第二話「母と子供~3歳」
sideとかめっちゃ使うんやっ
side~鳴海優香(母)~
「相変わらずクミ君は大人しいねぇ~」
黙って絵本を読む玖未に頭を撫でながら話しかけると、こちらをその円らな瞳で見返してきて、ニヘラァ~と笑みを溢す。
可愛い。
しかし、世間では『魔の三歳児』などと言われる様な、理不尽に暴れたり、駄々を捏ねたり、人の手を噛んだり、大声を出したりということのない我が子が、その手間がないことに安堵しながらも、少し心配になってしまうのは、人によって嫌味に聞こえるかもしれない。
「それじゃあ、お母さんちょっとお買い物に行って来るから、お留守番しててね?」
そう優しく問いかけると、玖未は頭を大きく動かして「うん」と返事をした。
可愛い。
とはいえ、着替えをし荷物を用意しながらも、三歳児を家に一人残して買い物に出かけるのはどうかと考える。いつもの事ではある。もちろん、一人で買い物したほうが効率は良いし、変な神経を使う必要がないのだが、仮に「一緒に行く?」と玖未に聞いても、「おうちにいるから大丈夫」と至極当たり前に返答がくる。
この歳にして引き篭もり気味のわが子である。むしろ積極的に外に連れ出すべきなのかもしれない。
それでも、さして裕福とは言えない家計。大人しく良い子であることをいいことに、私がパートの仕事の時でも保育園に通わせず、忙しい家事の合間を縫うようにと理由をつけ、効率を優先させて買い物の時も留守番をさせる。
良いのだろうか、とたまに思う。
それでも私は慌しく靴を履き、「それじゃあ、お母さん行って来るね~」と思考を停止させ、今日の献立や日用雑貨の消耗具合を検討しながら、玖未に手を振る。
玄関先まで見送ってくれた玖未は「いってらっしゃい、お母さん」と笑顔で手を振ってくれる。
可愛い。実に。
side out
我が母ながら、実に忙しないことである。
今のこの段階になってやっと気付いたが、前の記憶の母に対して『放任主義』と勝手に決め付けていたが、それは半分当たっていて、半分間違っている。
母は放任主義な訳ではない。
物事を考えることができない人種なのだ。
脊髄反射で生きている人種というのは存在している。人生を反復作業の集積で生きるタイプの人間だ。
経験を逸脱した予想外の出来事には思考が停止する。
元々は比較的裕福で躾のキチンとした家の出であるから、未成年で煙草や酒を飲むといったことはありえない出来事だと考えている。
実際に前の記憶で、高校生の時に、煙草や酒で補導された時、母は基本的に頭ごなしに叱りつけてきた。そして最後に疲れきったような態度で頭を抱えていた。その様子を、言葉にされた訳ではないが、『好きにしなさい』と言われた様な気がした記憶がある。
しかしそれでも、良い母であった。父の死によって抜け殻のようになり、それでも子供達に苦労はさせないと反動の様に一心不乱に仕事と家事を両立し、そのまま倒れてしまうくらいには。
泣くことのない自分が、その時だけはいつまでの泣き続けた。
親友が死のうとも、恋人が死のうとも泣かないだろうと考えていた自分が、唯一泣いた出来事。
碌な親孝行は出来なかった。もちろん、しようと思えば出来た。がむしゃらに働けば、旅行ぐらい連れて行けただろう。しかし、そんな気力はなかった。そんな状態、状況に自分を持っていけることができなかった。
親孝行をしようと思う。そのために、親孝行をしやすい環境を整えるべきだ。
良い学校、良い職場、良い恋人。それは環境でありながらも、親孝行ともなるはずだ。
―――ひとまずは、三歳児を一人家に『取り残す』我が母に、生暖かい目を向けながら手を振るべきだろう。
なんか面白くなるための要点をうまくはずしている気がする。