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処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


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間者狩り——ヘルガの情報網、本領発揮

 夜。執務室で二人きり。ヘルガが持ってきたのは、新住民の名簿——彼女の頭の中にだけ存在する、紙に書かれていない名簿だ。


「ブルーノ・ケーラー。三ヶ月前に炭焼き職を求めて来訪。ブレーメン出身と自称。しかし——」


 ヘルガの声が低くなった。


「ブレーメンの炭焼きは落葉樹を使います。しかしあの男は先日、針葉樹の炭を焼こうとしていた。針葉樹炭は北方の技法。ブレーメンの人間なら知らないはずです」


 些細な矛盾。しかしヘルガはそれを見逃さなかった。この女性は領地の全世帯を観察し、記憶し、分類している。侍女長という肩書の下に、情報将校の目を持っている。


「他に不審な人物は?」


「三名。ただし確証があるのはブルーノだけです。残り二名は——経歴の確認に時間がかかります。一人はザールフェルトから来たと言っている木工職人。もう一人は南の街道沿いの町から来た御者見習いです。どちらも人柄に問題はありませんが、やってきた時期がクルトと近いのが引っかかります」


「ノーヴァルが複数の目を送り込んでいた可能性がある」


「商人の常套手段です。一つの情報源に頼らない。三つの目で見て、三つの耳で聞く」


 ヘルガの言葉に、商人の世界への深い理解が滲んでいた。この人はどこでそれを学んだのだろう。


「クルトとブルーノの二名を泳がせる方針は変わりません。偽情報を流し分けましょう。ヘルガ、具体的に——」


「クルトには商業情報を。ブルーノには軍事情報を」


 ヘルガが即座に答えた。既に考えていたのだ。


「クルトは商人崩れの間者です。商売の話に食いつく。だから『在庫が売れ残って資金繰りが苦しい』という情報を流す。一方ブルーノは元傭兵の匂いがします。軍事的な話に敏感でしょう。だから『護衛隊の訓練が遅れている』『山岳ルートの偵察で魔獣に遭遇して撤退した』という情報を流す」


「二人に別々の嘘を流せば——」


「カーティスが二つの報告を突き合わせた時、矛盾が見える。間者の情報そのものの信頼性が落ちます。そうなれば、こちらの本当の動きが見えにくくなる」


 ヘルガと私の視線が交わった。この人は——ただの侍女長ではない。


「ヘルガ。一つ聞いてもよろしいですか」


「何でしょう」


「あなたは以前から、この領地のことを全て把握していらっしゃいますわね。先代の領主の時代から」


 ヘルガの目が微かに揺れた。しかしすぐに戻った。何十年もかけて培った冷静さが、一瞬の動揺を飲み込む。


「先代の時代——ヘルムガルドは死んだ土地でした」


 ヘルガの声が変わった。いつもの実務的な声ではなく、深い場所から出てくる声。


「代官が私腹を肥やし、鍛冶場は半分の炉が消え、若者は次々と王都に出ていった。冬には薪が足りず、老人が凍死する年もありました。その度に私が遺体を布で包んで——」


 ヘルガが言葉を切った。唇が微かに震え、すぐに収まった。何十年もの記憶を語るには、感情を抑える力が必要なのだ。


「マルクスが残ったのは奇跡です。あの男は鉄を打ち続けるためだけにここに留まった。オルガが残ったのは、亡くなったご主人の薬草園を守るためでした。ギュンターが残ったのは——」


 一拍の間。


「三十年前の敗北の復讐を、まだ諦めていなかったからでしょう。あの男は粘り強い」


「そして、ヘルガは?」


「私は——」


 ヘルガが窓の外を見た。月明かりが庭を照らしている。ここに何十年も住み続けた女性の目が、過去と現在を同時に見ていた。


「待っていたのです。この土地を変えてくれる人を」


 声が静かだった。しかしその静けさの中に、積年の想いが凝縮されていた。


「代官が来ては去り、王都の商人が来ては搾取し、領民が去っていく。それを見守ることしかできなかった。何十年も。私にできるのは、この館を守り、この土地の記憶を保つことだけだった」


 ヘルガの目が私を見た。深い目。全てを見透かすような、しかし温かい目。


「あなたが来た時、わかりました。この人だと。馬車を降りて最初にしたことが、鍛冶場と帳簿を確認することだった。領民に会いに行くと言ったのは、着任二日目でした。あの日——ようやく、待っていた甲斐があったと思いました」


 胸が詰まった。ゲームには存在しなかったキャラクター。ヘルガはゲームのどのルートにも登場しない。しかし彼女がいなければ、この辺境の再建は不可能だった。着任初日に出迎えてくれたこの人の存在が、全ての土台だった。


「……ありがとうございます、ヘルガ」


 声が震えそうになった。前世で過労死する直前、「待っている」と言ってくれた人は一人もいなかった。誰も待っていなかったから、倒れても誰も気づかなかった。しかしここには——何十年も待っていてくれた人がいた。


「お礼は不要です。私は仕事をしているだけですから」


 いつもの声に戻った。しかし口元に、微かな笑みが浮かんでいた。ヘルガの「仕事」は、この土地と人を守ること。それを何十年も、報われることなく続けてきた。その献身に、今ようやく応えることができている。


「それで——間者への偽情報の件ですが」


「ええ」


「エミル殿に協力を仰ぎましょう。鴉に追跡魔術が付与されていたのを検出したのは彼です。ブルーノの鴉も同様に追跡できれば、情報がどこに向かっているか特定できます」


「賢明ですわ。明日の朝、エミル殿に依頼します」


 ヘルガが頷いて、茶を淹れ直した。深夜の執務室に、根菜茶の香りが漂う。この香りが、いつの間にか「安全」の匂いになっていた。ヘルガがいる場所は安全だ。なぜなら彼女は、この領地の全てを見ている。


 翌朝。エミルに鴉の追跡を依頼した。エミルは微笑みながら引き受けた。


「面白いですね。間者が二人。それぞれに違う嘘を流して情報源の信頼性を攻撃する。見事な情報戦です。セラフィーナ様、あなたは本当に——」


「何ですか」


「いいえ。この世界の人間ではない発想だと思っただけです」


 冗談のように聞こえたが、目は笑っていなかった。転生の真実を知っているからこそ言える言葉。周囲に人がいないことを確認した上での発言だ。エミルは、秘密の共有者としての距離感を正確に保っている。


「鴉の追跡結果は三日以内にお伝えできます。もし二羽の鴉が同じ場所に向かっているなら、カーティスの連絡拠点が特定できる。そうなれば——」


「攻撃は最大の防御になりますわね」


 エミルが微笑んだ。学者の顔ではなく、参謀の顔だった。


 エミルが温室に向かった後、ヨハンが朝食を運んできた。


「セラフィーナ様。今朝はパンと蜂蜜、それとオルガさんの薬草茶です」


「ありがとう、ヨハン」


「……間者の件、大丈夫ですか」


 ヨハンの声が低い。間者の存在は一部の人間にしか知らされていない。ヨハンは当然知っている。


「大丈夫です。むしろ利用できます」


「セラフィーナ様は本当に強いですね」


「強くないですわ。強いふりをしているだけ」


 パンを齧った。蜂蜜の甘さが口に広がる。ヘルムガルドの養蜂は新住民の一人が始めたものだ。こうした小さな産業が、一つずつ積み重なって領地の経済を支えている。その全てを、ノーヴァルは潰そうとしている。


 昼前に、ルキウスが訓練場から戻ってきた。日に焼けた顔に汗が光っている。


「セラフィーナ。護衛隊の第一次偵察、明後日に出発する」


「わかりました。気をつけて」


「俺自身は行かない。隊長はラウルに任せる。俺はここに残って訓練を続ける」


 ルキウスの判断は正しかった。近衛騎士団長が偵察に出れば、間者に報告される。「護衛隊の訓練が遅れている」という偽情報との矛盾も生じる。


「ルキウス殿。一つだけ——」


「なんだ」


「ラウルに、山道で異常なものを見つけたら無理せず引き返すよう、伝えてください。獣の足跡が増えていることは把握しています。命を優先してください」


 ルキウスの琥珀の目が微かに揺れた。


「……わかった。伝える」


 不器用な頷き。しかしその不器用さの中に、私への配慮を受け入れる柔らかさが見えた。鎧が、少しずつ薄くなっている。学園時代に恩を受けてから六年。「借りを返す」だけでは説明がつかないものが、この男の中で育ち始めているのを感じる。しかし今はそれを考える余裕がない。


 夕暮れ時。偽情報の第一弾を仕掛けた。ヨハンがクルトの近くで「うっかり」帳簿の数字を口にした。「先月の赤字が三百ギルダーを超えた」——実際には加工品転換で持ち直しつつあるが、クルトにはそう見せない。


 同じ頃、マルクスの工房でラウルがブルーノの前で「護衛隊の訓練、ルキウス殿が厳しすぎて半分が脱落した」と嘆いて見せた。実際には脱落者はゼロだが、ブルーノの耳にはそう入る。


 偽情報が王都に届くまで五日。カーティスの反応が変わるまでさらに数日。その間に——山岳ルートの偵察を成功させ、港町との接触を始めなければならない。


 窓の外で、夕日が北の山を赤く染めていた。あの山の向こうで、明後日、ラウルたちが初めての偵察に出る。若い彼らの命を預かっている重さが、肩にのしかかる。


 しかし退くわけにはいかない。ヘルガが何十年も待っていた変化を、ここで止めるわけにはいかない。


 時間との戦いだった。そして時間は、味方ではない。

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