辺境行き馬車の中で経営計画書を書く悪役令嬢
王都を出て三日目。車軸のきしみと蹄鉄の規則的なリズムが、いつの間にか子守唄のようになっている。窓の外を流れる風景は、日を追うごとに変わっていった。
王都の近郊は緑豊かな農地と果樹園が広がっていたが、二日目からは丘陵地帯に入り、三日目の今は森の中を延々と進んでいる。道幅は半分になり、馬車の揺れは倍になった。
「セラフィーナ様、その……もう三時間も書き続けていらっしゃいますが」
向かいの席のヨハンが、遠慮がちに声をかけてきた。
膝の上には羊皮紙の束。羽根ペンとインク壺を馬車用のペン立てに固定して、揺れる中でも書けるように工夫した。前世で満員電車の中でスマートフォンのスプレッドシートを操作していた技術の応用だ。
「経営計画書は出発前に完成させる予定でしたの。まだ終わっていません」
「経営計画書……」
ヨハンが「変わったお嬢様だ」という顔をしている。まあ、公爵令嬢が馬車の中で事業計画を書いていれば、誰だってそう思うだろう。
「ヨハン、あなたに聞きたいことがあります」
「は、はい」
「ヘルムガルドの現状を教えてくださいな。あなたの記憶にある限り、何でも」
ヨハンは一瞬驚いたが、すぐに真剣な顔になった。この青年は正直で、質問に対して「わかりません」を恐れない。前世の部下にもこういうタイプがいた。使えないように見えて、実は一番信頼できるタイプ。
「ヘルムガルドは……人口がおよそ二千です。主に北の集落と南の集落に分かれていまして。北は山に近く鉱夫の末裔が多い。南は平地寄りで農民が中心です」
「産業は?」
「細々とした農業と狩猟です。かつては鉱山がありましたが、廃坑になってからはこれといった産業がなくて……。若い者は王都や他領に出稼ぎに出ています」
「鉱山が廃坑になった理由は?」
「採算が合わなくなったと聞いています。掘り進むほど鉱脈が細くなって、王都に運ぶ費用で利益が消えると」
——なるほど。鉱脈が尽きたのではなく、物流コストの問題か。
前世の知識が頭の中で回路を作り始める。物流コストが高いなら、原材料のまま運ぶのではなく現地で加工すればいい。付加価値をつけてから出荷する。製造業の基本だ。
「鍛冶師はいますか?」
「マルクスという親方が一人。昔は弟子もいたそうですが、今は一人で農具の修理をしているだけです」
「腕は?」
「……正直、よくわかりません。ただ、マルクス親方が打った刃物は他の誰のものより長持ちするとは聞いています」
腕はある。しかし需要がない。もったいない。
私は羊皮紙に新しい項目を書き加えた。「鍛冶師の技術を核にした高付加価値製品の開発」。
「気候はどうです?」
「寒いです。冬は五ヶ月、雪が腰まで積もります。春は短く、夏は涼しい。秋は——あっという間に終わります」
「寒冷地に強い作物は?」
「大麦と蕪くらいですかね……。あ、でもヘルムガルドの森には薬草が自生しています。種類は多くないですが、寒冷地でしか育たない品種があるとか」
薬草。レオンハルトが面会で言っていた「薬草園の管理」という言葉が脳裏を過ぎった。偶然か、それとも——。
いや、偶然だ。関係ない。回避対象。
「ヨハン、あなた詳しいですわね」
「辺境で育ちましたので。ただ、私が出たのは五年前ですから、今はもっと状況が悪いかもしれません」
正直な申告。好感が持てる。
私は羊皮紙に書き加えながら、質問を続けた。交通網。近隣の領地との関係。商人の往来頻度。ヨハンは知っていることは率直に、知らないことは「わかりません」と正直に答えた。
二時間後、羊皮紙の束は十枚を超えていた。ヘルムガルドの全体像が、ぼんやりとではあるが見えてきた。
資源はある。技術者もいる。しかし物流と市場への接続が致命的に弱い。
——前世のベンチャーと同じ構造だ。プロダクトはいいのにマーケティングが弱い会社。そういう会社は、正しい戦略を入れれば化ける。
馬車は森を抜け、開けた丘陵地帯に出た。車窓から見える風景が、一気に荒涼としてきた。緑は薄れ、岩肌が露出した山が遠くに見える。風の音が変わった。冷たく、乾いた風。
ヨハンが窓の外を見つめて呟いた。「王都の影響圏を出ました。ここからは辺境です」。その声に、かすかな緊張と懐かしさが混じっていた。
◇
三日目の夜。宿場町の安宿。
部屋は狭く、壁は薄い。隣室から誰かのいびきが漏れ聞こえる。ベッドは硬く、シーツは粗い布。公爵邸の絹のシーツとは天と地の差だ。
だが不思議と、不快ではなかった。前世のワンルームマンションを思い出す。壁が薄くて隣人のテレビの音が漏れてきた、あの部屋。
素朴な夕食——黒パンと豆の煮込みとチーズ——を食べながら、ヨハンと向かい合っていた。
「これ、前世のスタートアップより条件悪いんですけど」
独り言が口から出た。疲れると素が出る。
「前世? すたーとあっぷ?」
ヨハンが首を傾げた。そばかすの顔に、純粋な疑問符が浮かんでいる。
「……何でもありません。独り言ですわ」
「セラフィーナ様、時々不思議な言葉をお使いになりますね。『費用対効果』とか『リスク管理』とか」
「貴族の教養ですわ」
「嘘ですよね」
あっさり見抜かれた。この青年、馬鹿正直だが馬鹿ではない。
「……ヨハン」
「はい」
「あなたは変わった人ですわね。追放された公爵令嬢に自分から従者を申し出るなんて」
ヨハンは豆の煮込みをスプーンで突きながら、少し考えた。
「変わっているのはセラフィーナ様のほうだと思いますが」
「私?」
「はい。公爵令嬢なのに、馬車の中で経営計画書を書いて、宿場町の安宿で豆の煮込みを食べて、従者に敬語で質問をして。……失礼ですが、普通の貴族のお嬢様ではないですよね」
返す言葉がなかった。正論だ。
「それが——なんというか、ほっとするんです。普通の貴族相手だったら、こんなふうに話せませんから」
ヨハンの耳がまた赤くなっていた。照れている。この人、わかりやすい。
私は少しだけ笑った。前世では、こんな会話をできる相手がいなかった。上司でも同僚でもない、対等に話せる誰か。
——仲間、とはまだ呼べない。でも、一人じゃない。それだけで十分だ。
◇
五日目の朝。
馬車の窓を開けた瞬間、冷たく乾いた風が顔を叩いた。
灰色の山脈が、目の前に広がっていた。
針葉樹の森が麓から中腹まで覆い、頂上付近は雪で白く光っている。空は鈍色。雲が低い。そして——山脈の手前に、小さな集落が点在していた。木造の家屋。煙突から上がる細い煙。人影はまばら。
「あれがヘルムガルドです」
ヨハンが窓の外を指差した。声が少し震えていた。故郷を離れて五年。帰ってきた感慨があるのだろう。
私は黙って、その風景を見つめた。
樹脂の匂い。針葉樹の、冷たくて清潔な匂い。王都にはなかった匂い。
想像以上に——寂れていた。
しかし同時に、想像以上に——美しかった。
灰色と緑と白の世界。前世のコンクリートジャングルとも、公爵邸の華美な庭園とも違う。厳しくて、静かで、手つかずの可能性に満ちた土地。
膝の上の経営計画書を見下ろした。五日間かけて書き上げた、辺境経営の設計図。数字と分析と仮説の山。
これが正しいかどうかは、やってみなければわからない。
でも——やってみたい。初めて、心からそう思った。
「ヨハン」
「はい」
「行きましょう。私の新しい職場へ」
馬車が丘を下り始めた。ヘルムガルドが、少しずつ近づいてくる。




