王太子の帰還——王都に響く辺境の名
レオンハルトが辺境から馬を飛ばして三日。途中の宿で一泊しただけで、残りは馬上で仮眠を取りながらの強行軍だった。到着した翌朝、議会に緊急動議を提出した。「辺境ヘルムガルドに対する監査命令の不当性について」——商務大臣の越権行為を正面から糾弾する内容だ。
議場の空気が、瞬時に変わった。
「殿下、これは宣戦布告に等しい行為ですぞ」
フリッツが低声で警告した。しかしレオンハルトは議場の中央に立ち、一歩も退かなかった。
「監査命令は商務大臣の権限を逸脱している。領地経営権の審査は内務省の管轄であり、商務大臣に発令権はない。にもかかわらず、この監査は商務大臣の独断で行われた。これは手続き上の瑕疵ではなく、意図的な権限濫用である」
議場がざわめいた。貴族たちが互いに顔を見合わせている。王太子が商務大臣を名指しで批判する——前代未聞の事態だ。
カーティス・ノーヴァルが傍聴席にいた。予想通りだ。父の代理として議場を監視している。二十五歳の若い顔に、微かな笑みが浮かんでいる。余裕の表情——既に手を打ってあるという顔だ。
案の定、保守派の議員が立ち上がった。
「殿下。失礼ながら申し上げます。王太子が一辺境領主に過度に肩入れなさるのは、いかがなものか。ましてその領主は——公爵家から勘当された身であると聞き及んでおります」
噂の刃が、議場でも振るわれた。カーティスが流布した「勘当された公爵令嬢」という烙印。議員たちの目が好奇と疑念で光っている。
「余が肩入れしているのは、領主個人ではない」
レオンハルトの声が議場に響いた。抑えた声だ。しかし通る。鍛冶場で鋼を叩いていた時の、あの低く力強い声。
「余が守ろうとしているのは、法の正義だ。正当に経営されている領地が、政治的な意図で破壊されることを黙認すれば——それは王国の基盤そのものを揺るがす。領地経営の権利は、法によって保障されている。その法を、一大臣の意向で歪めることが許されるのか。今日はヘルムガルドだが、明日は別の領地が標的になるかもしれない。諸卿はそれでよいのか」
議場が静まった。レオンハルトの言葉は、ヘルムガルドの問題を個人の問題から王国全体の法治の問題に引き上げた。これはセラフィーナが教えた手法ではない。レオンハルト自身が、辺境で学んだことの結晶だ。数字を見る目、法を読む目、人を見る目——全てが、あの辺境の半年で磨かれた。
しかし保守派は簡単には折れなかった。
「法の問題だと仰るなら、根拠をお示しください。辺境の経営が正当であるという証拠を」
レオンハルトがフリッツに目配せした。フリッツが立ち上がり、束になった書類を議場に提出した。
「辺境ヘルムガルドの経済報告書です。着任半年間の税収推移、雇用創出数、近隣領地との取引実績、そして領民三十二名の署名入り嘆願書——『セラフィーナ・フォン・ヴァルトシュタインを領主として認める』旨の」
議場がどよめいた。これほどの資料を、誰が用意したのか。
フリッツだった。レオンハルトが王都に戻る前に、独断で辺境の経済データを集めていた。ギュンターの商業記録、マルクスの生産量、オルガの薬草が近隣領地で救った患者の証言——全てを数字と言葉で一つの報告書にまとめ上げた。忠実な従者が、主人の戦いのために用意した武器だ。
報告書の中には、ヘルムガルド鋼の品質が軍の装備にも匹敵すること、聖光草由来の軟膏が周辺三領地の患者に提供されていること、そして辺境の税収が半年で三倍に増加したことが記されていた。
「辺境の発展は、王国全体の利益に資する」
フリッツが淡々と読み上げた。しかしその声に、微かな誇りが混じっていた。自分が集めた数字だ。自分の目で確かめた事実だ。
議場の空気が変わり始めた。保守派の中にも、数字の前に沈黙する者が出てきた。「法の問題」として提起されたからには、感情論では反論できない。数字は嘘をつかない——それはセラフィーナの口癖だったが、今、この議場でも同じ力を発揮している。
カーティスの笑みが消えた。傍聴席で足を組み直し、指先でペンを回している。焦りの兆候だ。しかし完全には崩れていない。次の手を考えている目だ。
保守派の古参議員が最後の抵抗を試みた。
「しかし殿下。辺境の領主代行は、公爵家の嫡女でありながら婚約を破棄された方。その人物の経営する領地を王太子が庇護なさるのは——宮廷の秩序に関わる問題ではありませんか」
婚約破棄を持ち出された。レオンハルトの顔が一瞬、強張った。しかし——すぐに表情を整えた。
「婚約破棄は、双方の合意に基づくものだ。そしてその後の領地経営は、ヴァルトシュタイン嬢の個人的能力によるものであり、余との関係とは無関係である。議場で議論すべきは法的正当性であって、個人的な関係ではない」
完璧な答弁だった。感情を排し、論理で返した。しかしレオンハルトの拳が白くなっていたことに、フリッツだけが気づいていた。
採決が行われた。監査命令の一時停止を求める動議——賛成十八、反対十四。僅差ではあるが、可決された。
フリッツが小さく息を吐いた。レオンハルトは表情を変えなかった。勝った。しかしこの勝利が何を意味するか——王太子が公然と商務大臣に対立した事実は、宮廷に大きな波紋を広げるだろう。
議場が散会した後、カーティスが傍聴席から降りてきた。レオンハルトとすれ違う瞬間、低い声で言った。
「殿下。お見事です。しかし——これは始まりに過ぎません」
「ノーヴァル。余は覚えておくぞ。この監査が何のために仕組まれたか」
「何のことでしょう。商務省は適正な業務を遂行しただけですが」
カーティスが微笑んだ。父親譲りの、慇懃な笑み。しかしその目の奥に、新しい計算が回っているのが見えた。
議場を出たレオンハルトは、廊下で壁に手をついた。フリッツが駆け寄る。
「殿下、お疲れ様でした。見事なご答弁でした」
「……疲れた」
呟いた。王太子らしからぬ弱音だった。しかしフリッツの前だからこそ言える。
「フリッツ。お前の報告書がなかったら負けていた。礼を言う」
「勿体ないお言葉です。あの報告書は——辺境の人々が作り上げた実績そのものです。私はそれを書き写しただけです」
レオンハルトが薄く笑った。セラフィーナが聞いたら「素晴らしい部下をお持ちですわね」と言うだろう。
夜、宿所でセラフィーナ宛の書簡を認めた。「監査は止めた。だが、別の動きがある。気をつけろ——L」。短い文面に、言いたいことの半分も入っていない。本当は「無理をするな」と書きたかった。しかしそれでいい。長い手紙を書けば、感情が滲む。今はまだ、滲ませるわけにはいかない。
一方、カーティスは自室で父ハインリヒに鴉便を送った。「通常の手段では限界です。議会に王太子の庇護がある以上、商務省の権限では動けません。しかし——別の手段があります」。
父からの返信は一行だけだった。「好きにやれ」。
議会から去った後、カーティスが向かったのは王都の中心部。聖光教会の大聖堂だった。
白い石の聖堂。ステンドグラスの光が石畳に色とりどりの模様を落としている。高い天井のアーチが、足音を反響させる。信徒の姿はない。礼拝時間の合間を縫った、密会の時間だ。
奥の祭壇の前に、高位聖職者が待っていた。枢機卿の紫の法衣が、祭壇の蝋燭の光にかすかに揺れている。六十を超えた老人だが、背筋は真っ直ぐだ。教会の中枢を五十年近く見てきた男の佇まい。
「枢機卿猊下。突然のお願いで恐縮です」
カーティスが膝をついた。慇懃な態度は変わらない。しかし声に、今までにない切迫感がある。商業の手段で辺境を潰せなかった。議会でも負けた。残る手段は——信仰の力を借りることだ。
「辺境ヘルムガルドに、聖女の力を持つ少女がいるという情報があります」
枢機卿の目が、ゆっくりと開いた。老いた目の奥に、鋭い光が宿った。
「……聖女、と。それは確かな情報ですかな、ノーヴァルの坊や」
「はい。聖光草に触れると異常な魔力反応を示す少女です。名はリリアーヌ。辺境の領主の元に身を寄せております。宮廷魔術師エミルも関わっているとの情報があります」
枢機卿が椅子から立ち上がった。思いのほか機敏な動きだった。
「聖女は教会の管轄だ。もしそれが事実であれば——教会には調査する権利と義務がある」
権利と義務。その言葉には、百年以上の歴史が詰まっている。聖光教会にとって聖女は信仰の象徴であり、政治的な切り札でもある。辺境の領主が聖女を匿っているとなれば——教会が介入する大義名分が生まれる。
「では、巡回調査の名目で使者を送っていただけますか」
「考えておこう」
枢機卿が踵を返した。紫の法衣の裾が石畳を掃く音だけが残った。
カーティスが聖堂を出た。春の王都の空は晴れていたが、その目に映る景色は戦場だった。議会で負けた分を、教会で取り返す。辺境の領主が築いた全てを——信仰の力で崩す。
聖堂の鐘が鳴った。午後の礼拝を告げる鐘。その音が王都に響き渡る間、遠い辺境では、セラフィーナが帳簿を開いていた。嵐が近づいていることに、まだ気づかずに。




