束の間の凪——セラフィーナ、有給を取る
窓を開けると、春の空気が流れ込んできた。柔らかい。冬の間ずっと肌を刺していた冷気が、いつの間にか角を丸くしている。薬草園の方角から、花の匂いが微かに漂ってきた。
ヘルガが朝食を持ってきた。パンと蜂蜜と卵焼き。いつもより品数が多い。
「ヘルガ。今日はどうしたのですか、豪勢ですわね」
「今日はお休みです」
「……は?」
「お休みです。一日。命令ではなく、お願いです」
ヘルガの目が有無を言わせない光を放っていた。この人が「お願い」と言う時は、実質的に「命令」だ。
「監査命令は一時停止しました。加工品転換は軌道に乗っています。近隣商人との取引も安定しています。今日一日くらい、帳簿を閉じても領地は崩壊しません」
「しかし——」
「セラフィーナ様」
ヘルガが初めて、名前で呼んだ。いつもは「お嬢様」だ。
「前世で有給を取れなかった分を、今世で消化なさってください」
絶句した。この人は——そういう言い方をするのか。しかも「有給」という言葉を知っている。レオンハルトが使った「残業」という前世の言葉を、ヘルガも聞いていたのだ。
「……一日だけですわよ」
「結構です。帳簿の鍵は私が預かります」
帳簿の鍵を取り上げられた。文字通りの強制休暇だ。前世の会社に、こんな上司がいたら——過労死しなかったかもしれない。
着替えて外に出た。普段着の簡素なワンピース。帳簿のインクで染みた袖ではなく、領主の正装でもなく、一人の若い女性としての装い。鏡を見たら、思ったより疲れた顔をしていた。春風が裾を揺らした。
領主館を出ると、リリアーヌが待っていた。
「セラフィーナ様! ヘルガさんから聞きました。今日はお休みですよね? 一緒に市場に行きませんか」
リリアーヌの笑顔は、春の日差しのように無防備だ。聖女の力が目覚めかけていることなど、この笑顔からは想像できない。
「市場?」
「はい! 新しい出店が三軒増えたんです。蜂蜜菓子を売っている人がいて、すごくおいしいんですよ」
蜂蜜菓子。前世のコンビニスイーツとは比べ物にならないが、甘いものには心が惹かれる。疲れた時に甘いものを食べるのは、前世も今世も変わらない人間の本能だ。
「行きましょう」
市場は小さいが活気があった。半年前は空き地だった広場に、今は常設の屋台が並んでいる。野菜、果物、チーズ、革製品。マルクスの鍛冶場で作られた台所刃物を売る店もある。
リリアーヌが蜂蜜菓子の屋台で二つ買い、一つをセラフィーナに渡した。
「はい、どうぞ!」
一口齧った。蜂蜜の甘さが口に広がる。小麦の素朴な味わい。この世界の菓子は前世のものより粗いが、素材の味がそのまま生きている。
「……おいしい」
「でしょう? 私、毎日買いに来てるんです」
「毎日?」
「はい。でもお金はちゃんと自分で稼いだ分で買ってます。契約書の清書のお仕事をいただいているので」
リリアーヌが胸を張った。自分の労働で得た報酬で、自分の好きなものを買う——この子にとっては当たり前のことだが、公爵令嬢の身分ではなかなか経験できないことだ。家出同然でここに来た少女が、半年で自立した姿。その成長に、胸が温かくなった。
布地屋の老夫婦が、新しい織物を見せてくれた。辺境で取れる羊毛を使った手織りの布。目が粗いが、丈夫で温かそうだ。
「これ、冬物の生産を始めたんです。領主様のおかげで、売り先ができましたから」
売り先——ギュンターが繋いだ近隣商人との取引だ。半年前には需要のなかった辺境の織物に、買い手がついた。小さな産業が一つ生まれた瞬間に立ち会っている。前世のプロジェクトマネジメントでは味わえなかった実感がある。
市場を歩いていると、領民たちが声をかけてきた。
「領主様、今日はお休みですか?」
「珍しいですね。お体の具合でも?」
「ヘルガさんに強制されたの?」
最後の一言を言ったのは、パン屋の奥さんだ。全員わかっている。セラフィーナが自発的に休むはずがないと。
「……ヘルガに帳簿の鍵を取り上げられました」
正直に答えたら、周囲の人々が笑った。笑い声が市場に広がっていく。温かい笑い声だ。嘲りではなく、親しみの笑い。前世のオフィスでは聞いたことのない種類の笑い声。
ルキウスが市場の端に立っていた。腕を組んで、壁に寄りかかっている。護衛のつもりなのだろうが、市場の中に入ってこない。
「ルキウス様も一緒に回りませんか?」
リリアーヌが天然の笑顔で声をかけた。ルキウスの表情が一瞬だけ崩れた。琥珀の目が泳いでいる。
「……俺は護衛だ。一緒に買い物をする立場ではない」
「護衛なら近くにいた方がいいですよね? はい、蜂蜜菓子」
リリアーヌがルキウスの手に菓子を押し付けた。ルキウスが固まった。革鎧の似合う男が、蜂蜜菓子を片手に硬直している姿は——滑稽で、どこか微笑ましかった。
「……食うか」
ぼそりと呟いて、菓子を口に入れた。無表情のまま咀嚼している。感想は言わなかった。しかし二口目を齧った時点で、答えは出ていた。
三人で市場を一周した後、マルクスの鍛冶場の前を通りかかった。いつもの槌音が響いている。入口から覗くと、マルクスが炉の前で鋼を叩いていた。休日など関係ない。鉄を打つことがこの男の生き方だ。
マルクスがこちらに気づいた。鍛冶師の目が、セラフィーナの普段着を一瞬だけ見た。
「……今日は帳簿じゃないのか」
「ヘルガに追い出されました」
「そうか」
それだけ言って、マルクスは鉄に戻った。しかしその口元に、微かな笑みがあった。鉄の男が見せる、ほんの一瞬の柔らかさ。
午後、薬草園を訪れた。オルガが新しい区画の整備をしている。聖光草の株が増え、淡い光を放つ花が一面に咲いていた。春の日差しの中で、花々が風に揺れている。
「きれい……」
リリアーヌが息を呑んだ。聖光草の光が、リリアーヌの頬を照らしている。その光が——微かに強くなった気がした。リリアーヌ自身は気づいていない。
薬草園の奥で、エミルが研究ノートを広げていた。休日でも研究は止めないらしい。セラフィーナと目が合うと、微笑んだ。
「珍しいですね、セラフィーナ様がこんな時間に外にいらっしゃるとは」
「ヘルガに追い出されました」
「ヘルガさんは賢明です。あなたには休息が必要だ」
エミルの目が穏やかだった。転生の秘密を共有する者同士の、静かな信頼がある。
「一つだけ報告を。北方の魔力脈の動きが、最近やや不安定です。竜脈の深層で何かが動いている可能性がある」
「それは——」
「今日のうちに観測記録を取ります。ご心配なく。あなたが一日でも帳簿から離れてくれるなら、安心して研究に集中できますので」
エミルが笑った。この人なりの気遣いだ。
薬草園を出る時、オルガが追いかけてきた。小さな瓶を差し出した。
「これ、新しく調合した軟膏です。手荒れに効きますよ。帳簿をたくさん書くお手に、塗ってあげてください」
「……ありがとう、オルガさん」
受け取った瓶が、手の中で温かかった。この人たちは皆、それぞれの方法で気にかけてくれている。前世では、自分の手荒れに気づいてくれる人さえいなかった。
夕暮れ。領主館に戻ると、ヨハンが玄関で待っていた。
「セラフィーナ様。王太子殿下から書簡が届いています」
レオンハルトの手紙を開いた。簡潔な文面。「監査は止めた。だが、別の動きがある。気をつけろ」。そして最後に、筆跡が少し乱れた追伸。
「……お前が笑っていることを、願っている」
心臓が跳ねた。一瞬だけ。慌てて手紙を折りたたんだ。ヨハンが何も見なかったふりをしてくれた。忠実な従者の気遣いが、今日ばかりは少し恨めしい。
手紙を引き出しにしまった。レオンハルトの文字が、不器用で真っ直ぐだったことだけ覚えている。帳簿室で一緒に帳簿をつけた夜のことを思い出した。あの時の横顔。不器用に数字と格闘する姿。——止めよう。今はそういうことを考える時ではない。
夜、窓を開けて北の空を見上げた。星が綺麗だ。今日一日、帳簿を開かなかった。領地は崩壊しなかった。ヘルガの言う通りだ。前世では「休む」ことに罪悪感を覚えていた。休めば仕事が溜まる。溜まれば残業が増える。増えれば体を壊す。その悪循環の中で、休息は「敵」だった。しかし今日、初めて休息が「味方」だと感じた。
その時——北の空に、不自然な光が走った。
一瞬だった。稲光のような、しかし音のない光。淡い金色で、地平線の向こうを照らしてすぐ消えた。
セラフィーナは目を凝らしたが、光は二度と現れなかった。エミルが言っていた「魔力脈の不安定な動き」と関係があるのだろうか。見間違いだろうか。
しかし同じ時刻、薬草園の近くにいたリリアーヌが——胸を押さえていた。
「……何、今の」
リリアーヌの右手が、淡い金色の光を放っている。光は数秒で消えた。リリアーヌは自分の手を見つめ、震えた。誰にも言えない。何が起きているのかもわからない。ただ——怖い。
北の空の光と、自分の手の光。同じ色だった。地の底の竜脈と、少女の中に眠る力が、共鳴している。
束の間の凪は、終わろうとしていた。




