6章 やがて恋に至る感情
「明日、故郷に帰るまでは、俺たちは普通の人間だ。だから普通の人間として最後まで楽しもう。……泣くのは向こうに帰った後でもできるだろ」
「……うん……」
そう返事をした彼女だが、涙を止めることはできなかった。
それでも溢れる涙を両目から零れさせながら、彼女は不器用に笑った。
……そうだ。最後まで笑顔で居続けてくれ、ハル。
だって俺は願ったのだから。少しでも楽しい思い出を持ち帰ってくれればいいと思って今まで過ごしてきたのだから。
だから、最後の一瞬まで楽しんでほしい。例え祖国に帰って、化物としての毎日がまた始まるとしても……思い出だけは忘れずに生きていてほしいから。
「……で、俺から一つ提案があるんだけど」
「なに……?」
「ベッドからマットレスとシーツ引っぺがしてきてリビングに持ってきて、ここで寝落ちするまで喋ったら超楽しそうじゃないか?」
「なにそれ、たのしそう」
世にも稀な天才を見るような目で見つめられる。秘密基地とかキャンプとかなんかよく分からないワクワク感のある行事が好きそうなハルのことだから、きっと乗り気になるだろうと確信していた。
「善は急げだ。明日も早いし、早速準備するぞ」
俺たちはわざとらしいくらいに明るい口調で、日常が終局へ向かっていることを意識しないようにしながら、いつもの日常を取り戻そうとする。
悲しみを僅かたりとも見せないよう今までの自分たちを演じながら準備を進めていき、時間をかけてようやく二つのマットレスをリビングに運び終える。いつも寛いでいる場所に寝具が置いてあるのは異様の一言でしか表せない光景だが、ハルは妙にテンションが上がってマットレスにエルボードロップをかましていた。
埃を巻き上げるなとハルのケツを一発しばいてから、俺は部屋の電気を消す。
仄かな月明かりが窓から差し込み、海中のように蒼く、けれども闇の昏さを纏った色が部屋の中を包み込む。俺たちは並んだマットレスに向かい合うようにして寝そべり、薄暗い部屋の中、互いの顔を見て少しだけ笑った。
「……ハルはよく笑うようになったよな」
「そう? なんかもう、ずっと昔からこうだった感じがするわ」
「最初この世界に来た時はまだ魔法界での自分を引きずってただろ。能面みたいに無表情な女と二人暮らしなんて神経すり減ってノイローゼになるんじゃないかって恐れ慄いてたぞ」
彼女がこの世界に来たばかりの頃は、何一つ感情を出さず何かに感銘を受けることもない、兵器として都合のいいような人格を刻まれた状態だった。
家から出ることもなく、ただ部屋の隅で何もない空間を見つめていたハル。……娯楽も趣味も余興も何も知らない彼女には、余暇の過ごし方など身についていない。だからただ身動ぎせず、帰還する日を待ち続けようとしていた。
そんな状態のヤツと一緒に暮らすと俺の心が病むので、無理矢理手を引っ張って外の世界へと連れ出したんだ。
……俺だって危険を犯したくないタイプだから、積極的に外に出ようとはしなかった。けれども室内で蹲り続ける彼女は見ていて痛々しすぎて、放っておくことなんてできなくて……この世界で、少しでも楽しいことを見つけてくれればいいと思った。
外の世界を知った彼女には、全てのことが新鮮で。戦争のない日常を過ごす人々の生活は、彼女にとって興味深いものでしかなくて。
この家から初めて一歩を踏み出したその日から、彼女はこの世界で楽しいことを探し続けた。
きっとそれは見つかったのだろう。この日々を無くしたくないと彼女が想うのならば、きっとこの世界は楽しいものだったのだろう。
……それだけで、もう十分だ。
きっと俺がこの世界で成すべき役割は、やり遂げられたのだろう。
過去を懐かしみながら、笑い合いながら、ハルと色々なことを話していく。
この世界に来てから数ヵ月間、そこで起こった色々なこと。ハルのワガママのせいで通い始めた学校のこと。友達のこと。仲違いしそうになったこと。明日の学園祭のこと……。
一緒にいたのはたった数ヵ月なのに、どれだけ話しても話し足りないように思える。
たくさん言葉を交わしても、いくら想い出を重ねても、もっと話していたいと感情が揺れていた。
こんな時間が永遠に続けばいいのに。……なんて、委員長が聞いたら喜びそうなことさえ思うほどに、まだハルと共に居たかった。
その感情を何と呼称するのか、化物には分かるはずも無くて。
「……そういえばさ、ホースケとアイって絶対に両想いよね」
「うおッ」
「え、なにその返事と呼ぶにも値しない反応」
ハルの口から恋愛沙汰の話が出てきて、うっかりはしたない声を上げてしまう。
ここに来たばかりの頃は、恋愛なんて概念すら伝説上のものだと思っていた彼女なのに、いつからこんなに色めいてしまったのか。なんだか学校への愛を語り続けた委員長のせいな気がしてならない。
「まあ……恋愛なんてよく分からないけど、特徴としては一致するよな」
「でもさ、もしホースケが自責の念を晴らせたとしても、あの二人って付き合えるのかな」
え? と思わずハルの顔を見てしまう。彼女は似合いもしない真剣な表情で、天井のシーリングライトを眺めている。
「ホースケって、多分……告白とかできないタイプだと思うの」
「どうしてそう思うんだ?」
「変わるのに怯える性質だと思うから」
その言葉を聞いた時――なんだか自分のことを言われているような気がして、胸骨の奥底で心臓が小さく跳ねた。
「本人は変わりたいとか、変われるとか思っても……心の奥底では、変わることへの抵抗感を覚えているタイプ。現状維持が一番心地よくて、ストレスのない生き方だと思ってるフシがあるわ。それに……」
「……それに?」
「さっき鳳輔が去る時に言ってたこと、憶えてる?」
記憶を辿れば――確か、こんな感じのことを言っていた気がする。
『でも、大人になれば失うものも数多くある。俺たちが当たり前のように過ごしている毎日も、いつか手放さなきゃいけない日が来るだろう』
『例え世界の全てを敵に回してでも、絶対に失いたくないものがあるんだよ』
今思えば、随分と後ろ向きの発言だ。先に進むのではなく、現状維持を心の底から望んでいるような、成長を感じられない言葉。
「ホースケは……きっと、今の関係性が崩れてしまうのが怖いんだと思うの。告白をして断られたら、告白をする前にアイがいなくなってしまったら、そんなことばかり恐れてる」
「………………」
「大人になれば幼馴染という関係が崩れるかもしれない、生きていれば彼女を失うこともあるかもしれない、もしかしたら他の誰かと付き合ってしまうかもしれない。それでも告白することができなくて、ホースケは現状維持することを選んだ……」
そんな推察を聞いて、少しだけ驚く。
人の心なんて、ましてや恋心なんて知らなかった彼女が、鳳輔の気持ちを推し量っている。今までの彼女なら理解できなかった微細な感情を推論している。
ハルは、俺の知らないうちに大人になっていく。
今の彼女は、俺すら知らない『人を想う気持ち』を知っているのかもしれない。
「……アイは……幼馴染ではなくなるその日に、宿願である恋人に昇華するその未来に進む為に、委員長の計画を壊そうとしているんだよな」
「そうね。そしてその相手であるホースケは、もしかしたら恋人同士になれないかもしれないという可能性が怖くて、委員長に力を貸している……」
鳳輔はやがて来るであろう恋心を確かめる日を拒んで――アイは不安を断ち切って恋心を伝えられるその日を望んだ。
糾える恋心はきっとお互いを指し示しているはずなのに、何故選ぶ未来がすれ違うのだろう。
きっと、お互いの本心を知れば解きほぐせるすれ違いだというのに。
……いや、二人ともお互いの本心を理解しているのかもしれない。
お互いの恋心に気付いていても――鳳輔は、万に一つの可能性を除外できない。告白すればこの関係性が消えてしまうかもしれないという恐れ。
……好きなのに告白できない。そんなもどかしいものが恋なのだろうか。
「……恋愛って何なんだろうね」
答えを求めるように、ハルは俺にそう問いかけた。
でも、俺だってそんなもの分からない。
人間として育てられたアイや鳳輔でさえも恋愛の複雑さに悩んでいるのだから、兵器上がりの俺たちには答えの出せない感情だ。委員長だって長いこと人と心を通わせることを知らなかったから、学校と付き合いたいだなんて恋愛と恩義を混ぜ込んだ感情を持っている。
正しい恋愛の在り方なんて、きっと誰にも分からない。
疑問は解消されないまま――会話は続く。
とりとめのない会話を、きっと明日になれば何を話したか半分以上忘れているであろうくだらない話を、それでも楽しかったという感情は残るであろうやり取りを。
静かに訪れる眠気と戦いながら、言葉は途切れ途切れに続いていく。
「……………………おらっ」
意識が半ば朦朧とし始めた頃、ハルがおもむろに俺の布団に転がり込み、肩のあたりに頭突きをかましてくる。
いつもなら「よさんか」とでも言って頭を小突くのだが、そんなことをする気力すら湧かない。眠気に屈した俺は、右手を振り上げることすら億劫になっていた。
「なんだよ……人の領地を侵害すんのやめてくんない……領地問題なら祖国同士が嫌になるほど争ってきただろ……」
「やだ。おはなししろ、おはなし」
ハルも相当眠いのだろう。舌っ足らずでぶっきらぼうで、なんだか自分の感情を押し殺したような声だった。
……ハルも相当眠いのだろう。もう一度自分にそう言い聞かせた。
平坦な感情を装おうとしているのは、眠くて抑えが聞かないから。……わざわざ感情を押し殺す理由なんて、他にないはずなのだから。
「いいけどお前、残暑で蒸すから離れてくんない。……そのクソ長い髪の毛が謎の熱気を発してるんだけど、小動物かお前は……」
「……うっさい。今日だけは文句言わないで」
「……………………」
俺の肩に頭を預けたまま、ハルはまんじりともせずにそう言った。
なんでだろう。戦場で杖の切っ先を付きつけられた時よりも緊張感が漂っている。
「…………まあ、いいけど…………」
でも、拒む理由もない。
それに、謎の緊張感はあるけれど、嫌だという気持ちもないのだから。
それから再び、色々なことを話した。けれども眠気のせいか、先ほどまでよりはどこか胡乱な会話がぽつぽつと続いていく。
ハルも俺の腕を抱いて、どこか口数少なくなっていた。
そんなぎこちない時間も、気づけば数十分続いていて、再び襲い掛かる眠気は今までの比ではなくて。
瞳を閉じて眠りに落ちれば明日が来る。明日が来れば、俺たちの最後の夜は終わる。
だから限界まで睡魔を拒絶して、まとまらない頭で言葉を紡ぎ続けた。
それでも、俺たちは。
いつの間にか、最後の夜を終えていた。




