4-2
今日も2話更新します。
「でも、それってなんの意味あるんですか? 次代魔王としてのものではないんですよね?」
「私のほうはな。ベルゼハブは私より先に〈弐銘節〉になったから、おそらくその段階で次代魔王としての贄に切り替わっている」
「贄? ぼく、あんまり悪魔の規則には明るくないんですけど、悪魔同士の結婚にどうして贄なんて言葉が出てくるんですか?」
鋼志のその言葉を受けて改めて衝撃を受ける。彼は本当に召喚を得意としているわけではなく、また、親しくしている悪魔は通常の悪魔ではないのだ。
「……少し、力を解放するぞ?」
「どうぞ。でも、できれば静かにお願いします」
「わかっている」
背中の、今は小さく玩具のようになってしまっている蝶の翼に意識を集める。
紫色の魔力光が翼に走り、次第にそれは強く大きくなっていく。
どんどん光が膨らんで、そして膨らみが限界に達したとき、閃光とともに、蕾が花開くように、あるいは蝶が蛹から孵るように、翼が大きく広がった。
それは大輪の花のような、十七枚の黒く艶やかな揚羽蝶の羽だった。薄暗い部屋の中でも鱗粉が金糸を織り込んだ紗のようにきらきらと輝いている。
右に九枚、左に八枚。八対と一枚の――奇数の翼は、すなわち純潔の証。
「これは翼を持つ種族――いわゆる有翼種の悪魔に限るから、名前ほど強さの序列として有名ではないのだがな」
そう前置いて話す。
「一般に有翼種の強さは翼の数に比例する。大きさは個人差があるのでなんとも言いにくいのだが、一般に小さい者は制御力に長け、大きい者は持久力に長けることが多い。大きさに限るならば私のこれは標準的なものだ」
手首から先ほどの大きさしかなかった羽は今、一枚あたり腕ほどの直径を持っている。
「枚数で言えば多いほうだ。一般に魔王や真祖であっても九対であるものがほとんどで、十対を超えれば大抵は歴史に名を残している。そして私の婚約者のベルゼハブ、通称〈ハーネス〉は――九対と一枚ある」
つまり、十九枚。あと一枚で十対になる。
「そしてここからが婚姻に係わってくるのだが、夫婦となった有翼種の二人はこの最後の一枚を伴侶に渡すことができる。己の半分の力とともにな。だから『贄』だ」
昨日言った、『意味合いが違う』とはこのことだ。
「人間にとって婚姻とは種の存続のためのシステムだが、悪魔にとってそれは自己の強化だ。強い個体がより強くなるための共食いなのさ。有翼種でなくとも似たような機構をほとんどの悪魔が持っているし、同種の悪魔同士でなくとも力の奪取は可能だ」
「……その、力というのは魔力という解釈でいいんですか?」
「そうだな……少し違うが、人間にその感覚を伝えるのは難しい。私も未経験だしな」
「あー……」
少し気まずそうに、疑問を変える。
「えっと、渡すというのは女性から男性へ?」
「その逆もある。そもそも見た目の性別に大した意味など無い。両性具有も普通にいるしな。ただし、いずれにせよ、渡す側は生涯一度きり。しかも、力の上限が渡す前で固定される。渡したあとでどれだけ鍛えても前以上の力は手に入らん。受ける側も己の羽として取り込めるのは最初の一枚だけだ。二度目以降に受け取った力は、完全には制御できない」
「なるほど」
〈ハーネス〉の狙いはつまり、アスタロッテの力の半分ということだ。十対になるために。
「私が知る限り、十対の翼を持つ悪魔は今いない。有翼種以外の悪魔でそれに匹敵する者はいるだろうが、いずれにせよ、私の力を取り込めばベルゼハブは悪魔の中でも最強に近い存在になる」
「それが目的? でも、当代ベルゼハブ――〈風王〉でしたっけ? より強いんですよね?」
「そうだ。だからわからんのだ。明らかに一族間の戦争を意識しているにも係わらず、順序が逆なんだ。彼の力であれば戦争を起こして、それから私の力を取り込んでも遅くはない。それ以前にあの男は戦を好まん。誰とどう戦おうと虐殺にしかならんからな」
「そこまで……」
「互いに魔王になるつもりはなかったから口約束のままだったのが災いした形だ。そもそもどうして突然魔王位に興味を持ったのか……!」
「ちょっ、待ってくださいよ!」
あわてたように鋼志が言う。
「口約束? 契約じゃないんですか?」
「ああ、あちらの希望でな。魔王の前での約束だから、魔術的な拘束は必要ない、と。次代魔王候補に挙げられてからも、そのままで通したんだよ」
「じゃあ、こいつが偽物の可能性は!?」
「は?」
なにを言うのだ、この男は。
「話を聞いていたか? 〈ハーネス〉はベルゼハブで最強だぞ? あるいはすでに全悪魔で最強かもしれない。どうやって入れ替わると言うのだ?」
「最強ならば負けないというのは悪魔の忌むべき傲慢の一つですよ。……ってそうか、傲慢というほど実績がないわけじゃないからか……」
めずらしく困ったような顔を浮かべる。
「魔法使いだったならありえます」
「ちょっと待て。それはいくらんでも突飛だ」
悪魔の魔法使いは基本的には存在しない。魔法使いの異能を使うよりも自分の魔術で干渉したほうがより強く、より正確であることが大半だからだ。
「そもそも、魔法使いが干渉できる魔法などたかが知れているだろう。それもほとんどが魔術で代替できる力だ。例外など、それも魔王を脅かすようなものなど――」
そう。例外はただ一つ、ただ一人――
「――私は一つ、いや、一人しか知らん」
――〈絶世〉。彼女の『魔力吸収』のみ。
「いえ、それは正面からやりあう場合でしょう? 昨日ぼくがやってみせたみたいに、不意打ちすれば殺せなくとも封印くらいはできるはずです。異能なしで魔王級の力があれば――」
「だから!」
声を荒げる。尻尾が鳴った。
「あいつはそれほど弱くない!」
溢れた魔力が突風となって部屋を荒らす。窓に、壁に亀裂が入り、天井から、ぱらりと埃が落ちる。建物自体、少し揺れた。
「………………」
アスタロッテがただ一人、同格でありながら恐れる相手だ。その男が他の誰かに不意打ちされたくらいで敗れるものか。とはいえ――
「――すまん」
悄然とうなだれる。
――激昂するようなことでもなかった。鋼志が述べたのは可能性の一つなのだから。
「いえ。失言でした」
「だが確かに魔法使いである線は考えていなかった。本人のあずかり知らぬところで成りすましている可能性はある」
その程度のことなら行ってみればわかることだが。
「そんなに疎遠なんですか?」
「お互いに立場があるからな。最後に直接会ったのは私が〈弐銘節〉になったときだ。それからしばらくして急に婚姻契約を結んでくれと申し出があった」
「その理由はわからないんですよね?」
「そうだな。魔王になりたくなったということだったが」
「すでにその実力はあるはず、と」
「そもそも、力をくれるという話だったんだよ」
言うつもりのなかった願い――と言うより悩みだが、事態が事態だけに打ち明けることにする。すでに問題は彼らとも無関係ではなくなってしまった。
「自分には必要ないものだから、と。それが突然、今度はくれと言う」
「百八十度違うじゃないですか……」
あきれたように鋼志は言う。
「心変わりなどよくあることだ。人間と同じ尺度で生きているわけではない。――とはいえ私も不審に思ってな、ほうぼうから情報を集めたのだが、特におかしな様子はなかった」
「けれど、アーシュもその力を『はいそうですか』と渡すわけにはいかなかった、と。確かに魔王を超える力は魔王になってしまうと手に入りにくいですからね」
先の『魔王になるつもりはない』という発言からアスタロッテの目標をおぼろげながら察している。この事態にあって、読みの切れ味は少しも鈍っていない。
「なるほど。まあ、あなたらしい感じはしますね」
したり顔でつぶやき、うなずく。
「けれど、その婚約自体は魔王が決めたことでしょう? すっぽかせばよかったんじゃ?」
「そう考えられるのはお前が人間だからだな。悪魔が格上相手に抵抗することは――絶対とは言い切れないが基本的にはない」
長い歴史の中では例外的な存在は必ず現れる。魔法使いのように。
その多くは甲斐なく葬られていったが。
「けど迷うことはある、と。魔王の顔を立てなきゃいけないから婚約は破棄できない。相手の顔も立てなきゃだから言うことは聞かないといけない。でも、自分にも明確な目的がある。そのためには力を渡すわけにはいかない。ついでに言えば、あなたのことだからもらうつもりもなかったんでしょう?」
にやにやと笑うその顔が腹立たしい。
「直接誰かの力を使うことは好かん」
小鼻を膨らませて答える。ちせりと違って鋼志との会話では主導権を上手く握れない。
契約者の言葉とはこれほど響くものだったろうか。
「まあ、とりあえず偽物の可能性が出てきただけ良しとしましょうか。たぶん、認識干渉か感覚干渉の異能でしょう。魔王級が相手となるとどっちにしても強敵ですねぇ……」
とん、と拳を鋼志の頭に載せる。ちせりの真似だ。
「誰であってもお前では相手にならん。向こうに着いたら大人しくしていろ。行くぞ」
そのまま拳を開いて頭を掴む。
「え、このまま!?」
足元に紫色の魔法陣が展開する。六芒星を二重の円で囲んだ標準的なものだ。
「気にするな、呼吸や感染症もろもろの対応は私がしてやる」
魔法陣の輝きが増す。部屋全体が紫色に染まる。
「いや、そうじゃなくてもうちょっと――!」
「黙ってろ。舌を噛むぞ」
言うや、輝きが最高潮に達する。
その光が収まったとき、部屋に二人の姿はもうなかった。




