監査の刃——カーティスの最終手段
翌日の昼過ぎ、黒塗りの馬車が領主館の前に止まった。馬車から降りてきたのは、商務省の紋章をつけた官吏三名。先頭に立つ痩身の男が、丁重すぎる礼をした。
「ヘルムガルド領主代行、セラフィーナ・フォン・ヴァルトシュタイン様。商務大臣の命により、当領地の経営実態について監査を実施いたします。監査期間は七日間。ご協力をお願いいたします」
声に感情がない。書類を読み上げるような口調。しかしその目は——周囲を観察している。領主館の外壁、庭の状態、使用人の数。着いた瞬間から査定が始まっている。
「お待ちしておりましたわ。どうぞ中へ」
笑顔で迎えた。笑顔の裏で、歯を食いしばっている。
レオンハルトが横に立っていた。王太子の存在に監査官たちは一瞬怯んだが、すぐに表情を取り繕った。「殿下がいらっしゃるとは聞いておりませんでした」と痩身の男が言った。
「辺境視察の途中だ。監査に立ち会わせてもらう」
レオンハルトの声は穏やかだったが、底に鉄が入っていた。王太子が監査に同席する——それだけで、露骨な不正工作は抑止できる。しかし問題は、そもそもこの監査自体がカーティスの仕込みだということだ。
帳簿室に案内した。三人の監査官が、棚に並んだ帳簿を見て目を見開いた。
「……これは」
「半年分の収支記録です。全て複式簿記で記帳しております」
痩身の男が帳簿を手に取り、頁をめくった。借方と貸方が正確に対応している。勘定科目の分類も体系的だ。前世で叩き込まれた会計の知識が、ここで武器になる。
監査官の一人——恰幅のいい中年の男が、眉を顰めた。
「しかし、これは王国で認められた会計基準ではない。正規の帳簿は単式記帳です」
来た。予想していた難癖だ。複式簿記はこの世界に存在しない手法。だからこそ「正規ではない」と否定できる。品質ではなく形式で攻める——官僚の常套手段だ。
「ならば単式記帳の帳簿もございますわ」
ヨハンが棚の下段から別の帳簿を取り出した。複式簿記と並行して、この世界の標準的な単式記帳も維持していた。二重管理は手間がかかったが、こういう時のための保険だった。
痩身の男の目が鋭くなった。用意周到さに感心しているのか、攻め手を一つ潰されたことに苛立っているのか。
「次に、領地経営の法的根拠を確認いたします。ヴァルトシュタイン様は現在、公爵家からの——」
「勘当同然の身、とおっしゃりたいのですね」
先回りした。相手に言わせれば攻撃になるが、自分から言えば事実の確認になる。
「領地管理権は先代領主代行からの引き継ぎです。王室への届出も済んでおります。書類をお見せしましょうか」
ヨハンが書類一式を差し出した。着任時に整えた全ての公文書。ヘルガが「念のため写しを取っておきましょう」と言ってくれた書類の束が、今になって効いている。
監査官たちが書類を精査している間、エミルが自然な動きで帳簿室に入ってきた。
「失礼。学術調査の記録を取りに来ただけです」
嘘だ。エミルは監査の様子を見に来た。宮廷魔術師の肩書は、この場に居合わせる口実になる。
監査は午後いっぱい続いた。帳簿の数字、契約書の条件、領民の雇用実態——あらゆる項目を洗われた。鍛冶場の生産量、薬草園の収穫記録、新住民の雇用契約。三人目の監査官——若い女性で、記録係を務めている——が、数字を書き取る手を止めて帳簿を見返す場面が何度かあった。驚いているのだ。この精度の帳簿が辺境で作られていることに。
しかしセラフィーナの帳簿は、前世の税務調査にも耐えられる精度で作られている。上場企業の決算監査に比べれば、この程度の監査は難しくない。数字に嘘はない。
問題は、数字以外の部分だった。
「ヴァルトシュタイン様。貴女の採用している会計手法について、その出所をお聞かせ願えますか」
恰幅のいい監査官が、何気ない口調で核心を突いてきた。複式簿記の出所。この世界に存在しない技術を、どこで学んだのか。
一瞬の沈黙。
「独学ですわ」
「独学で、この体系を? 失礼ながら、王国の学院にも存在しない会計理論です。借方と貸方の均衡を基軸にした記帳法など、商業ギルドの百年史にも記録がない」
恰幅の男の目が鋭い。この男は本当に会計を理解している。カーティスの手先だとしても、実力がある。
「商人の帳簿を研究し、より合理的な方法を模索した結果です。帳簿は取引の鏡であるべきだと考えました。一つの取引には必ず二つの側面がある——入るものと出るもの。それを同時に記録すれば、誤りは自動的に検出されます」
前世の簿記の教科書に書いてあった説明を、この世界の言葉に置き換えた。嘘ではない。しかし真実の一部を省いている。監査官が納得したかどうかは読み取れなかった。痩身の男がペンで何かを書き留めている。
エミルが口を開いた。
「もし会計手法の合理性に疑義があるのでしたら、王立学院に諮問されてはいかがでしょう。学術的な検証を経れば、正当性は客観的に証明できます」
監査官たちが顔を見合わせた。王立学院への諮問——それは数ヶ月かかる手続きだ。エミルは時間を稼ぐカードを切った。宮廷魔術師の提案を監査官の一存で退けることは難しい。
「……検討いたします」
痩身の男が苦い顔で言った。
初日の監査が終わった。完全な勝利ではない。しかし致命傷は避けた。
監査官たちが宿舎に引き上げた後、ヘルガが茶を持ってきた。
「お疲れ様でした。よく耐えましたね」
「ヘルガの保険のおかげですわ。書類の写しがなかったら、法的根拠の部分で詰まっていた」
「あの程度のこと、当然です」
ヘルガの声はいつも通り淡々としていたが、茶を注ぐ手が少し震えていた。この人も緊張していたのだ。何十年も守ってきた土地が、紙一枚で奪われるかもしれない——その恐怖を、ヘルガもまた感じていた。
「明日以降が本番ですわ。帳簿の数字で勝てても、法的根拠で突かれれば——」
「大丈夫です。あなたの帳簿は、嘘をつきません」
ヘルガの言葉が、不思議に温かかった。
夜。レオンハルトが執務室に来た。腕を組んだまま、壁に寄りかかっている。
「セラフィーナ。余は明日、王都に戻る」
「……えっ」
「この監査を政治的に止める。議会に訴える。監査命令の根拠が商務大臣の越権行為であることを証明する。それができるのは、余だけだ」
レオンハルトの声には迷いがなかった。しかしセラフィーナは知っている。王太子が特定の辺境領主を庇えば、「公私混同」と批判される。カーティスはそれすら織り込み済みだろう。
「殿下。あなたの立場が——」
「余の立場ではない」
レオンハルトが壁から離れ、まっすぐにこちらを見た。碧い目に、決意の光がある。
「これは正義の問題だ。正当に経営している領主の権利を、政治的な理由で剥奪しようとする行為は——王国の法に照らして不正だ。それを見過ごす王太子に、王位を継ぐ資格はない」
声が震えていた。怒りではない。自分の中の「義務」と「感情」の境界を、意識的に踏み越えた瞬間の震えだ。灯火の光がレオンハルトの横顔を照らしている。硬い表情の中に、覚悟が見えた。
この人は変わった。半年前、婚約破棄を宣言した時の王太子とは違う人間だ。あの時は「やられた」という困惑と、貴族としての体面が先に立っていた。しかし今——自分の言葉で、自分の正義を語っている。
セラフィーナのために動くことが、王国のためにもなる——レオンハルトはそう信じている。しかしその信念の裏には、もっと個人的な感情があることを、本人も気づいているはずだ。
「……わかりました」
引き止める言葉を飲み込んだ。この人には、この人の戦い方がある。
「ただし一つだけ。無理はしないでください。あなたが倒れたら、私も困りますので」
レオンハルトが一瞬、目を見開いた。それから——不器用に笑った。
「お前に言われるとは思わなかった。三日間寝ずに働いていた人間に」
「だからこそ、説得力があるのですわ」
軽口を叩いた。しかし胸の奥が締めつけられていた。この人が王都で戦う。自分のために。その重さを、受け止めなければならない。
翌朝、レオンハルトはフリッツと共に馬を駆って王都へ発った。
見送りに出たヘルムガルドの住民たちに片手を上げて応え、振り返らなかった。エミルが「気をつけて」と手を振り、マルクスが腕を組んだまま無言で見送っていた。ルキウスが門の前に立ち、王太子の馬が見えなくなるまで敬礼を解かなかった。ヘルガが玄関の柱に手を置いて、静かに見送っている。あの目は——レオンハルトではなく、セラフィーナを見ていた。
その背中が街道の向こうに消えるまで、セラフィーナは玄関に立ち続けていた。
「……行ってしまいましたね」
リリアーヌが横に立っていた。いつの間に来たのだろう。
「ええ。でも——あの人は必ず帰ってきます」
なぜそう言い切れるのか、自分でもわからなかった。ゲームの知識ではない。もっと単純な——信頼だ。
風が吹いた。春の風だった。しかし寒かった。
執務室に戻ると、監査官たちが残した質問票がテーブルの上にあった。明日の監査に向けた追加資料の要求。戦いは、まだ終わっていない。




