表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

61/62

嵐の前の帳簿——宰相の手紙

 四半期決算の最終行。収入の欄が支出を上回っている。辺境経済圏の正式発足から三ヶ月、加工品転換と山岳ルートの開拓が数字に表れ始めた。ヘルムガルド鋼の柄と鞘をグリュンフェルトの木材で組み上げた完成品は、原材料のまま売るより利益率が四割高い。港町エーリヒスハーフェンとの取引も軌道に乗りつつある。


 使い込まれた帳簿の紙に触れる。指先にインクの匂いが染みついている。この匂いが、今の私の居場所を証明してくれる。


「セラフィーナ様、お茶をお持ちしました」


 ヨハンが温かい薬草茶を置いた。湯気が執務室の冷たい空気に白く立ち上る。冬の名残がまだ窓の隙間から入り込んでくる。


「ありがとう、ヨハン。決算が終わりましたわ」


「お疲れ様です。……結果は?」


「黒字ですわ。辛うじて、ですけれど」


 ヨハンの顔がぱっと明るくなった。この半年、赤字の数字ばかり見てきた従者にとって、黒字という言葉は魔法のように響いたのだろう。


 しかし——帳簿の裏には、まだ不穏な数字が潜んでいた。


 王都からの送金記録を指でなぞった。アルベルトが辺境運営費として倍増させた金額とは別に、出所不明の小額送金が三件ある。金額は微々たるものだが、パターンが不自然だ。毎月十五日に正確に同額が送られている。送金元は「王都信用金庫」とだけ記されている。個人名も機関名もない。


 アルベルト以外にも辺境に金を流している者がいる。


 指先でインクの染みをなぞった。帳簿の紙が微かにざらつく感触が、思考を研ぎ澄ませてくれる。前世の経理部では、不正送金の痕跡は必ずこういう小さな違和感から始まった。


 誰が。何のために。この辺境の何に、毎月定額を投じる理由があるのか。


 前世の経理部主任の勘が囁く。定額送金は維持費だ。何かを維持するための金。しかし辺境のどの事業にも該当しない。


 帳簿にしおりを挟んだ。今はまだ追いかける余裕がない。しかし忘れない。数字は嘘をつかないが、数字の不在もまた嘘をつく。


 考える暇もなく、次の案件が飛び込んできた。



  ◇



 応接間のテーブルに、重厚な羊皮紙の書簡が置かれていた。


 ヴァルトシュタイン家の封蝋。深紅の蝋に押された紋章は、獅子と百合の意匠。父、アルベルト・ヴァルトシュタインからの正式な書簡。


 封を切った。封蝋を割る乾いた音が応接間に響いた。便箋の質感が手に重い。上質な羊皮紙は公爵家の権力そのものだ。文字は父の筆跡——角張った、隙のない書体。この字を見るだけで、背中が伸びる。前世の「社長からのメール」を開く時の緊張と似ている。


 内容は表向き「辺境の経済的成果を宮廷に報告せよ」というもの。辺境経済圏の実績が宮廷内で話題になっており、正式な報告書の提出を求める——という体裁だった。


 嘘だ。報告書が欲しいだけなら書面で済む。わざわざ正式な書簡を送ってきた意味は一つ。帰京せよ、と言っているのだ。


 エミルが応接間に姿を現した。聖光教会の神官ヴィクトルが去ってからも、エミルは辺境に留まっている。「学術調査の継続」が建前だが、実質的にはセラフィーナの参謀として機能している。


「アルベルト殿からですか」


「ええ。報告書を出せ、と。丁寧な脅迫状ですわ」


 エミルが書簡に目を通した。銀縁の眼鏡の奥で、目が素早く行を追う。


「なるほど。文面は穏やかですが、行間に三つの圧力が隠れていますね。一つ目は帰京の要請。二つ目は辺境の実績を公爵家の手柄として回収する意図。そして三つ目は——」


「ナターリアのことも、考えておくがいい」


 書簡の最後の一行を読み上げた。自分の声が、思った以上に硬かった。


 ナターリア。異母妹。十六歳の少女。王太子妃候補として政治の駒にされている。父は妹の名前を、交渉カードとして使っている。


「三つ目は、ナターリア様を梃子にした精神的な揺さぶりですね」


 エミルの分析は正確だ。しかしその正確さが、余計に胸を抉る。


「セラフィーナ様、アルベルト殿は政治家として追い詰められています。改革派の攻勢が激しく、娘の実績を手札に加えたいのでしょう。しかし書簡の語調には——焦りがある」


「焦り?」


「ええ。以前のアルベルト殿なら、もっと巧妙に追い込むはずです。ナターリア様の名前を直接出すのは、余裕のある政治家のやり方ではない」


 父が追い詰められている。その事実は、安堵と不安を同時に運んできた。追い詰められた政治家は、予測不能な行動を取る。



  ◇



 午後。ギュンターが領主館を訪ねてきた。


 いつもの商人の顔ではなかった。声を低め、廊下を確認してから応接間の扉を閉めた。壁に耳があることを前提にした所作。


「王都から面白い話が入ってきた」


 椅子に腰を下ろし、テーブルの上に一枚の紙を広げた。ギュンターの情報網——旧知のフェルディナントからの密書だ。


「宰相アルベルト閣下が最近、三つの派閥から同時に攻撃を受けている。改革派、軍事拡張派、そして——教会保守派だ」


 三方面からの攻撃。アルベルトは強い政治家だが、三つの派閥に同時に敵を作れば、さすがに苦しくなる。


「で、改革派の連中がお嬢さんの辺境改革を『旧弊な貴族制度への挑戦』として持ち上げ始めた。お嬢さんを改革の旗印にして、宰相閣下を攻撃する材料にしようとしている」


 意図せず、政治の渦中に引きずり込まれている。辺境で静かに商売をしていただけなのに。成功すれば注目される。注目されれば利用される。この構図は前世の会社と変わらない。


「つまり、父の帰京要求は——」


「娘の実績を自分の手札に取り込んで、改革派に利用されるのを防ぎたい。あと、お嬢さんが改革派に担がれたら宰相閣下にとって最悪のシナリオだからな。身内が敵陣営の旗印になるわけだから」


 なるほど。父の書簡は単なる帰京要請ではなかった。政治的な自衛策だ。娘を手元に置くことで、改革派の武器を奪う。同時にナターリアの王太子妃推挙で王家との繋がりを強化し、三方面の敵を同時に牽制する。


 全てが政治の計算だ。娘の感情など、方程式の変数にすぎない。


 前世の上司を思い出した。部下の体調を「リソースの稼働率」としか見なかった男。人間を数字に変換する思考回路。父アルベルトはあの上司の完全上位互換だ。能力が高い分、余計にたちが悪い。


 頭の中で情報を整理した。改革派に担がれるのは論外だが、完全に無視もできない。改革派との距離感を間違えれば、父からも改革派からも敵視される。辺境の政治的立ち位置は、針の穴を通すような精密さが求められる。


「ギュンター殿、情報に感謝しますわ。引き続き王都の動向を——」


「ああ。だが一つだけ忠告しておく。宰相閣下は追い詰められた時が一番怖い。追い詰められた商人は判断を誤るが、追い詰められた政治家は手段を選ばなくなる」


 ギュンターの目は真剣だった。三十年の商売で培った経験が、その言葉に重みを与えている。薬草茶はとうに冷めていた。



  ◇



 夜。私室のベッドに腰かけ、父の書簡を再び開いた。


 最後の一行。「ナターリアのことも、考えておくがいい」。


 何度読んでも、この一行の温度がわからない。脅迫なのか。忠告なのか。それとも——不器用な父が、不器用な形で娘に伝えようとしている何かなのか。


 ヘルガが以前言っていた。「旦那様は奥様を亡くしてから変わった」と。母エリザベートを失った後のアルベルトは、愛情を政治に変換することでしか娘と関われなくなった——そういうことなのかもしれない。


 理解はできる。しかし許容はできない。ナターリアを駒にすることだけは。


 窓の外を見た。北の空に、微かな光がまだ残っている。聖光教会の神官が去ってからも消えないあの光。魔力脈の活性化か、魔獣の移動か。エミルは「注視が必要だ」と言っていた。


 南からは父の影。北からは魔力の異変。東からは教会の手。西からは商会の残党。


 四方から包囲されている。


 しかし——この辺境には、仲間がいる。帳簿の数字が黒字になった。領民が笑っている。マルクスのハンマーの音が聞こえる。オルガの薬草園は花盛りだ。


 守るものが増えるほど、脅威も増える。


 前世の佐藤凛には守るものがなかった。一人暮らしのワンルーム。名前も覚えていない上司。退職したら連絡が途絶える同僚。何も守れず、何にも守られず、過労で倒れて——終わった。


 だが今の自分は、あの頃とは別人だ。帳簿がある。仲間がいる。守りたいものがある。そして——それを脅かす敵もいる。


 父の書簡を折り畳み、引き出しにしまった。蝋燭の火を吹き消す。闇の中で、北の空の微かな光だけが窓に映っている。


 明日から、新しい戦いが始まる。帳簿と書簡を武器に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ