は飛び退いて自分の口を押さえる。
ちせりも別の理由で口を押さえた。
睡眠中の口腔内は雑菌が繁殖するためにあまり清潔でない。だから彼女は、起き抜けのキスだけは必ず洗顔のあとで行なっていたのだ。
それなのに。
「――――――」
照れているのか、怒っているのか、混乱しているのか、とにかく動揺していた。
「ひったー」
舌を出しながらわざわざちゃんとできる発音を崩して言う。
「あ、あなた、なにを考えておりますの!?」
とりあえず出てきた言葉はそれだった。言うべきせりふは沢山あったのに。
「とりわけなにも」
しれっと、答える。舌はもういいらしい。
「せっかくきれいにおしゃれしてるし、据え膳だし、くらいのことはよぎったかもしれないけど――」
確かに学校帰りにさらわれたので制服のままだ。鋼志は家に帰っていたのか私服だが。
「――もういいですわ」
呆れて遮る。
「ありがとう。それで、状況は?」
謝らないのは相手が違うからだ。
助けるのが当然でも礼を言うのは恋人と永く幸せに暮らすためには大事なことだからだ。
わかっていても状況確認を怠らないのは自分の迂闊さを知っているからだ。
「上でアーシュが貞操の危機」
「あら、意外と慎み深かったのですわね」
「それ完全に見た目だけの判断だよね……」
鋼志は苦笑を浮かべるが、ちせりからすれば、永く生きた悪魔が正真正銘の乙女だと思うほうがどうかしている。
「相手は例の婚約者?」
「九九パーセント偽物だと思うけどね」
「そう。でしたら早いところ――」
助けに、と言いかけて止まる。
「帰りましょうか」
「うぉいっ!」
「よく考えたら助ける理由がありませんわ。むしろ迷惑をかけられたくらいです。謝る必要もありませんわね」
冷然と。しかしちせりにとって彼女はいないほうが、都合がいいのも確かだ。さらわれておいて言うようなことではない自覚はあるが、そもそもさらわれた理由だって彼女にあるのだから、ここで遠慮する理由はない。
「いや、まあ、助ける理由はないかもだけどね。恋人をさらわれて、笑って許せるほど度量のある人間じゃないなあ、ぼくは」
背筋が寒くなる。顔はいつもと同じように笑っているが、目が冷たくなっている。
それはときどき見る。こうして迂闊にもさらわれたり、危険な目に会ったりするたび、彼はちせりを責めることなく、敵を断罪する。
容赦なく。
己の不甲斐なさを呪うように。
「ついでに言えば」
声も笑顔もいつもと変わらない。ただ、その黒い瞳だけが暗く沈む。昨日の結界のように。
「嘘をつく男は嫌いだし――」
切り替えるように頭を振ってちせりに微笑みかける。恋人を安心させる――
「――彼女のこと、頼まれてるしね」
「へえ……」
思いっきり不機嫌な声が漏れた。
――はずだったそれは、不穏な言葉によって効果を失った。
「あれ?」
「恋人の前で昔の女の話をするなんてどういう教育を受けていらしたのかしら?」
頬をつねる。
「待って! いろいろ言いたい! そういうんじゃないって何回も言ったよね!? ただの恩人だって!
彼女がいたからこうしてきみとも会えたわけで!」
「黙らっしゃい! わたくしが初めての相手でないことはさておいても、わざわざ昔のことを持ち出すだなんて!」
「だからなんでそうなるの!? 三歳だよ!?」
「男なんていくつになっても獣ですわ!」
「それなんか違う!」
「大体、頼まれたから助けに行くとは何事ですの!?」
「いや、頼まれたら受けるのはヒトとして当たり前――っていうかそもそも、ついでだって言ったよ! あくまで、きみをさらった落とし前をつけに行くんであって!」
「まあ!? ついには人のことを悪魔呼ばわり!?」
「もうそれ、絶対わざとだよね!?」
ぎゃーぎゃーと痴話喧嘩はしばらく続いた。




