見つけて
それは夏の日の夢だったのかも知れない。
光太は長い夏休みの大半を幼なじみの祐志の家で過ごしていた。
暑さを掻き立てるように蝉がけたたましく声をあげている中光太は自転車を漕ぎ祐志の家に来たため光太の額は汗でじっとり濡れている。
クーラーのかかった祐志の部屋で寛ぎ、床に散らかった漫画を読んでいると、ジュースとスナック菓子を手にした祐志が現れた。
「もうオレ喉カラカラ」
「暑すぎだよな」
祐志が氷の入ったコップになみなみとジュースをそそぎ、漫画に手を伸ばした。パラパラとページが捲れる音がする。
「光、夏休みの宿題終わったか?」
「まだ全然、祐志は?」
「俺もまだ」
「あ、祐志髪染めたんだ」
「お、気付きました?」
自慢するように祐志が自分の髪を触る。
夏休みに入る前まで光太と同じ真っ黒だった筈の祐志の髪色は少し茶色がかっていて、一目で染めたと分かる。
祐志は元々顔立ちが良く、身長も高いため茶髪がよく似合っていた。祐志が「お前もやるか?」と聞いたが、茶髪になった自分を想像し似合わないだろうと苦笑いし首をふった。そして何より二人の通う桜並木が名物の桜木中学校の生徒指導である体格の良い武村が恐ろしく、光太を躊躇わせた。
それから暫くくだらない話をして笑っていたが、祐志が突然思い出したかのように声を潜めた。
「俺さ、この前学校裏の森に入ったんだよ」
「え!」
光太は驚いて目を丸くする。
学校の裏に、手入れのされていない木々が鬱蒼と生えた不気味な森がある。
光太が小学生の頃は「悪い魔女が住んでいて、食べられちゃう」という噂があったがそれが中学生になると「殺人鬼が潜んでる」と妙に現実味を帯びた噂が広がっていた。
様々な噂があるが、森に入る事は大人に禁じられていたため誰も真実を知らない。
そのためか、禁止されればされる程に森の中に入るということに対し中学生達は好奇心を持っていた。
先程まで煩かった蝉の声が遠くに感じる。
いつの間にか光太は祐志をまるで勇者か何か尊敬すべき人間を見るような目で見ていた。祐志も気分が良くなってきたのか大袈裟な手振りで話し出す。
「それで森の中にな、図書館みたいなものを見つけたんだ」
「図書館?」
祐志が大きく頷いた。
「窓から見たんだけど、本棚とか椅子とかあったからあれは図書館だ。本は無かったけどな」
「へえー、すごい。祐志格好いいな」
大人達の言葉に背き森に入る事は光太達にとって勇敢な事であり、それが出来る人物は「大人」だと思われていた。
祐志はへらっと笑いながら、コップを手にすると溶けた氷が混じり薄まったジュースを飲み干す。
「だから今度光も一緒に行ってみようぜ」
「え、それは……」
「大丈夫だっての俺が居るんだから」
「う、うん」
弱虫と思われたくなくて光太は頷いた。
真似するように光太もコップに手を伸ばし、ジュースを飲み干す。
なんともぼけた味が口の中に広がった。
学校裏の森まで、自転車を漕ぐ。
体に当たる風が心地よいものの、その足を止めると突き刺す暑さにどっと汗が吹き出てきた。
服が汗を吸い、濡れて肌に張り付く。
二人は森の近くで自転車を降りた。森は入を拒むように高い木々で行く手を阻んでいる。光太は入り口を探し歩く祐志について行く。
木々の隙間から中に入れる場所を見つけると祐志が入っていった。置いて行かれるわけにはいかず、光太もその背を追う。
何度も「止めようよ」という言葉が喉まで出掛かってきていたが、光太はそれをぐっと飲み込んだ。
「弱虫」それは光太がよく言われてきた言葉である。その度唇を噛んで俯くしかなかった自分が嫌いで、祐志が庇ってくれるとさらに惨めな気持ちになっていた。
自分でも自分が弱いと自覚していた光太は森に入れば何かが変わるかも知れない、そう考えていた。
森の中はじめじめとしていて、薄暗く不気味だ。草も伸び放題でそれを踏みしめながら二人は歩いていく。
人が通るべきではない道とは呼べないそこを歩き続け疲れた光太が少し祐志に遅れを取り始めた頃、視界を塞いでいた木々が開け森の奥に不自然な寂れた建物が現れた。
広さはあまりなく二階建てのその建物の外装は剥がれ、蔦が這い手入れがされていないという事が一目で分かる。
祐志は誇らしげに振り向き両腕を開き、
「ようこそ、森の図書館。別名魔女の館に」
光太は唾を飲んだ。
扉を開くといかにもな音が響く。二人は足を踏み入れた。
埃とカビの匂いに光太が思わず眉を歪める。正面には当時は本を貸し借りするため使われていただろうカウンターがかろうじて形を残していた。
ギシギシと音をたてる床を踏みしめながら奥へと進む。
「ちゃんとついてこいよ、はぐれるなよ?」
「分かってるよ」
ひどく頼りない自分の声に光太は情け無くなった。
当時は本がびっしり並んでいたであろう本棚には蜘蛛の巣と埃しかない。倒れている本棚を踏み越えれば窓際まで二人は辿り着いた。
机と椅子がありそこで利用者が本を読んでいたのが窺える。
ふと光太は机の一番端の席に一冊の古びた本があることに気付き、その不自然さから思わず近寄っていた。
表紙の埃を払っても日焼けし色褪せた表紙からはなんの情報も得られない。だがそれは確かに読まれていた痕跡がある。それもつい最近までだ。
だが光太にはそれ以上の事が分からず諦めて本から視線をあげると――。
「あれ」
祐志の姿がどこにもなかった。
「ゆ、祐志?」
込み上げてくる不安。焦りに体が震え、思考は上手く巡らなくなり嫌な汗が額を流れる。
自分を驚かせようとしているだけなのではないかと必死に自分を励ましながら光太は辺りを歩き回る。
「祐志? 出てきてよ、もう充分びっくりさせられてるからさ」
努めて明るく言う。だけど返事はない。視界が歪み声が震え始めた。
薄暗い建物の中をぐるぐる歩き回っていると、光太はいくつかの扉を見つけた。従業員の部屋だろうか、書庫だろうか光太には分からない。
光太はおっかなびっくりドアノブに手をかけ開いた。
薄暗く籠もった不快な匂いが光太を出迎える。
「祐志……、居る?」
返事はないが、光太は確認の為に中に入った、次の瞬間背後で扉が勢い良く閉まる音がした。 思わず肩が跳ね上がる。
暗くて何も見えず慌てて引き返そうとすると、ぼんやりと何かが光る。
「え?」
「君、迷子かい?」
揺らめく炎を閉じ込めたランプを手に、光太と同い年くらいの少年が現れた。
「う、うん。君も迷子?」
「そんなとこかな」
その少年は優しく笑い、光太は安心したような表情を浮かべる。
「やっと見付けてくれた」
「え?」
「ううん何でもないよ、君は友達を探してるんだろう? 行こう」
少年が扉を開ける、すると光太は驚いた。
「凄い綺麗な銀髪だね」
肩に毛先がかかるさらりとした少年の髪色はまるで向こう側が透けて見えるのではないかと錯覚させられそうな程の、透明感のある銀の色。
少年はぴたりと歩みを止めた。
「綺麗?」
「え、う……うん。綺麗だと思ったからつい」
男相手に綺麗はまずかったのだろうかと光太は困ったような声をだす。だが光太の心配とは裏腹に少年は嬉しそうに笑った。
「君は優しい人だね」
「え、そうかな?」
少年の言葉の意図がよく解らず首を傾げた。
銀色の髪の少年は自分を「銀」と名乗り光太に色々と質問を重ねていた。最近の流行りや普段は何をして遊ぶのか等と聞く銀に光太は丁寧に答えている。銀は人懐っこく笑うため光太はだんだんと緊張を忘れていった。
「銀はもしかして友達いないの?」
「え……」
「あ、ごめん。なんか話聞いてたらそう思って。居ないならさ、オレが友達になるよ! 祐志にも紹介するからみんなで遊ぼう」
「光太クン……、ありがとう」
銀は嬉しそうに笑って頷いた。
「また会いに来てくれる?」
「当然だよ! 約束する」
そう言うと銀は笑って、光太の背中をぽんっと押す。光太は前につんのめった。
「光! どこ行ってたんだよ」
少し長めの金髪を汗で濡らした祐志が焦ったように寄ってきた。
「祐志……、あ、あのね」
銀を紹介しようと振り返るとそこには誰も居なかった。
「あれ……」
「なにやってんだよ光! 暗くなってきたから帰るぞ」
光太は不思議そうに首を傾げ何度も後ろを振り返る。しかし誰も見つけられなかった。
家に帰る頃には外は真っ暗になり森に入ったため、二人の衣服は汚れ家につくと互いの両親にその理由を追求され、押しに弱い光太は嘘をつき通せず祐志と森に入った事を話してしまい二人は互いの両親そして生徒指導の武村にこっぴどく叱られる羽目となった。
それから光太は森に一度も入っていない。月日が経つにつれ森の図書館で出会った少年の事を忘れていった。
光太が高校生になるころには噂はまた形を変え、今度はあの森で中学生が自殺したという噂が流れていた。
そして光太達のように森に入る子供が少なくないため森は伐採される事が決まり、それに伴いあの図書館は取り壊される事が決まった。
「…………」
光太はどこまでも澄んだ青空を見上げる。
雲一つない晴天だ。
だけど光太はどこかつまらなさそうに通い慣れた学校の帰り道を他の生徒と変わらないグレーのブレザーに同じ色のズボンを身に纏い少し踵の潰れた靴を履いた姿でぼんやりと歩く。
誰かが髪を染めたから、誰かが踵を潰すからとみんなと同じを繰り返し結局高校生になった今も光太は自分を見つけられずに居た。
光太はこれからも自分は自分らしさを見つけられず過ごすと諦めている。何をしてもそれは自分らしさではなく、誰かの真似事。
じゃあ自分とは何なのだろうか。
答えの出ない自問自答をぐるぐる繰り返し、気付けば森の前に立っていた。
空は淡い藍色で、遠くでカラスの鳴く声が聞こえる。森は相変わらず鬱蒼と茂り草の深い匂いが鼻につく。
その森の奥にはきっと、今までと違う未来がある。初めて森に入った時光太は確かにそう思っていたのだ。
あの頃のような恐怖はもうない。
恐怖するという事は希望を持つことだ。恐怖すらなくなった今、光太の体を支配するのは諦めの感情。
一歩一歩と草を踏みしめ進む。
「君もそうだったの?」
「そうだけど違うよ」
森の奥にある古びた図書館で光太は話しかける。
返ってきた言葉にはなんの感情も感じられなかった。
「他の人と違う事に絶望したんだ。この髪のせいで虐めにもあった」
「オレと真逆だね」
銀と光太は笑い合った。
「約束守ってくれてありがとう」
銀が小さく呟く。
「君は生きることを諦めたの?」
光太の声は黴た木目の床にじわりと染み込むように建物の中に溶けて消える。
「そうだよ」
「怖くなかったの?」
「諦めていたから怖くなかったよ」
「オレはまだ怖いよ」
力無く光太が笑った。「じゃあまだ希望があるんだよ」と銀が笑う。
「君も、まだ希望があるから諦め切れてないからここに居るんだろう?」
銀は何も言わなかった。
「友達が欲しかったんだ、ただ笑い合ってふざけ合って馬鹿が出来る友達が」
悲しげに銀は声を震わせた。
「人並みのものを望んてた筈なのにね」
その言葉を光太は自分の状況に置き換える。
「そうだね」
呟いた言葉は、自分の胸に落ちてきて深く突き刺さるようだった。そんな光太心を見透かしたように銀が口を開く。
「自分で見つけなきゃ誰も見つけてくれないよ」
まるで歌うように銀が呟くと光太の背中をいつかのようにとんっと押した。
光太は銀に別れをつげ森を後にする。そして二度と銀と会うことはなかった。
光太の日常は何ら変わらず流れていく。森の奥で図書館を見つけてもその日常は大して変わらない。もし自分が居なくてもきっとなんら変わらないだろうと光太はぼんやり思う。
そんな毎日がただ流れていく。
光太は踵の潰れた靴を捨てた。
新しい靴を履きドアを開く。
朝日を浴びた光太のその瞳は、見えないなにかを必死に見つけ出そうとするそんな目だった。