三日間の戦略——セラフィーナ、全戦線を見据える
テーブルの上には地図と書類が広げられている。ヘルムガルドの地図に三色の印が付けられていた。赤は教会——マルガレーテの宿泊先と護衛騎士の配置。青は王都——アルベルトの書簡と改革派の動向。黒はカーティス——最後に確認された商務大臣派の活動拠点。
三つの色が一枚の地図に重なっている。辺境という小さな領地に、三つの脅威が集中している。前世で経営危機に直面した時も、問題は常に複数同時に来た。資金繰り、取引先離反、人材流出——単一の問題だけで会社が傾くことは稀だ。複合的な圧力が一度にかかる時こそ、冷静な分解が求められる。
「状況を整理しますわ」
セラフィーナは立ったまま地図を指した。全員の顔を見渡した。ルキウスが腕を組んで壁にもたれ、エミルが椅子に座ってノートを開き、ギュンターが窓際に立ち、ヨハンが入口の扉を背にしている。ヘルガは台所から出てこなかったが、廊下に気配がある。聞いている。
「問題は三つ。第一に、教会の高位神官マルガレーテが三日後にリリアーヌの検査に来る。第二に、父アルベルトが帰京を要求し、ナターリアを交渉材料にしている。第三に、カーティスが教会との接触を試みている可能性がある」
ルキウスが顎を引いた。
「三正面か。嫌な数だ」
「しかし三つは別々の問題ではありませんわ。連動しています」
ペンを取り、地図の余白に図を描いた。三つの円が重なる。教会はリリアーヌと魔鉱石を欲する。アルベルトは政治的影響力の回復を欲する。カーティスは鉱山利権を欲する。三者の欲が交差する点は一つ——ヘルムガルドそのものだ。
「連動しているなら、一つの解決策で三つを動かせる」
エミルが眼鏡を押し上げた。
「具体的には」
「ナターリアを辺境に招きますわ」
全員の目が集まった。一瞬の沈黙の後、ギュンターが口笛を小さく吹いた。エミルが眼鏡越しにこちらを見つめ、その表情が驚きから理解へと変わった。
「公爵家の現当主の娘がここにいれば、教会は強硬手段を取りにくくなる。公爵家との政治的軋轢を避けたいからです。同時に、アルベルトにとってもナターリアが辺境にいれば交渉材料を失う。そして教会とアルベルトが動けなければ、カーティスも単独では仕掛けられない」
「一石三鳥か」
ルキウスが腕を解いた。表情が変わっている。戦場で敵の布陣を読む時の目だ。騎士としての直感が、この策の有効性を認めている。
「しかし」とエミルが慎重に言った。「ナターリアさんが自分の意思で来なければ意味がない。強制的に連れて来れば、それこそ人質になる。セラフィーナさんが嫌うやり方です」
「ええ。だから手紙を書きますわ。ナターリアに選ばせる」
前回の手紙では「自分の意志で来るなら門は開いている」と書いた。あの時は提案だった。今回はもう一歩踏み込む。ナターリアの力を信じる手紙を書く。
ヨハンが控えめに手を挙げた。
「あの、セラフィーナ様。手紙の配達ですが——グレーテルさん経由の非正規ルートは前回と同じで使えます。ギュンターさんの行商人ネットワークなら、三日以内に王都に届きます」
「ありがとう、ヨハン。手配をお願いしますわ」
ヨハンが小さく頷いた。かつての気弱な従者は、今や情報伝達の要を担っている。人は役割を与えられれば育つ。それは前世でも変わらない真理だった。
会議を続けた。エミルが教会法の条文を広げ、マルガレーテの要求に対する法的対抗策を列挙した。
「教会法第三十七条の但し書き以外にも、第四十二条に『聖女候補が世俗の領地で保護されている場合、教会はその領地の法を尊重しなければならない』とあります。辺境法を整備すれば時間が稼げる」
「辺境に独自の法を?」
「領主代行には領内の条例制定権があります。王国法の範囲内であれば、領主代行の署名と領民代表の承認で即日施行が可能です。リリアーヌの保護に関する条例——たとえば『領内で保護を受ける未成年者の身柄移送には、領主代行と保護者双方の同意を要する』といった内容であれば、教会法と矛盾しません」
「法の盾か。悪くない」
ルキウスが頷いた。彼は軍事面の準備を報告した。
「護衛隊は十二名に増員した。全員がヘルムガルド鋼の剣を持っている。教会騎士六名に対して数では上回る。練度ではまだ負けるが、地の利はこちらにある」
「戦いは最終手段ですわ、ルキウス殿」
「承知している。だが備えなければ、交渉のテーブルにもつけない。剣を抜かずに済むのは、剣があるからだ」
正しい。武力なき外交は譲歩でしかない。前世の企業交渉でも同じだった。訴訟できる体制があってこそ、和解の提案が通る。法務部が強い会社は、裁判をしない。裁判をしなくて済むからだ。ルキウスは戦いたいのではない。戦える状態を維持することで、戦わずに済む道を作ろうとしている。
ギュンターが窓際から声を出した。腕を組んでいた姿勢を崩し、珍しく真剣な表情で部屋の中央に一歩進んだ。普段の飄々とした空気が消えている。
「嬢ちゃん、一つ報告がある。王都の情報屋から今朝方、鴉便が来た」
全員の視線がギュンターに向いた。ギュンターが表情を消す時は、良い知らせではない。
「カーティスが父親に『教会にも話を通すべきだ』と再び進言したらしい。前にも似たことがあったが、今度は本気だ。商務大臣ノーヴァルが教会の枢機卿と非公式に接触したという情報もある」
空気が変わった。三つの脅威が個別に動いていると思っていた。しかし——敵も連携し始めている。
「カーティスと教会が手を組めば——」
「商業圧力と宗教権威の同時攻撃になる。最悪のシナリオだ」
エミルの声が低くなった。眼鏡の奥の目が暗い。学者として分析してきた脅威が、現実のものになりつつある重圧が彼の肩にのしかかっている。
「カーティスは鉱山利権が目当てだ。教会は聖女と魔鉱石。利害が一致すれば手を組むのに理由は要らない」
ギュンターが淡々と述べた。商人の目で見れば、当然の合従だ。
沈黙が落ちた。テーブルの地図の上で、三色の印が不吉に重なっている。窓から差し込む春の陽光が、地図の色を鮮やかに照らしている。穏やかな光と不穏な内容の落差が、かえって状況の深刻さを際立たせた。
しかしセラフィーナは折れなかった。
「敵が連携するなら、私たちも連携しますわ。レオンハルトが王都で議会を抑え、ルキウス殿が軍事的に備え、エミル殿が法的に防ぎ、ギュンター殿が情報で支える。一人で全てを背負う必要はない——もう、そういう時代は終わったの」
最後の一言は、自分に言い聞かせていた。前世の佐藤凛は全てを一人で抱え込み、過労死した。この世界では違う。ここには信頼できる仲間がいる。そのことを、過労で倒れた夜にレオンハルトに教えられた。
ルキウスが静かに頷いた。エミルが微かに笑った。ギュンターが「嬢ちゃんも変わったもんだ。いい方にな」と呟いた。ヨハンが目を少し赤くしている。
会議を終えた後、各自が持ち場に散った。ルキウスは護衛隊の緊急訓練へ。エミルは書庫で辺境条例の草案作成へ。ギュンターは鴉便の手配へ。ヨハンは行商人への連絡へ。
一人になった私室で、ナターリアへの手紙を書いた。
ペンを持つ手は安定していた。前回の手紙を書いた時の逡巡はない。インクの匂いが鼻をくすぐった。この匂いにも慣れた。前世ではボールペンだった。この世界では羽根ペン。道具は変わっても、言葉に込める思いは同じだ。
——ナターリア。あなたに選んでほしいのです。父の駒としてでも、姉の盾としてでもなく。あなた自身の足で、あなたの行きたい場所に行ってください。もしそれが辺境であるなら、この門はいつでも開いています。辺境には美味しい蜂蜜菓子があります。あなたの好きなハーブティーも淹れましょう。ここには、あなたの居場所があります。
書き終えて、読み返した。前半は戦略家の言葉。後半は姉の言葉。両方が自分だ。蜂蜜菓子とハーブティーの一文を書いた時、自然と口元が緩んだ。会ったこともないのに、この妹のために菓子とお茶を用意する自分がいる。前世の佐藤凛には家族がいなかった。だからこそ——この世界で手に入れた妹という存在を、全力で守りたいと思う。
蝋を溶かし、セラフィーナの印章を押した。蝋の赤が、決意の色に見えた。
窓の外で、春の風がヘルムガルドの旗を揺らしている。三日間の猶予。その間に、全ての準備を整える。会議室で広げた地図の三色の印が、まだ目の裏に焼きついていた。しかし——地図には描かれていない四つ目の色がある。仲間たちの存在という、味方の色だ。




