3-2
究極と言えるまでに研ぎ澄まされた武術は見ていて楽しいものだ。たとえそれが見せて楽しませるために作られたものではなくとも。
「では、お先に」
鋼志が消える。
「む」
一瞬、昨日の隠身が思い出されたがこれは違う。
瞬動術だ。
空を見上げる。視線の先、豆粒ほどに小さくなった鋼志がいる。いや、見る間に米粒ほどに小さくなっていく。
「天駆か」
文字通り空を駆けるという、瞬動術の奥義の名をつぶやき、あとを追う。
魔力密度の低いこの世界では、大気中の魔力を蹴る、あるいはかき集めて足場にする、という技法は他の世界に比べて習得が難しい。
そういう世界で空を飛ぶ魔術なら、ちせりのように飛行専用の式を使うか、アスタロッテのように重力干渉するほうが手っ取り早い。
それにも係わらず鋼志はやはり体術寄りの魔術を選択している。
今の套路と合わせて考えると、彼は魔術を苦手としているというより、体術を得意としすぎているのだ。その原因の一端はこの世界にある。
つまり、あまりにも魔力密度が低いのだ。
魔術とは、魔法――つまり、魔力の影響も組み込んだ物理法則――に従って、魔力を操り、なにかの現象を起こすこと、あるいは起こすものを指す。
だから、魔力が絶対に必要だ。
ならば、魔力は少ないよりも多いほうがいいし、薄いよりも濃いほうがいい。少なければ、薄ければ、それだけで簡単な魔術が高難度の魔術になる。
要するに、鋼志に限らずこの世界の人間が魔術を修得するのは難しい。体術に偏ってしまうのはある意味で当たり前のことだ。昨日の暗殺者がそうであったように。
「やあ、おはよう、アスタロト」
少し遅れて高白寺へ到着すると同時に声をかけられる。
「おはよう、シャルル」
境内にいたのは昨日と同じくシャルル。同じように蝶ネクタイにサスペンダーの半ズボン。
昨日の四人にちせりを除いた全員が集まっていた。
「昨日は悪かったね。どうでもいいことに付き合わせて、大事なところでは除け者にしてしまって」
ダニエル・クライトンの一件と夜練のことだ。
「なに、どちらもさして変わらんさ」
実際、鋼志の力量を計ったところで、アスタロッテの願いを叶えられるほどのものであるはずがないのだ。適当な時間が経てば適当な理由で還るつもりでいる。
鋼志がどれだけ異常だろうと、すごかろうと、その戦力はせいぜい対人止まり。悪魔に対抗できるようなものではない。
得意とするものが体術である以上、それは仕方のないことだ。
それ以上に、問題解決に誰かの手を借りるというのは悪魔の矜持が許さない。
代価で以て手を貸すことはあっても、手を借りることなどありえない。
「いや、全然違うから謝っているんだけどね。まあ、いいか。見る機会はあると思うし。昨日も言っていたけど、しばらくは滞在するのだろう?」
「そうだな。コーシの魔力が続くのであれば」
今のところ枯渇する様子はない。それもおかしな話なのだが。
魔力の薄い世界に生まれたのであれば、個人が保持する魔力も当然低くなる。本来であれば〈弐銘節〉の維持はおろか召喚さえできないはずなのだ。
そんなアスタロッテの疑問をよそに鋼志は結界術の訓練を始める。
昨日と違い、脚を使わずに行う、手で張る普通の結界術。
その手腕は――
「……下手くそ」
――見ていて思わず言ってしまうほどに。
「わざわざぼくが見てるんだから加減しなくていいよ? あと、アスタロトが見てるからってカッコつけるのはやめなさい」
「そんなつもりはないですけど……」
「じゃあ、なおさら悪い」
シャルルの的確な助言に鋼志が黙る。
昨日もそうだが、飄々としている割に鋼志は子どもっぽい。口には出していないが「本気を出せばこんなもんじゃない」と言っているようで、微笑ましい。
年下の家族がいればこんな感じなのだろうか。家族という感覚が希薄なアスタロッテには想像しかできない。
「お前が看ているのか?」
「それは魔術の師という意味で?」
「それ以外にあるのか? お前があの体術をできるとは思えんが」
「いやまあ、さすがの慧眼だけど」
と遠回しに肯定する。
「違うよ。教えているのは……あれ、誰になるんだろう?」
「いや、お前でないなら別にいい。ちょっと蔑んでやろうと思っただけだ」
「ひどいなあ。コーシくんに魔術を教えるのは大変なんだよ? なんていうか器用すぎて」
「器用すぎて?」
鋼志を見る。
人差し指と中指を伸ばし、片手を前に突き出す姿勢はさすがに完璧だ。
それから『臨』とつぶやき、横一文字に空を切る。
次に『兵』とつぶやき、縦一文字に空を切る。
『臨』の線の下に『闘』の線を描き、『兵』の線の右に『者』の線を描く。
以下、交互に『皆』『陣』『列』『在』『前』と描き、最後に右上から左下へ袈裟斬りに。
九字切り。多少、我流混じりのところもあるが、比較的簡単かつ有名な結界術。
この技も、昨日見せた反閇――結界を描くための歩法――も、さっき見せた套路も中国由来であるところを考えると、鋼志は大陸系の技を習得しているらしい。
いや、九字切りに関しては習得しようとしている、というところか。
「ふむ。なるほどな」
「器用すぎだろう?」
指先から完璧に排出された魔力は、指先から開放された瞬間、ほとんど霧散している。
つまり、鋼志が秀でているのは体術やそれに準じる魔術――というよりも内在魔力の制御のようだ。
彼は自分自身の中にある魔力を手足のように、あるいはそれ以上に扱えるが、逆に、自分の中にない魔力は普通程度、あるいはそれ以下の制御しかできない。
昨日の結界が反閇で張られたのもそのせいだろう。足跡は魔術師にとって自分自身の一部と言える。ただ、最終的には自分から切り離して結界とするので、そこで失敗しやすいのだろうと、アスタロッテは推測する。だとすれば、実戦に堪えるほどではない、という謙遜も理解できる。威力ではなく、成功率が実戦に向かない結界というのもめずらしいが。
いや、それ以上に、体内の魔力のほうが扱いやすいというのは、ほぼ全ての魔術師に言えることだが、これほど極端な例もめずらしい。
「生まれつきか?」
「んー、まあそうだね。訓練のせいで差が余計に開いた気もするけど」
その発言にわずかながらに眉をひそめる。
生まれつきの不均衡ならば是正するのが道理だ。特に、これだけの制御を体内でできるのであれば、体外でもできるようになったとき、鋼志の実力はアスタロッテに比肩する強さになるはずだ。
それをしないのは師の嫉妬なのか、それとも意図があるのか。
「気に食わないって顔だね」
シャルルは同格であるせいか、ちせりよりも踏み込んでくる。もっとも、ちせりとの会話の主導権は基本的にアスタロッテが握っているので、踏み込ませない、というのが正確なところなのだが。
鋼志がアスタロッテを恐れないのもこの男のせいだろう。日常的にこんな化物と接していれば慣れもする。
この世界に存在する魔力総量を遥かに超える魔力をその身に蓄え、限定制御も、封印処理も施すことなく、操っているのだから。
「いや? 兄弟子がこうなのだから弟弟子も同じように育てているのだろうが、悪魔と人間を同じに扱うとはどういう神経の持ち主なのだろうと思ってな」
「そりゃあ、そういう神経の持ち主なんだろうさ」
同じ相手に師事していることを否定することなくシャルルは軽口を返す。
「ひょっとしたら本当に同じなのかもしれないけど」
シャルルの意味深な冗談は山風に消えた。