聖光教会の使者——新たな嵐の幕開け
朝食を終えたばかりの時刻に、領主館の門前に見慣れない馬車が止まった。白い車体に金の紋章——聖光教会の司教級が使う正式な馬車だ。護衛の騎士が四名。巡回調査にしては物々しい編成だった。
「セラフィーナ様。聖光教会の使者と名乗る方がいらしています」
ヨハンの声に緊張が滲んでいた。聖光教会が辺境に来る——それだけで異例だ。
エミルが即座に反応した。温室から駆けつけ、セラフィーナの耳元で囁いた。
「教会が辺境に来る理由は一つしかない。リリアーヌです」
血の気が引いた。昨夜、北の空に走った不自然な光。リリアーヌの手が放った金色の光。あれが——何らかの形で教会に察知されたのか。いや、時間的に合わない。教会の使者が王都から辺境まで来るには数日かかる。つまり、昨夜の光とは無関係に、以前から教会は動いていた。
カーティスだ。
「リリアーヌさんを薬草園に。オルガに頼んで、調合作業の手伝いをしているように見せかけてください」
「わかりました」
エミルがリリアーヌを連れ出した。リリアーヌは事情がわからず首を傾げていたが、エミルの表情を見て黙って従った。
玄関ホールで使者を迎えた。
使者は五十代の痩身の男だった。白い法衣に銀の鎖。目が深い。人を見透かすような目だが、同時に穏やかさを纏っている。聖職者としての修練が長い人間の佇まいだ。
「ヘルムガルド領主代行、セラフィーナ・フォン・ヴァルトシュタイン様ですね。聖光教会中央司教区より参りました、神官ヴィクトルと申します。辺境における信仰状況の巡回調査としてお伺いいたしました」
丁重な挨拶。しかしセラフィーナの目は使者の後ろに控える護衛騎士を見ていた。四名。全員が剣を佩いている。巡回調査に騎士が四名——明らかに過剰だ。
「ようこそお越しくださいました、ヴィクトル殿。辺境の小さな領地ですが、教会のご関心をいただけるとは光栄ですわ」
笑顔で迎えた。笑顔の裏で、心臓が早鐘を打っている。
聖光教会。ゲームの中で、セラフィーナの処刑を執行する組織。悪役令嬢が民を虐げた罪で教会の裁判にかけられ、聖女リリアーヌの証言によって有罪が確定し、断頭台に送られる——それがゲームのバッドエンドだった。
目の前にいるのは、その組織の人間だ。
応接間に通した。ヘルガが茶を用意した。ヴィクトルは茶を一口飲み、「良い薬草茶ですね」と微笑んだ。
「さて、早速ですが——巡回調査として、いくつかお伺いしたいことがございます」
「何なりと」
「この辺境では、聖光の加護をいただく機会は多いですか?」
「辺境には聖堂がございません。領民は各自で祈りを捧げておりますが、正式な礼拝は近隣の町まで出向く必要があります」
「なるほど。では、不思議な出来事——例えば、聖なる光の目撃情報などは?」
来た。核心に近づいている。何気ない質問の形をしているが、狙いは明確だ。
「光、ですか。薬草園で聖光草を栽培しておりますので、夜間に淡い光が見えることはありますわ。聖光草の発光現象は学術的にも報告されている自然現象です」
嘘は言っていない。聖光草は確かに光る。しかしリリアーヌが触れた時の爆発的な発光は——自然現象の域を超えている。
ヴィクトルの目が一瞬だけ細くなった。この男は気づいている。こちらが何かを隠していることに。しかし追及はしなかった。
「奇跡的な治癒の噂なども?」
「オルガという薬草師が優れた軟膏を調合しておりまして、近隣領地でも評判をいただいております。しかし奇跡というほどのものではありません。薬学の知識と良質な素材による、地道な成果ですわ」
「素晴らしい。科学と信仰は矛盾しないものです」
ヴィクトルが微笑んだ。しかしその笑みの裏に、別の計算がある。この男は質問の答えそのものよりも、答える側の反応を観察している。どこで声が震え、どこで目が泳ぐか。聖職者であると同時に、審問官の訓練を受けた人間の目だ。
調査は二時間に及んだ。領地の信仰状況、領民の宗教的慣習、薬草園の運営——表面的には穏やかな質問が続いた。ヴィクトルは全ての答えを丁寧にメモし、時折「なるほど」「興味深い」と相槌を打った。完璧な聖職者の態度だ。
途中、ルキウスが護衛騎士の一人と会話した。世間話を装って情報を探っている。後で「あの騎士たちは教会の正規軍だ。訓練の仕方でわかる」と報告してきた。巡回調査に正規軍——やはり異常だ。
ヘルガが茶菓子を追加で運んできた。ヴィクトルの食べ方、歩き方、目線の動きを観察している。この侍女長は、あらゆる来訪者を情報源として処理する。
全ての質問の底に、一つの問いが流れていた。「ここに聖女はいるか」。
調査が終わり、ヴィクトルが立ち上がった。去り際に、足を止めた。
「ヴァルトシュタイン様——いえ、『元』ヴァルトシュタイン様と呼ぶべきでしょうか」
声のトーンが変わった。穏やかな聖職者の声ではなく、権力を持つ組織の代弁者の声。
「教会は辺境のご発展を祝福しております。そして——この地で芽吹いた全ての光を、教会は見守っております。いつまでも」
含みのある笑みを残して、ヴィクトルは馬車に乗り込んだ。白い馬車が門を出て街道を去っていく。護衛の騎士四名が、整然と後に続いた。
使者が去った後、エミルが戻ってきた。
「聞いていました。壁越しに」
「どう思いますか」
「確信犯です。教会は既にリリアーヌの情報を掴んでいる。今日の訪問は確認のためです」
ヘルガが「あの男、油断なりません」と短く評した。
ギュンターが情報を集めた。翌日には結果が出た。神官ヴィクトルは、王都を発つ前にカーティス・ノーヴァルと接触していた。ノーヴァル商会の王都事務所近くの茶店で、二人が会話している姿が目撃されている。
「カーティスが教会を動かした」
「間違いねえ。あの坊やは——商業で勝てなくなったから、信仰の力を借りた。やり方が汚ねえが、頭は回る」
ギュンターの声に、苦い敬意が混じっていた。
全員を集めた。ルキウス、エミル、ギュンター、ヘルガ、ヨハン。リリアーヌは——まだ呼ばない。この子に、今の状況を全て伝えるべきかどうか。迷った。
「商業戦争の次は信仰戦争です」
声は平静を保った。しかし内心では、ゲームのシナリオが鮮明に蘇っていた。
教会ルート。ゲームの中で、リリアーヌが聖女として覚醒し、教会に保護される。そしてセラフィーナが悪役令嬢として裁かれる——その裁判を主導するのが聖光教会だ。教会が辺境に介入すれば、処刑エンドへの道が一歩近づく。
これまでの敵とは次元が違う。ノーヴァル商会は商業の力で攻撃してきた。前世の知識で対抗できた。しかし教会は信仰の力を持つ。信仰は帳簿では測れない。複式簿記では防げない。
「しかし——私たちは負けません」
強がった。強がりだとわかっている。教会は商務大臣とは比較にならない力を持つ。しかしここで怯えれば、全てが崩れる。
エミルが静かに言った。
「教会の狙いがリリアーヌさんなら、最も重要なのは彼女自身の意志です。教会は聖女を『保護』する名目で連れ去ることができる。しかし——聖女が自ら拒否すれば、強制的な保護は教義上許されない」
「つまり、リリアーヌさんの意志が鍵になる」
「ええ。そして——彼女がここに残りたいと言うかどうかは、僕たちがどれだけ彼女を大切にしてきたかにかかっている」
エミルの言葉が、全員の胸に染み渡った。
会議が終わった後、リリアーヌが駆けてきた。顔が青い。
「セラフィーナ様、あの——」
「どうしましたか」
「私、薬草園で聖光草に触れたら——全部一度に花が咲いたんです。一面に。触れただけで。オルガさんもびっくりしていて」
リリアーヌの声が震えていた。
「どうしよう。私、怖い……。私の手が、おかしいんです」
リリアーヌが右手を差し出した。手のひらから、淡い金色の光がゆっくりと溢れている。消えない。さっきから消えないのだと、リリアーヌが泣きそうな声で言った。
セラフィーナはリリアーヌの光る手を、両手で包んだ。光が温かかった。手のひらを通じて、微かな鼓動のような脈動が伝わってくる。これが聖女の力。ゲームの中ではテキストで読んだだけの概念が、今、自分の手の中にある。
「大丈夫です。何も怖いことはありません」
嘘だ。怖い。しかし——この子の前では嘘をつく。守るために。
「リリアーヌさん。あなたは特別な力を持っているかもしれません。でも、それはあなたの一部であって、あなた自身ではありません。蜂蜜菓子が好きで、契約書を書くのが上手で、見本帳に絵を描くのが得意な——あなたは、あなたです」
リリアーヌの目から涙が溢れた。光る手で顔を覆い、声を押し殺して泣いた。セラフィーナがその肩を抱いた。
ゲームでは、聖女と悪役令嬢は対立する運命だった。しかし今——泣いている少女を抱きしめているのは、その運命を書き換えると決めた女だ。
窓の外で、白い馬車が消えた街道を、春の風が吹き抜けていた。穏やかな春。しかしその風の中に、聖堂の鐘の残響のような予感が混じっている。
商業戦争は終わった。次に来るのは——信仰の嵐だ。




