王女殿下、その治療はおやめください!!〜そんなところに触れてはなりませぬ〜
サクサク読めるコメディ調の作品です。
クリスタル王国王城、南棟の応接室――磨き上げられた白大理石の床に、午後の光がやわらかく差し込んでいた。
重厚な扉が静かに開く。
「アークライト公爵閣下、ならびにご令息カスパー・アークライト様のご到着でございます」
案内されて入ってきたのは二人の男――
黒髪をきっちりと撫でつけ、隙のない姿勢で歩くダグラス・アークライト公爵。その一挙手一投足には無駄がなく、鋭い視線だけで場の空気を引き締める。
その後ろに続くカスパーもまた、父に劣らぬ整った立ち姿だった。
父譲りの黒髪に整った顔立ち――すらりとした長身に無駄のない所作、理知的な瞳は常に冷静さを保っている――
……が、今はほんのわずかに影を帯びているようにも見える。
対して、ソファに腰掛けていた少女は、まるで別の世界の住人のようにほんわり柔らかかった。
「いらっしゃいませ、ダグラス叔父様、カスパー様」
二人を迎えようと立ち上がった拍子にふわりと揺れる金色の髪。大きく澄んだ青い瞳。第三王女カトリーヌ・クリステルは、春風のような微笑みで二人を迎えた。
その声音を聞くだけで、二人とも普通なら肩の力が抜け思わず微笑みを浮かべるはずだ。
――だが今日に限ってはそうはいかず、重苦しい表情を微動だにしなかった。
そして正面に座る男が、さらに空気を重くしている。
現王ヘンリー三世。
白に近い銀髪を短く整えたその姿は、いかにも王という威厳に満ちている。ダグラスとよく似た骨格を持ちながら、その瞳には国を背負う者の重みが宿っていた。
――だが、その灰色の視線は今はどこか落ち着かない。
「よく来た。楽にせよ」
私的な場で見せる、いつもの穏やかな表情はない。王は短く言い放った。
テーブルを囲むように、王の正面の席へ公爵親子が並んで着く。左側の席にはカトリーヌが座っていた。
普段であれば若い二人が近くなるよう配慮されるが、今日はその間に公爵が挟まれている。
どこかおかしい――そう感じたカトリーヌは、そっとカスパーへ視線を送った。
……重苦しい沈黙が、いつまでも続いていた。
カトリーヌはこてんと首をかしげた。
「あの……本日は、なにか大切なお話があると伺いましたけれど?」
その一言で、応接室の空気がぴんと張り詰めた。
ダグラスとヘンリー三世が一瞬だけ視線を交わし、無言のまま意思を確認し合う。
――覚悟を決めろ!もう先送りはできない――
「王女殿下……」
いつもと違う妙に改まった口調でダグラスが口を開く。
「婚約に関する件で、ご相談がございます」
「まあ!」
カトリーヌの表情がぱっと明るくなる。
「結婚式のお話ですの? わたくしとても楽しみにしているのですよ」
その無邪気さが、三人の男どもの胸に突き刺さる。
半年後に学園を卒業し、そのさらに半年後に結婚式が行われる予定である――
クリスタル王国と隣国パール公国の結びつきを強める重要な婚姻だ。
クリスタル王国とパール公国の関係は、単なる隣国同士という言葉では収まりきらない、極めて繊細で重要な均衡の上に成り立っていた。
パール公国は海上交易の発達によって繁栄した国であり、豊富な資源と優れた航路網を握っている。
一方、クリスタル王国は内陸に広がる肥沃な大地と魔術資源に恵まれ、安定した生産力を誇る国家であった。
両国は互いに補完関係にあり、長きにわたり友好を保ってきたが、その結びつきは決して盤石とは言えなかった。過去には交易条件や関税を巡って幾度も対立し、小規模ながら衝突に発展したこともある。
そうした不安定さを解消するために選ばれたのが、王族同士の婚姻による結びつきの強化であった。
アークライト公爵家は、クリスタル王家の分家にして、軍事・外交の要を担う名門である。その当主ダグラスの妻――すなわちカスパーの母は、パール公国の第二王女であった。
すでに一度、両国は婚姻によって結ばれている。
だがそれはあくまで「前段階」に過ぎない。
今回の婚姻――第三王女カトリーヌ・クリステルと、公爵令息カスパー・アークライトの結婚は、その関係をさらに一段階深め、「血縁として不可分の同盟」へと昇華させる意味を持っていた。
「……その結婚式についてだが……」
ダグラスが躊躇いを振り切るように低い声で言う。
「延期を、お願いしたい」
「延期……?」
「三年ほどです」
カトリーヌはぱちぱちと瞬く。
「三年……ですか?」
予想もしなかった驚きを覚え、つい問いかける。小さな寂しさが、その声に混じる。
「……どうして、ですの?」
当然の問い。
そして――応えられない問い。
「……カスパーの健康上の理由です」
絞り出すようにダグラスが言う。
カトリーヌの小さな顔がカスパーへ向いた。少し身体を乗り出し心配そうな視線を向ける。
「カスパー様、ご病気なのですか?」
「……それほどの大事ではございません」
カスパーはわずかに視線を伏せる。
「ただ、万全を期すため……少々時間をいただきたいのです」
なんとも曖昧で言葉足らずな説明である。
当然、カトリーヌの納得は得られることはない。ぬぐいえぬ疑問を感じ、小さくこぼす。
「三年も…なのに……?」
再び長く重苦しい沈黙が応接室に横たわる。……………
そのとき、カトリーヌはふと思い出したように「あっ!?」と声を上げた。
「……もしかして、あの方のことですかしら……?」
問いかけるカトリーヌの言葉に、三人の顔に疑問が浮かぶ。
「途中編入してきた伯爵令嬢の方。とても明るくて、努力家で……」
カトリーヌとカスパー二人の脳裏に浮かぶのは、薄桃色の髪を揺らしながらカスパーに駆け寄ってくる少女。
きらきらした瞳で、遠慮なく距離を詰め寄せカスパーの腕に絡みついてくる。
『カスパー様! お昼をご一緒しませんか…』
『……申し訳ないが、先約がある』
『カスパー様! 今日の授業でよく解らないところがあるのですが…』
『……申し訳ないが、その科目は選択していない…』
『カスパー様! 少しだけお話よろしいですか?』
『……申し訳ないが、急ぎの用がある』
『ではまた放課後に!』
断っても断っても諦めない、一直線な性格。
どうやら悪気はないようではある。ただ距離感が近すぎるだけだ。
「最近、カスパー様にとても熱心に話しかけてらっしゃる…ドワイアル伯爵家の養女となった……たしか、ナタリー様!」
話の内容にそぐわないぽわぽわとした口調のまま続けるカトリーヌ。
「その方とのご事情で……?
結婚相手を見直すのではないかという噂も学園で聞こえていますもの……」
「違うっ!!」
思わず強い声が出た。
カトリーヌが目を丸くする。
「……失礼いたしました。しかし、それは断じて違います」
カスパーは深く頭を下げる。
「私はカ…、王女殿下以外との婚姻など毛頭考えておりません!」
真っ直ぐ真摯な言葉――その言葉には真実偽りはない。
彼の胸にあるのは、ただ一つ――この婚約を、カトリーヌの微笑みを守りたい。
だが、そのためにこそ……今は距離を置かねばならないという何とも言えない皮肉――
カトリーヌはますます不思議そうな顔になり小首をかしげる。
「…では、どうして三年も……?」
答えられない。
絶対に答えるわけにはいかない!!
……とある子爵夫人の名など出せるはずがない。
社交界では優雅で気品ある女性として知られながら、貴族子弟への“教育”を担う存在……
そして、その夫人の“周辺事情”と自身を襲った呪わしき出来事など、なおさら――
しかも両家の母親たちがこの場にはいない。彼女らならば、うまくぼかして伝えられたかもしれないが、さすがに同席してもらうのは憚りを覚えたのだ。今この場にいるのは、王国でも有数の堅物の男三人のみである。
応接室の中に三度沈黙が重くのしかかる。
やがてカトリーヌは、ぱっと顔を明るくした。
「そうですわ!」
なんとはなしの嫌な予感が三人を貫いた。
「わたくしがお手伝いいたします」
「なに?」
「わたくしには聖力がありますもの。治癒魔法も使えますし、一刻でも早くお元気になるようきっとお役に立てますわ」
にこり。
胸の前で両手をしっかりと握りしめ、朗らかに決意表明を行うカトリーヌ。
その瞬間、三人は一斉に青ざめた。
「それはならん!!」
「殿下、それはいけませぬ!!」
「だ、大丈夫だ?!カトリーヌ……」
三人揃っての猛烈な勢いでの否定に、
「どうしてですの?」
きょとんとした顔つきで問いかけるカトリーヌ。
婚約者を案じる純粋な善意―― それゆえになおさらたちが悪いのだが。
「専門の者に任せるべきだ」
「そのような前例はございません」
「王女殿下のお手を…煩わせるようなことではありません」
……………………等々………………
――アレやコレやと言葉を尽くした三人がかりの、必死の説得により、ようやくカトリーヌは渋々ながら引き下がった。
「……そうですか。では、早く良くなるよう心からお祈りいたしますわ」
そう言って寂しそうに微笑む。
その笑顔に、カスパーは胸を締め付けられた。
(殿下に、こんな顔をさせているのは……私だ)
四人それぞれの思惑はあれども、ようやく彼女は引き下がった――そう、そのはずだった。
◇
それから数日。
アークライト公爵邸の一室。
カスパーは一人、静かに座っていた。
今日は治療の日。
週に一度の、耐え難い時間。
――発端は、半年前。
本来であればもっと早く受けているはずだった“教育”を、彼はこの歳まで頑なに拒み続けていた。
――カトリーヌ以外となんか考えられない――と。
だが、最終的に強制された。軟禁され、なんなら薬まで使われて……
国王と公爵、両者の判断で。
そしてその時紹介されたのが、マグワイヤー子爵夫人。
優雅で落ち着いた物腰、完璧な礼儀、そして確かな技量。多くの高位貴族子弟が彼女のもとで学び、円滑な婚姻生活へと進んでいく。
――そのはずだった。
だが、ほんのわずかな不運が重なった。
夫人自身は事前に検査を受けており全く問題はなかった。
しかし、彼女の隠された私生活より問題が生じた。
――緩い愛人関係にあった男が、さらに別の相手からある病を得ていた。
相手が高級娼館の売れっ子であったため安全であるとの油断が生じたのだろうか……
潜伏期間……
見逃された兆候………
そして、忌まわしき連鎖………
愛人の発症を知り速やかに再検査、隠さず申告したマグワイヤー子爵夫人であったが、気づいたときには、すでに遅かった。
カスパーは静かに目を閉じる。
(王女殿下以外と……あのような形で関わることになるとは)
嫌悪と羞恥。
そして、言いようもない後悔と罪悪感………
(……あの時、このまま頑なに拒めば、組織がはじけ飛び二度と使い物にならなくなると言われても……
王女殿下に殉じるべきだったのか…………)
彼女との未来……暖かな家族生活を諦めることができずに行った苦渋の決断ーー
その結果がこの始末…………
愛する彼女を守るためにも、完治するまでは近づけない。
手袋越しの接触以外は念のため極力避けるように厳命されている。
――だから延期は正しい。
だが――
「……三年」
ボソリと重苦しく呟く……
長い――
あまりにも長い“生殺しの"期間。
その間、彼女はどう思うだろうか。
ふと、伯爵令嬢の顔がよぎる。
あの無邪気な猛攻。あれが学園内での噂となり、周囲やあまつさえカトリーヌにまで誤解を招いていたとは……
(カトリーヌが……あのように考えてしまったのも無理はないのか……)
――胸が痛む。
これからも続く半年間の在学生活ーーなんとしても件の伯爵令嬢とは距離を置き、これ以上の誤解は避けカトリーの憂いとならぬようにせねばならない。
そのとき、扉が叩かれた。
「枢機卿様がお見えに――」
使用人の声が途中で止まる。
――代わりに、聞き慣れた声が響いた。
「ごきげんよう、カスパー様」
時間が止まった――
ゆっくりと顔を上げる。
枢機卿の法衣を纏い、そこに立っていたのは――
「カトリーヌ……王女殿下……?」
間違いようもない――第三王女!
ほわほわとしたにこやかな笑み。
そして、背後で慌てふためく使用人たち。公爵家使用人としてはあるまじきことだ。
「本日はわたくしが参りましたの」
「な……ぜ……?」
「今朝、枢機卿様と教会で次の慈善活動について打ち合わせをしておりましたら、突然ぎっくり腰で動けなくなってしまわれて……」
「ぎっくり腰……?」
「司教達が目の色を変えて治癒魔法はかけていましたが、完治には至らず動けなくて……ですから代わりに……」
一歩、近づく。
「わたくしが治療をいたしますわ」
その言葉に、血の気が引いた。
「……お、お待ちください!!」
声が裏返る、思わず立ち上がる。
「それは……その……!」
言葉が出ない。
そこへダグラスが飛び込んできた。
「カ、いや王女殿下! ど、どうして――!」
「あら、叔父様、ごきげんよう」
ほわほわと笑う。
「今日は体調不良の枢機卿に代わりわたくしが参りましたのよ」
日頃の落ち着きはどこへやら……青ざめ冷や汗を流しながらダグラスが提案する。
「……なら、治療は日を改めて枢機卿が回復次第で構いませぬから…」
にっこり微笑みながら、右手の人さし指を立ててカトリーヌが言う。
「治療は定期的に行わなければ、せっかくの効力が失われかねませんの」
「いや、しかし…王女殿下に施術していただかなくとも、誰か代わりの者が……」
諦めることなく食らいつくように説得を続けるダグラス。
そんな彼を安心させるかのように笑みを深めるカトリーヌ。
「あら、司教や司祭の方々よりもわたくしの方が聖力は高いのですよ」
「だ、だが……」
なおも抗弁しようとするダグラスの言葉に被せるようにカトリーヌが自信満々に述べる。
「それに治療方法はきちんと伺っておりますもの、大丈夫ですわ!
秘伝の塗り薬を聖力を込めながら、患部にまんべんなく塗り込めばよろしいのでしょう?」
「ま、まんべんなく……?」
ダグラスの声が震える。
「そう、心を込めてゆっくりと優しく強く柔らかな手つきで…」
手のひらをゆっくりと包み込むように左右に揺らしながら、カトリーヌはこくりと頷いた。
その無垢さが、逆に恐ろしい。
カスパーに視線を向けたカトリーヌはさらに一歩踏み出す。
「さあ、カスパー様」
一歩、また一歩……柔らかく微笑みながら――
「服を脱いで患部を見せてください――
あら…?
そう言えば、どこに塗ればいいのかしら…? 聞いてなかったわ」
手のひらに塗り薬を拡げながら、カトリーヌは小首をかしげる。
「まあ、ご本人に聞けばいいことですわね。
さあ、治療を始めましょうか、カスバー様……」
――逃げ場は……ない。
カスパーは後ずさる……すでに蒼白を通り越した顔色でふらふらとどこまでも後ずさる。
――だがすぐに壁に突き当たる。もはや逃げ場はなかった。
終わりだ…………
(どうする……どうすれば……)
頭が真っ白になる。
本来治療を行うべき枢機卿はいない。唯一カトリーヌを止めることのできる国王もいない。
いるのは、優しく微笑む王女と……なす術なく青ざめた父親と立ち尽くす侍従・侍女たちだけ……
「ご安心くださいな……」
カトリーヌはなにもかも許し包み込むような女神の如き微笑みを浮かべ優しく言う。
「わたくし、がんばりますから」
その一言が、何よりも恐ろしかった。
――そして……
公爵令息カスパー・アークライトの運命は、抗いようもなく、決定的な局面へと転がり落ちていくのであった。
…………その結末や如何に――――




