父上、それはパワハラですわ
重厚な樫の机。インク壺と蝋封の匂い。壁一面の書架には法典と外交文書が隙間なく詰まっている。宰相アルベルト・ヴァルトシュタインの城。この部屋に入るのは、セラフィーナの記憶を辿っても片手で数えるほどしかない。そのいずれもが、叱責の記憶だった。
父は机の向こうに立ったまま、座ろうとしない。私も立ったまま。二人の間にあるのは机一つ分の距離と、十数年分の冷えた空気。
「ヴァルトシュタインの名を汚した」
静かに始まった。怒鳴り声ではない。それが余計に怖い。低く、重く、石壁に反響して消えない声。
「王家との絆を断つとはどういうつもりだ。卒業式の壇上で。数百人の貴族の前で。宰相の娘が、王太子を——」
父の指が机を叩いた。重い音。暖炉の薪が爆ぜて、火の粉が散った。
「お前は何を考えている」
前世の上司も怒鳴った。「お前は何を考えている」と。同じ言葉。同じ圧力。
——でも、今の私は前世の私じゃない。
「お答えいたしますわ、父上」
声が震えていないことに、自分で驚いた。膝はまだ笑っているのに。
「婚約破棄は、政治的に合理的な判断です」
「合理的だと?」
「はい。まず、王家との同盟関係について。ヴァルトシュタイン家と王家の利害一致は、宰相職の存在によって既に担保されています。婚姻はあくまで補助的な絆であり、なくとも同盟は維持可能です」
父の目が細くなった。反論を探している目だ。前世の役員会議で何度も見た目。データに基づく主張には、感情論では太刀打ちできない。
「次に、代替案があります」
ここからが勝負だ。
「私の代わりに——妹のナターリアを王太子妃候補とするのはいかがでしょう」
空気が変わった。
父の指が、叩きかけた机の上で止まった。
「ナターリアは今年、社交界デビューを控えています。年齢的にも政治的にも、王太子妃候補として不足はありません。私が破棄したことで空いた席に妹が座れば、ヴァルトシュタイン家と王家の関係はむしろ強化されます」
言い切った。
沈黙が落ちる。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋を満たしている。
父は——たじろいだ。一瞬だけ、その冷厳な表情に亀裂が入った。想定外の論理を突きつけられた時の顔。この人は感情の人ではなく、政治の人だ。論理で殴れば、少なくとも一瞬は怯む。
しかし。
「——小賢しい」
亀裂はすぐに修復された。父は机の上に両手をつき、こちらを見下ろした。
「策を弄してヴァルトシュタインの名を弄ぶことが、お前の『合理的判断』か。数百人の前で王太子を恥辱に晒し、それを正当化するつもりか」
声が低くなった。今度は怒りではない。もっと深い——失望の色。
「政治の何たるかもわからぬ小娘が、この家に何をしたか理解しているのか。婚約破棄の噂は既に王宮中に広まっている。他の公爵家が動く。商務大臣のノーヴァルも嗅ぎつけるだろう。お前の一時の気まぐれで、どれだけの均衡が崩れるか——」
「一時の気まぐれではございません」
遮った。遮ってしまった。セラフィーナの身体が一瞬強張る。この家では、父の言葉を遮ることは許されない。
だが、前世の凛は——上司の言葉を遮れなかった。黙って頷いて、残業を引き受けて、死んだ。
もう二度と繰り返さない。
「父上。私は三ヶ月かけてこの結論に至りました。政治的影響の試算も、代替案の検討も、全て済ませた上での決断です。数字をお見せしましょうか」
父の目が鋭くなった。「数字」という言葉に反応した。この人は政治家であると同時に、数字で判断する人間だ。感情論では動かないが、データには耳を傾ける。——前世の役員と同じだ。
「……聞こう」
短い一言。しかしそれは、対話の扉が開いた合図だった。
私は準備してきた数字を並べた。ヴァルトシュタイン家の政治的同盟関係の構造、婚姻以外の紐帯の強度、ナターリアが王太子妃候補になった場合の利点。感情を排した、純粋な政治分析。
父は一言も挟まなかった。腕を組み、暖炉の炎を見つめながら聞いていた。薪が爆ぜる音だけが、言葉の合間を埋める。
全てを話し終えた時、沈黙が長く続いた。
「……お前は、いつそのような考え方を身につけた」
父の声に、僅かな困惑が混じっていた。公爵令嬢の教育にはない思考法。当然だ。これは前世の経理部主任が、数千時間の残業の果てに磨いた技術なのだから。
「ヴァルトシュタインの図書室で学びましたわ」
嘘ではない。半分は。
父はしばらく何かを考え込み——それから、低い声で告げた。
「お前を辺境ヘルムガルドに送る。頭を冷やせ」
来た。
この言葉を、私は待っていた。
計画書の第二フェーズ。辺境への追放。父にとっては罰。私にとっては——目的地。
表面上は衝撃を受けた顔を作る。目を見開き、唇を微かに震わせ、一歩後ずさる。公爵令嬢の演技。この身体は、感情を演じることに慣れている。
「辺境、ですか……?」
「領主代行として赴任しろ。最低限の運営費は支給する。それ以上は期待するな」
最低限でいい。十分だ。ゼロからのスタートアップに比べれば、初期資金があるだけマシだ。
「……かしこまりましたわ、父上」
声を震わせた。演技だ。内心のガッツポーズを完璧に隠して、打ちのめされた令嬢を演じる。目を伏せ、唇を引き結び、かすかに肩を落とす。
——計画通り。完璧に計画通り。退職金、確保。
カーテシーをする。深く。屈辱を受けた令嬢の姿で。父はその姿を見下ろし、何かを言いかけて——やめた。
◇
書斎の扉に手をかけた時だった。
「セラフィーナ」
父の声が、先ほどとは違うトーンで響いた。命令でも叱責でもない。もっと——掠れた声。
足を止める。振り返りかけて、やめた。
「……お前の母も、同じ目をしていた」
心臓が跳ねた。
母。エリザベート・ヴァルトシュタイン。セラフィーナが幼い頃に亡くなった人。ゲームではほとんど言及されない、背景設定の中の存在。
——同じ目?
何の目だ。覚悟の目か。反抗の目か。それとも——。
聞きたかった。振り返って、父の顔を見て、問いただしたかった。母はどんな人だったのか。どんな目をしていたのか。なぜ早くに亡くなったのか。
でも。
振り返ったら、公爵令嬢の仮面が剥がれる。計画が揺らぐ。感情に溺れる。
前世の私はいつもそうだった。「もう少しだけ」と思って残業を受け入れ、「あと一年」と思って退職を先延ばしにした。情に引きずられて、自分を殺した。
——今度は、違う。
「失礼いたしますわ、父上」
扉を開け、一歩踏み出す。
背後で、父が何かを呟いた気がした。聞こえなかった。聞こえなかったことにした。
◇
廊下を歩く。
壁に掛けられた肖像画の中に、一枚だけ——銀灰色の髪の女性が微笑んでいた。セラフィーナとよく似た、しかしもっと穏やかな顔立ち。
母の肖像画。
窓から差し込む月光が、絵の中の女性の瞳をほんの一瞬だけ照らした。
同じ目。
父があの言葉を口にした時の声には、怒りでも失望でもない何かが混じっていた。ほんの少しだけ——ほんの少しだけ、悲しみに似たものが。
——考えるな。今は考えるな。
母のことは、辺境に行ってから調べればいい。今は前に進むことだけを考える。
自分の靴音が廊下に響く。肖像画の列が過ぎていく。歴代のヴァルトシュタイン当主。冷厳な顔が並ぶ中に、母の柔らかい微笑みだけが異質だった。
一歩ごとに、公爵邸が遠ざかっていく。この廊下を歩くのも、これで最後かもしれない。
不思議と、寂しさは薄い。この家は——セラフィーナにとっても、私にとっても——居場所ではなかった。
明日から、出発の準備を始める。
辺境ヘルムガルド。寒冷地帯。人口二千。不採算。
——私の、新しい職場。
今度は過労死しない。させない。自分にも、誰にも。
唇の端が、微かに上がった。
計画通り。退職金は満額。配属先は辺境支社。
——さあ、始めましょうか。




