雨に紅葉がよく映える
/1
出会いは、土砂降りの雨の中。
誰もいない公園、その真ん中で雨に打たれ、心までずぶ濡れになった俺に、ソイツは声を掛けた。
「君もひとり? だったら私と同じだね」
だからどうだと言うのだ? 下らない同族意識は願い下げ、そっぽを向くことで意思表示。
カタチだけの同情なんていらない。
ウソを描いたようなわざとらしい笑顔もいらない。
必要なのはただただ安息。
冷たい雨に打たれて、逝くこと。
それで十分。
神様、生きることに疲れました。
孤独でいい、願わくば、安らかな休息を下さい。
「ホラ、風邪ひいちゃうよ? 君が入るにはこの傘じゃ小さいし、あっ、そうだ。こっちおいでよ」
強引なその女は、嫌がる俺を無理矢理、公園の端へと引っ張っていく。
冗談ではない、放せ。
俺のことは放って置いてくれ。
紅い葉がゆらゆらと、雨の海に船を漕ぐ。
大きな木の下、朽ち逝く葉が傘となり、体に降り注ぐ冷たい槍を遮った。
「ここなら少しはマシでしょ。今の季節の雨だし、ちょっとしたら止むよね」
コイツ、一人で話を進めて一体なんだというのだ。
大体俺には雨宿りなど必要ない。むしろ雨に打たれていたいくらいだ。
そう、感覚が凍ってしまうほど冷たい雨に。
そう、心の澱を洗い流すくらい激しい雨に。
何も感じなくなるまで……。
女はそっと、俺の頭に手を近づけた。
反射的にその手を払い、更に女に飛び掛る。
思ったよりも力が入ってしまったのか、ソイツは木の幹にぶち当たった。
幹から伝わった衝撃で、ポタポタと頭上の葉から雫が零れる。
やめてくれ、俺に構わないでくれ。
どうせお前も、俺を裏切るんだ。だったらはじめから、優しい顔を見せるのはやめてくれ。
俺は顔を歪める女に背を向けて、再び冷たい雨の中に踏み出す。
これでいいのだ。裏切られるくらいなら、最初から信じなければいい。
いつかまた訪れる孤独に怯えるくらいなら、このまま独りで、消えていけばいいのだ。
振り返りはしない、今は驚いて目を丸くしているであろうこの女も、どうせ「せっかく情けをかけてやったのに」と憤るのだ。
所詮は自己満足、優しい自分に酔っているだけ。それに飽きてしまえば、俺などただの邪魔者に過ぎない。
俺は、それを嫌と言うほど分かっているんだ。
背後で、女が立ち上がる気配がする。
見ろ、今に呪いの言葉を呟くぞ。「何様のつもりだ」と。「優しくしてやったのに」と。
「紅葉……」
ほら、やっぱり思ったとお……何?
「紅葉をね、追いかけて遊んだの。
もうすっごい昔の話だけと、ハイキングに行って、ひらひら落ちる紅葉をさ、一生懸命追いかけて。
楽しかったなぁ。他にも今まで色々楽しいことがあったけど、あの時が一番楽しかった」
なんだ、この女は? いらないお節介を焼いて突き飛ばされて、お次はどうでもいい懐古話。頭がおかしいのではないか。
それに貴様の思い出など、俺にとってはどうでもいい瑣末事。
俺ような奴は放っておけばいいのだ。独り善がりの慈善事業なら、他所でやるがいい。
生憎様、一時の同情に恩を感じるような殊勝な感情は、それこそ遠い昔に紅葉のようにハラハラと散ってしまっている。
どちらにせよ、こんなわけの分からん女とは関わらないほうがいい。
「綺麗だったんだ」
女は俺の背中に語りかける。
本当に、この女は一体どういうつもりなのだろう。
頭上の葉に雨が弾ける雑音の中、妙にこの女の言葉だけが冴えて聞こえた。
「不謹慎だけどね、散っていく紅葉が凄く綺麗に思えた。役目を終えて、散って、腐って、土に還っていくだけの紅葉をね、綺麗だと思った。羨ましいと思った」
横目で、女を振り返る。
雨の向こう、ここではない遠いどこかを見つめる瞳には、あどけない少女のような、純粋な、曇りのない輝きが灯っていた。
「辛いときはさ、いつでもそういうことを考えちゃう。なんだろうね、私もこの紅葉みたいに命一杯生きてるんだぞーって真っ赤に燃えて、最後まで綺麗に散って逝きたい」
なんだ? さっきからこの女は何を言っているんだ? さっぱり分からん。
分からないがしかし……なんだろうこの気持ちは。
乾いた砂に染みこむ雫のように、彼女の声が俺の中に入り込んでくる。
ダメだダメだ! 一体俺は何を考えているんだ。
信じるのか? この女を信じるのか?
熱に浮かされているだけだ、そうに違いない。
その証拠に、随分と頭が呆、と――。
「君さ、行くところがないなら私の家においでよ。私も1人、君も1人。でも一緒にいれば2人だよ。2人ならきっと寂しくない。さ、行こ」
女は味気のないビニール傘を折りたたんで、短い黒髪を揺らしながらゆっくりと歩き出した。
ついて行くものか、第一、体が重くて、頭が痛い。
「どうしたの? ぼうっとして……君、大丈夫? ねぇ、ねぇ!」
次第に、女の声が遠くなる。
意識が泥の中に沈んでいく。
見上げた空、雲の切れ間からは蒼が覗いていて、視界の隅、真っ赤な紅葉が落ちていった。
/2
薄く、目を開らく。
一体どれだけの時間眠っていたのかは定かではないが、空のてっぺんには燦燦と太陽が輝いていることから考えて、丸1日近く眠っていたらしい。
だがどうにも熟睡していた、というわけではないようだ。
それというのも、熱のせいか、おぼろげながら意識が切れ間なく持続していたらしき感覚が頭にのっかっていて、それ以上に全身が、鉛にでもなってしまったかのように矢鱈と重たかったからだ。
「うーん、まだ辛そうだね? お医者さん行った方がいいかな?」
頭上から、声が投げかけられる。
いいから、もう放っておいてくれと、俺は寝返りを打った。
どうして、俺はここにいるのだろうか。なぜこの女の家にいる?
いや、仕方ないといえばしかたなかった。恐らく長時間雨に打たれていただろう、無理矢理俺を連れて帰ろうとするこの女に抗う力が、俺にはなかったからだ。
ああ、後頭部がズキズキと重たく痛む。あのまま雨に打たれていれば、眠るようにやすらかに逝くことが出来たかも知れぬというのに……。
「ホラ、ご飯。食べられる?」
女が食い物をいれた皿を俺に差し出した。
頼むから、もう放っておいてくれ、それに今は腹など減ってはいない。それよりもこの寒さ、この痛み、なんとかならんのか?
「食べなきゃダメ。ホラ、口あけて」
意識が朦朧とするなか、女が無理矢理口を開けさせて、食い物を放り込んだ。
「よく噛んでね。そう、はいもう一口」
味のしないゲル状のものを噛んで、飲む。
飲み込めば、次が差し出される。
食え食えと、うるさい。お前こそ朝から妙な錠剤しか口にしていないのを俺は知っているぞ。
「飲み込んだ? うん、じゃもう一口、がんばって食べて」
なぜだ? どうしてこの女は、俺に食べ物を与える?
どうして、俺は、暖かい毛布に包まれている?
一体、こいつはなんの得があって俺に構うのだろう? 優しくするのだろう?
分からない、分からないが、この女を信じてはいけないと、理性がそう言う。
そうだ、いずれはコイツも、俺を裏切るのだ。
邪魔だと、汚いと、俺を蹴り、棒をもって追いかけ、石を投げつけあっちに行けと喚く。
寂しかっただけなのだ。
独りが怖かっただけなのだ。
だから身を摺り寄せた。だから助けてくれと叫んだ。
けれど、身を寄せれば寄せるほど、叫べば叫ぶほど、相手は俺を拒絶した。
俺はもう、疲れたんだ。
生きることに、拒絶されることに疲れたんだ。
孤独でもいい、早く楽になりたい。
そう、だからこれは気の迷いなのだ。
こんなにも胸が温かいのは、きっと熱のせいに違いない。それ以外の理由なぞ、ありえないのだ。
口の中、さっきまで味がしなかったそれは、妙にしょっぱかった。
/3
「よし! いこう!」
準備万端、意気揚々と彼女は玄関の扉を勢いよく開けた。
まったく元気な奴だ、こっちはまだ病み上がりだというのに。
呆れながらもその後に続くが、2週間ぶりに屋外に出たからだろうか?
柔らかい風が頬を撫ぜるのは、まだかすかに重たい体を引きずる陰鬱な気分を十分に飛ばしうるものだった。
刻は黎明、朝焼けが目に眩しい。
彼女のアパートを出て20分、国道沿いに歩いていくと目的の山にたどり着いた。
日ごろから極端に食が細い上に、この2週間、一度も外に出なかったことを考えると、体を動かす機会が多くないであろう彼女は、息も絶え絶えといった様子だったが、ハイキングコースの入り口を見つけるなり、「ああ、ここだここ! 懐かしいなー、何年ぶりだろう?」
大きな荷物を担ぎなおし、元気溌剌、とまではいかないにしろ、力強く足を踏み出した。
雨上がりの森の薫りが柔らかく鼻をくすぐり、木々の間から差し込む木漏れ日が程よく暖かい。
彼女はぬかるんだ地面に悪戦苦闘しながら、それでも極上の笑顔で歩みを進めていた。
木の実を頬袋に溜め込むリスを見つけてはきゃーきゃー。
木の幹を這うトカゲを見てはぎゃーぎゃー。
道ゆく途中の小さな滝を見つけては、気持ちいいーと深呼吸。
そして、笑うのだった。
「ちょっとここらへんで休憩しようか?」
中腹の高台、木陰に備え付けられた小さなベンチに座り、彼女は持参の水筒を取り出し、水をコップに注ぐと、お決まりの錠剤と一緒にチビチビと飲む。
毎日飲んでいるのだから、どうやら彼女はよっぽど錠剤が好きらしい。
高台から一望できる景色は絶景で、青空の下、雄大な山々が燃え盛るように真っ赤染まっている。
澄んだ空気は肺に心地よく、頬を撫ぜる風は優しい。
はい、と彼女が俺にも水を入れてくれた。
久々の外出、それにあまりにも山の空気が心地よいと言うこともあって、少々羽目をはずしてしまったものだから、俺も喉が乾いていた。
彼女が浅いコップに注いだ水を一気に干すと、
「お? お客さんイケる口ですねー、まだ欲しいの? はいはい、ちょっと待ってね」
彼女は笑いながら、コップに水を注いでくれた。
「ここね、小さい時にお父さんと一緒に来たんだ」
木々の間をすり抜ける風が、ふんわりと彼女の黒い髪を揺らす。
「母さんはね、私が小さいときに家を出ちゃって、顔も覚えてないんだけどさ。父さんは優しかったなぁ。どんなに忙しくても私との時間を作ってくれて、休みの日はずっと傍に居てくれて。
外に出かけることは滅多になかったけど、その少ないうちの一つがここなんだ。
はじめは私、ごねちゃってさ、なんでこんなしんどいことしなきゃいけないんだーって、お父さんのバカってね。
お父さん、今思い出すと相当困った顔してたなぁ」
クスクスと、遠く、空を眺めながら彼女は笑った。
「しかもね、もうちょっとで頂上ってところでさ、雨が降ってきてね。終には私も泣き出しちゃって、それでもお父さん、登るのを止めようとしないの。
聞きなさい、止まない雨はないんだよって。
私はまだ小さかったから、そんなこと知るかーって感じで、お父さんにおんぶされながらわんわん泣いた」
相変わらず、昔話の好きな女だ。そんなこと、俺にとってはどうでもいいというのに。
それとも何か、俺に話して得でもあるというのだろうか?
それにしても、どうして俺は、こんなところにコイツと出かけて、コイツの話に耳を傾けているのだろう?
「でも、頂上につくころには雨も止んでてさ、ちょっと霧がでてたから景色は楽しめなかったけど、そのかわりおっきな木があってね。
燃えてるみたいに真っ赤な紅葉が降ってて遠くから見ると紅い雪が降ってるみたいだった。
すごく綺麗だった。
私はお父さんと一緒に落ちてくる紅葉を拾ってね、3枚とったよ! って、そしたら父さんは5枚とった!
って言うもんだから私、ムキになっちゃって、空が夕日で染まるまで遊んだ。もう、めちゃくちゃ楽しかった」
ふと、真っ赤に燃える紅葉が降りしきる中、小さな少女が両手一杯に紅を抱えて、得意満面と笑っている光景が脳裏に浮かんだ。
それは実にほほえましく、暖かい光景で……。
違う、どうして俺がこんなことを考えねばならない。
どうでもいいではないか、こんな女の過去など。ああ、下らん。
せっかくこんなに気持ちのいいところに来たのだ、女に合わせて、チンタラ登ってもつまらん。
さっさと頂上に行って、適当に遊んだらこんな女とはもうおさらばだ。
「お父さんは去年死んじゃったんだ」
頂上に向かった脚を、思わず止めてしまった。
「私はどうしても外せない、大事な仕事があって、病院でもう少し傍に居てくれないかって言うお父さんのお願いを聞けなかった。
お父さんはそうか、って笑って送り出してくれた。その日の夜遅く、お父さんは逝っちゃった。
辛かったと思う。苦しかったと思う。けど、お父さんは最期まで、泣き言を言わなかったんだって。
神様は意地悪だよ……。けど、私はもっと意地悪な子だった。
父さんが死んでから、私もすぐに体調を崩しちゃってね。
入院して、仕事もできないし、最初はお見舞いに来てくれた友達も今じゃさっぱり。
寂しいけど、でも仕方ないの。
私のせいなんだから、お父さんが死んだのは。
あの日私が傍にいてあげれば、もしかしてお父さんは……、
けど、最後にもう一度、どうしてもこの山に来たかったんだ。お父さんと紅葉を追いかけた、この山に」
唐突に、分かってしまった。
こいつは、俺と同じなんだ。
孤独で、寂しくて、理由は違うけれど、他人に身を寄せることが出来なかった。
独りなんだ。
どうしようもないほどに、孤独なんだ。
彼女は睨みつけるように空を見ている。
いや、彼女が見ているのは、恐らく空のずっと向こうなのだろう。
眼に溜めた涙を決して零さぬよう、精一杯我慢して。
「今はもう、大丈夫。寂しくないよ、君がいるから」
くしゃり、と彼女が俺の頭を撫ぜた。
おぼろげだったものが、確信に変わる。
何があってもこの女は、俺を裏切らないだろう。
孤独の苦しみを知る彼女は、決して俺を孤独の闇に突き落とすことはしない。
信じていいのだ。この女に、身を寄せてもいいのだ。
大丈夫、俺ももう寂しくはない。
そしてお前に寂しい思いもさせない。
1人なら寂しい夜も、2人ならきっと、楽しく過ごせるであろう。
俺はお前を信じる、これからはずっと一緒だ。
摺り寄せた頭を、彼女はより一層、優しく撫ぜてくれた。
「さ、行こう。頂上まで後半分だよ」
よいしょ、とばかりに彼女が立ち上がる。
孤独の闇から俺を救い出してくれた彼女に対して、俺はいったいなにができるだろうか?
今はまだ、何ができるのかはわからない。
けれどもそれはこれから見つければいいであろう。
これから彼女と過ごしていくなかで、彼女がずっと笑っていられるように、俺にできることを探せばいい。
今はただ、頂上の紅葉を目指して、彼女と共に歩もう。
舞い散る紅葉と戯れる、彼女の笑顔を目指して。
――――異変は唐突に。
時間が、随分ゆっくりと感じられた。
彼女の膝が折れる。
虚空を見上げた彼女の頭がぶれる。
指先から硬直した彼女の体が、地面に向けて倒れていく。
一瞬の永遠。
まるでストロボで映し出された陳腐なアニメーションのように、
彼女の四肢がぬかるんだ山の土の上に投げ出される。
ぽつぽつと、雨が降り出していた。
/4
あれからもう1日が過ぎた。
彼女が倒れたすぐあとに、たまたま通りかかった老夫婦に助けられ、俺たちは車に乗せられて我が家に帰り着いた。
老夫婦は散々病院に行くことを進めたが、彼女は頑なにそれを断った。
死んだようにベットに横たわる彼女の呼吸は荒く、皺を寄せた眉間からは滝のような汗が流れている。
時折、苦しげに呻いては腹を押さえ、けれども決して痛いとは言わない。
さらには眼を見開いたかと思うと天井に向けて手を棒のように突き出し、ガクガクと痙攣し、嘔吐を繰り返す。
それでも、数時間置きに眼を覚ます彼女は、傍らに俺がいることを確認して、笑うのだった。
何が可笑しい? 何故笑う?
お前は、裏切るのか。
お前も他の奴らと同じように、俺を裏切るのか。
お前は、俺にまた独りに戻れと、そう言うのか。
信じた瞬間に、俺を裏切るのか。
お前も同じだ。
お前も、俺を汚いと、うるさいと、死んでしまえと呪う連中と、同じだ!
死ぬな。
死ぬんじゃない、勝手に死ぬな。
俺を裏切るな、独りにするな!!
独りはもう……嫌なんだ。
外の雨はまだ止まない。
/5
帰ってきてから2日目の夜だった。
その日の彼女は呼吸も随分落ち着いて、きっと朝に飲んだ薬が効いたのだろう、幾分痛みもマシになっている様子だった。
今は安らかな寝息を立てながら眠っている。
俺は、どうしてまだコイツの傍にいるのだろう?
コイツはもう間もなく、死ぬ。そのくらいは俺にだってわかる。
そうなったら、コイツはもう二度と、下らない昔話をしない。もう二度と、俺に飯を作ってくれない。
もう二度と、笑わない。
俺は、コイツに対して何もすることができないのだ。
苦しむ彼女を前に、何もすることができない。
俺は彼女を救えない。
全てを与えてくれた、愛情を与えてくれた、生きる意味を、価値を与えてくれた彼女が苦痛をかみ殺して泣いているのに、俺はただ何もできずに傍にいる。
孤独の闇はもう既に、目の前で大きな口をあけて俺を待っているのだ。
闇に喰われる恐怖に怯えるなら、自ら飛び込んでいったほうがまだいい。
彼女を失う恐怖に怯えるなら、それを待たずに逃げてしまえばいいのだ。
なのにどうして、俺はまだここにいるのだろう?
「よかった……まだ、いてくれたんだね」
雨が窓を打つ音に、ギリギリかき消されない程度の、掠れた声だった。
「聞いて、欲しいことがあるんだ。君には、分からないかもしれないけど」
触れれば壊れてしまいそうな硝子細工のように弱弱しい彼女は、蚊の鳴くような小さな声で話す。
「私ね、自分で言うのも難だけど、結構デキル女だったんだ。仕事も人間関係も、恋愛も含めてね。
私は強いと思ってた。後輩の悩みを聞いてあげて、上司の愚痴を聞いて、彼氏を慰めてあげて。
ああ、弱い人たちだって。私が助けてあげなきゃいけないんだって。
今思うと、本当にバカ。私はただ、皆に優しい自分に酔ってただけなの。
優しい自分は素晴らしいって、ただの自己満足だった。
父さんが死んでね、私は全部のことがうまくいかなくなった。
仕事も、人間関係も、恋愛も、ずっとイライラして、情緒不安定で、挙句の果てに体調をくずした。
ボロボロになった私のことを、心から心配してくれる人なんていなかった。
カタチだけのお見舞いはほんの1週間で終わった。彼氏も上司も後輩も友達も、誰も来なくなった。
だからって、みんなを恨んでるわけじゃないの。本当にカタチだけの付き合いをしていたのは、私の方なんだから」
その小さな声に、感情は含まれていない。
それはきっと、彼女が嫌味や自己嫌悪で話しているわけではないから。
ただ単に、それは既に終わってしまった、変えようのない事実なのだから。
「あのね、君と初めて会った日。あの日、私病院から無理矢理退院してきたの。分からないかもしれないけれど癌なんだ。
腹膜に転移しまくって、体中ぐしょぐしょの糸だらけで、もうどうしようもないってことが、自分でもよく分かった。
私には身寄りがなかったし、先生を説得して、強引に退院してきた。もらったのは痛み止めのお薬がメイン。いつも飲んでたやつだよ。
その時に余命を教えてもらったんだけどね、1週間もたないって、そう言われたの。
だから私、あの日ほんとは死に場所を探してた。病室で、無機質すぎる白い壁と天井に囲まれて死ぬのは嫌だったし、独りきりの部屋で死ぬのもバッドチョイス。
だからってアテがあるわけでもなくて、その時なんとなく公園に紅葉の木があることを思い出してね、足は勝手に公園を向いてた。
そして……君がいたの」
ベットと、小さな箪笥。
埃の積もった本棚と、びりびりに破かれた書類が散乱するデスク。
そして転がり込んだ俺のための毛布と皿。
無機質な空間に、雨の音と、彼女の独白だけが響き渡る。
「不思議だった。土砂降りの雨の公園。そのど真ん中で、何をするわけでもなくて、ただそこに君がいた。
ああ、同じなんだなって思った。
この子は私とおんなじ、独りなんだって。止まない雨の中に、今も独りでいるんだなって」
胸が、熱い。
どうしようもなくこみ上げてきた思いは、涙となって頬を伝う。
「だからね、どうしても他人と思えなくて、どうしても放っておけなかった。自分を呪った。
お前は最低だ、どうせあと一週間で消えてなくなるのに、自分の都合だけで、寂しさを紛らわすためだけに、この子を巻き込むのか、って。
最後まで独り善がりの慈善事業か、偽善者めって。
でも、君との生活はすごく楽しかった。
君は意地っ張りで、なかなかご飯を食べてくれなかった。
私が触れようとすると、君は怒って私に噛み付こうとする。
でも、ホントは凄く優しくて、夜、痛みを我慢する私に、そっと背中を寄せてくれたよね?
そのうちに、1日が過ぎて、2日が過ぎて、3日が過ぎて、1週間が過ぎて……。
私、もしかして死なないんじゃないかって思った。
このまま君と、ずっと暮らしていけるんじゃないかって思った。
でも、神様は正しくて、残酷だったよ。お父さんを見捨てた私に、そんな都合のいい話を用意してくれたりしなかった。
だからこれは当然の罰なんだよ」
違う。
断じて認めるものか、お前は今も父を愛しているではないか。
その日父が死ぬのを分かっていて、父の願いを聞き届けなかったのではないだろう。
父の願いを聞き入れなかったことを後悔しているではないか。
お前が死ななくてはならない理由なぞ、これっぽっちもあるものか。
「あは、くすぐったいよ。君を残して逝くのだけが残念なの。ごめんね、こんなことなら君も私と知り合ったりしなきゃよかったね」
そんなことがあってたまるか!
逝かせんぞ、絶対に、このまま逝かせてなるものか!
俺はまだお前に何も返してはいない。だからまだ逝くな。
まだ死ぬな。
「ひっく……えぐ……」
小さな、小さな嗚咽が漏れた。
「死にたくない……死にたぐないよぉ! もっと一緒にいたいよ! もっと一緒にキミといたいよぉ」
ずっと、堰きとめていた願いが、瀑布のような涙となってあふれ出す。
彼女は泣いた、喚いた。
死にたくないと、そう願った。
――――止まない雨はない。
けれども、雨は、まだ降り続いている。
/6
時計の針は昨日を振り切り、今日の始まりを告げていた。
夜の海は深く、天蓋めいた厚い雲に覆われて、月の光さえ見当たらない。
夜を駆ける。
次第に強くなる雨脚に、体をずぶぬれにされて、
全力でアスファルトを蹴り続けた脚には既に血が滲んでいる。
俺にできること。
考えつく、たった一つの方法。
泥にまみれた体は既に衰弱しきっていて、一歩踏み出すにも背骨を直に殴られるような鈍痛が奔る。
長時間雨に打たれたせいか、視界が霞む。さらには追い討ちをかけるように濃い霧が出てきた。
ついさっきまで気がつかなかったが、地面から突き出た枝ででも切ったのだろう、脚からおびただしい量の血が出ていた。
知ったことか。
たとえこの眼が光を失おうとも、
たとえこの脚が千切れようとも、
必ず彼女を救ってみせる。
俺にできる、俺にしかできない唯一の方法で。
雨よ、今は降りたければ降るがいい。
だが思い知れ、止まない雨などないのだ。
/7
重たい扉を、体で押して開けた。
暗い部屋はあまりにも静かで、遅かったのではないかと悔やむ。
ずぶ濡れの冷たい体を引きずって、暗い部屋の中に入った。
大丈夫、手遅れではなかった。
ベットに眠る彼女の胸は、静かに上下している。
だが、それもごく弱弱しいものだった。
彼女の体をそっと揺さぶってみると、遠くを見ていたあの瞳が開かれた。
「あれ……いるの?」
ああ、ここにいる。
ちゃんとお前のところに帰ってきた。
「あれ……ねぇ、どこ? 真っ暗で何にも見えないよ」
ああ、電気だな、ちょっと待っていろ。
背伸びをして、蛍光灯のスイッチを入れた。
チカチカと、力なく明滅しながら、蛍光灯の無機な光が部屋に広がる。
「どこ? どこにいるの?」
おい、何を言っているんだ?
俺はちゃんとここに……。
「ねぇ? 真っ暗だよ。電気つけてくれないと何にも見えないよ」
鈍器で、頭を殴られた。
比喩ではない。
眩暈がする。
神などこの世に存在するものか。
居たとしたら、俺がそいつの喉笛を食いちぎってやる。
貴様は彼女から命を奪うだけでは飽き足らず、光まで奪おうというのか。
「どこ? 怖いよ……。私、私」
大丈夫、俺はここにいる。
もうどこへも行くものか。
ずっとお前の傍に居る。
「あ……ここにいたんだ。そっか、私もう目が見えないんだ。
あれ、君、ずぶ濡れだよ? どっか行ってたの?」
ああ、お前に渡すものがある。
分かるだろうか?
くわえたものを、そっと彼女の鼻に近づけた。
「え? なに? どうしたの?」
光の宿らない瞳を虚空に彷徨わせて、彼女は鼻先に突きつけられたものに困惑する。
しかし、そんなものはほんの僅かな間だ。
それがなんであるか、彼女に分からないはずはないのだから。
「――――紅葉」
震える声だった。
「君……これ、採りに行ってたの? わ、私のために? こんなに、こんなにずぶ濡れになってまで」
濡れて冷え切った体、それを抱きしめられる。
抱きしめられた腕は細くて、弱弱しくて、頼りなくて、けれどもあふれ出す愛情を込めて。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう……! 暖かいよ、暖かいよぅ……」
手にした真っ赤な紅葉と同じくらいに、顔を紅潮させて、彼女は泣いた。
ずぶ濡れの、泥だらけの、冷たい俺の体を抱いて、彼女は暖かいと、そう言った。
いつしか、外の雨は止んでいた。
/8
国道沿いを歩き、小さな滝を越え、中腹の高台を越えて、山頂を目指す。
ズタズタになった脚の一本はもう使い物にならなくて、ひょこひょこと、不自然な動きで緩やかな勾配を上っていく。
坂の終わりに近づくにつれ、視界が開けてゆく。
連日の雨に打たれて、随分貧相になってしまった真っ赤な紅葉の木はしかし、まだわずかに、葉が残っていた。
役目を終え、ハラハラ儚く、けれども美しく、紅い葉が落ちる。
今となってはもう昔、父と2人、無垢に紅葉を追いかける少女に思いを馳せた。
そのとき、少女はいったいどんなふうに笑っていたのだろうか?
ぽつぽつと、雨が降ってきた。
止まない雨はない。
空はいつか、きっと晴れる。
それなら、お前の心の雨は止んでいたのだろうか?
それなら、お前の心の空は晴れていたのだろうか?
それはもう既に確かめようのないことだ。
お前は幸せだったろうか?
俺は――――。
今は散りゆく紅葉に見とれながら、ただ、雨に打たれて眠りたいと思った。