セラフィーナの過労——前世の轍を踏むな
深夜。執務室の灯火が揺れている。窓の外は真っ暗だ。虫の音すら聞こえない。静寂の中で、ペンが羊皮紙の上を走る音だけが響いている。
加工品転換の原価計算。山岳ルート偵察の補給計画。近隣商人七名との契約書の精査。港町エーリヒスハーフェンへのアプローチ戦略。ノーヴァルの次の一手の予測。間者への偽情報の効果測定。
全てを同時に進めなければならない。
今日で三日連続、睡眠が三時間を切っている。食事はヨハンが持ってくるパンと茶だけ。昼食を抜いた。夕食も途中で帳簿に戻った。ヘルガが「食べなさい」と言ったが、「後で」と答えた。「後で」が来ないことは、二人ともわかっていた。
前世と同じだ。
佐藤凛は、こうやって死んだ。深夜残業。食事を抜く。睡眠を削る。「もう少し頑張れば終わる」と自分に言い聞かせて、体が限界を超えたことに気づかなかった。病院に運ばれた時には手遅れだった。
わかっている。わかっているのに——止められない。この体は丈夫だ。転生先のセラフィーナの体は、前世の佐藤凛より若くて健康だ。しかし精神の消耗は肉体の強さでは補えない。決断の連続、責任の重圧、敵への対処——それらが積み重なって、心を削っていく。
目の前の帳簿に、領民の生活がかかっている。ノーヴァルの攻撃は止まらない。一日でも計算を間違えば、資金が尽きて全てが崩壊する。前世の「締め切り」とは比較にならない重さが、肩にのしかかっている。
ペンを握る手が震えた。指先が冷たい。視界の端が暗くなっている。
ヘルガが午後に一度来た。「食べなさい」とパンとチーズを置いていった。手をつけていない。オルガが薬草茶を持ってきた。「飲めば少し楽になりますよ」と。飲んだ。しかし仕事の手は止めなかった。
夜になってヨハンが来た。「セラフィーナ様、今日は——」と言いかけて、私の顔を見て言葉を飲み込んだ。何を言っても止まらないと悟ったのだろう。黙って灯火の油を足し、毛布を肩にかけてくれた。毛布の温もりに気づいて、ようやく自分が寒さに震えていたことを知った。春の夜は、まだ冷える。
その時——扉が開いた。
「……また残業か」
レオンハルトの声だった。
振り返った。廊下の薄暗い灯りを背に、長身の男が立っている。簡素な白シャツに革のベスト。片手に盆を持っている。盆の上には、スープの椀とパンと、湯気の立つ薬草茶。
「殿下……いつ王都からお戻りに」
声が掠れていた。喉が渇いている。最後に水を飲んだのはいつだったか。
「今朝だ。関税法の可決を見届けてから馬を飛ばした。戻ってきたら——ヘルガに言われた。『お嬢様が三日間ろくに食べていない。あなたが止めなさい』と」
ヘルガが。あの人は、自分で直接止めるのではなく、レオンハルトを使った。なぜなら——私がヘルガの言葉は「後で」と流せても、レオンハルトの前では流せないことを、あの侍女長は見抜いているからだ。
レオンハルトが執務室に入ってきた。盆をテーブルの空いた場所に置き、帳簿を押しのけた。帳簿に書きかけのインクが滲みそうになったが、レオンハルトは気にしなかった。
「食え」
「……まだ仕事が」
「食ってから言え」
有無を言わせない声だった。王太子の命令ではなく、心配している人間の声だ。
スープを一口飲んだ。温かい。ヘルガの根菜スープだ。体の芯まで冷えていたことに、温かさが触れて初めて気づいた。
「……おいしい」
「当たり前だ。ヘルガが特別に作った」
レオンハルトが椅子を引いて、向かいに座った。腕を組み、私がスープを飲む姿を見ている。監視というより——見守っている目だ。
「セラフィーナ。一つ聞く」
「何ですか」
「『残業』という言葉を、お前は以前も使った。前世の言葉だと、エミルから聞いた。——前世でも、こうやって体を壊したのか」
スプーンが止まった。
あの夜、転生の秘密を明かした。処刑エンドも話した。しかし前世の死因までは——話していなかった。
「……過労死、と言います」
自分でも驚くほど、声が平坦だった。他人事のように聞こえる。何度も何度も反芻した過去は、痛みを通り越して記号になる。
「働きすぎて死ぬことです。前世の私は、深夜の職場で倒れて、そのまま目が覚めませんでした。次に目を覚ましたのが——この世界でした」
レオンハルトの顔から血の気が引いた。碧い瞳に、怒りと悲しみが同時に浮かんだ。
「働きすぎて——死んだのか。お前が」
「ええ」
「それを——今、繰り返そうとしているのか」
声が震えていた。怒りではない。恐怖に近い何かだ。目の前の女が、また同じ理由で死ぬかもしれないという恐怖。
「殿下、大丈夫です。今回は——」
「大丈夫ではない」
レオンハルトが立ち上がった。テーブルの上に両手をつき、身を乗り出した。碧い目が、至近距離で私を見つめている。
「余にできることがあるなら言え。一人で全部やろうとするな。お前は——お前は前世で一度死んでいる。同じことを繰り返すな」
その声が、胸の奥の何かを揺さぶった。
前世では、「無理するな」と言ってくれる人はいなかった。上司は「もっとやれ」と言い、同僚は自分の仕事で手一杯だった。誰にも止められず、そして止まれなかった。
しかし今——目の前に、止めてくれる人がいる。
「……少し」
声が震えた。
「少し、手伝っていただけますか」
レオンハルトの目が一瞬だけ潤んだ。すぐに引き締めた。
「何をすればいい」
「関税法の可決を受けて、加工品転換の税務計算を修正する必要があります。前にお教えした複式簿記の知識で——」
「やる」
即答だった。帳簿を手に取り、ペンを構えた。王太子が深夜の執務室で帳簿に向かう姿。これを王都の人間が見たら卒倒するだろう。
「殿下。字が——少し雑ですわ」
「うるさい。数字が合っていればいいだろう」
「帳簿の美しさは正確性の証です」
「……余は武官上がりだ。字は勘弁しろ」
小さく笑った。深夜の執務室で、二人で帳簿に向かっている。ゲームのどのルートにもなかった場面だ。王太子が辺境の執務室で、灯火の下で数字と格闘している。
レオンハルトの横顔を見た。真剣に帳簿に向かう表情は、鍛冶場で鋼を見つめていた時と同じだ。丁寧に、一つ一つ。不器用だが、手を抜かない。この男の本質は、そこにある。
スープを飲み終えた。体が温まっている。まだ眠くはない。しかし、さっきまでの切迫感が少し和らいでいた。一人ではないと思えるだけで、体の力の入り方が変わる。
「セラフィーナ」
「はい」
「余は——お前を処刑する物語を、許さないと言った。だが、過労で倒れるのも許さない。それは処刑と同じだ」
言葉が胸に刺さった。深く、温かく。
「……ありがとうございます、殿下」
「礼はいい。——寝ろ。明日の分は余がやる」
「殿下に帳簿を任せたら、朝になって数字が合わなくなっていそうですわ」
「失礼な奴だな」
軽口を叩き合いながら、少しずつ肩の力が抜けていく。灯火が二人の影をテーブルの上に落としている。二つの影が、帳簿の上で重なっていた。
前世の佐藤凛が最後まで得られなかったもの——「頼る」ということの意味を、この世界で初めて学んでいる。頼ることは弱さではない。信頼の証だ。そしてレオンハルトは、その信頼に応えてくれる人間だ。不器用に、真っ直ぐに。
深夜の執務室で、二つのペンが羊皮紙の上を走る。時折レオンハルトが「この数字は何の勘定だ」と聞き、「減価償却です」と答える。「げんかしょうきゃく……?」と眉を顰める王太子に、前世の会計知識を噛み砕いて説明する。妙な光景だ。しかし不思議と、心が安らいでいた。
灯火の油が尽きかけた頃、レオンハルトが「もう寝ろ」と帳簿を取り上げた。抗議しようとしたが、碧い目に有無を言わせぬ光があった。
「残りは余がやる。字が汚いと文句を言われるのは覚悟の上だ」
「……ありがとうございます、殿下」
「礼はいらん。——二度と、一人で全部抱え込むな」
その言葉を胸に、久しぶりに四時間眠った。レオンハルトが帳簿を引き継いでくれたおかげだ。翌朝目覚めた時、体が軽かった。四時間でも、ゼロとは天と地の差がある。テーブルの上には、レオンハルトの不器用な字で埋められた帳簿が三冊。数字は——合っていた。全て。
しかし安息は長くは続かなかった。
翌朝。束の間の休息を取ったセラフィーナの元に、急使が到着した。
王都からの公式文書。商務大臣ハインリヒ・ノーヴァルの名で発令された——「辺境ヘルムガルドの領地経営権に関する監査命令」。
文面を読んだ。「辺境ヘルムガルドにおける領地経営の適正性に疑義あり。王室勅命による特別監査を実施し、経営権の継続可否を審査する」——法律用語で飾られているが、要するに一つのことしか言っていない。
セラフィーナの経営権そのものを剥奪しようとしている。
流通封鎖、関税法、出自攻撃——全ては布石だった。本命はこれだ。経営権を奪えば、ヘルムガルドの全てが終わる。
レオンハルトが背後から文書を読み、顔色を変えた。
「……余が王都にいる間に、これを通したのか」
拳が白くなるほど握りしめられていた。
窓の外で、朝日が昇り始めている。新しい一日が始まる。しかしその光は、嵐の前の最後の陽光かもしれなかった。




