辺境連合商業圏——反撃の青写真
テーブルの上に、三枚の大きな地図が広げられている。辺境全域の地図、近隣三領地の経済ネットワーク図、そして山岳ルートから港町エーリヒスハーフェンに至る交易路の地図。リリアーヌが一晩かけて清書した経済圏の概念図が、その横に並んでいる。
集まったのは十人。ギュンター、マルクス、オルガ、ヨハン、ヘルガ。そしてルキウス、エミル、リリアーヌ。レオンハルトは王都にいるが、フリッツ経由で会議の内容は共有する手筈になっている。
ヘルガが全員分の茶を配り終えた。いつもの根菜茶。この香りが広間に満ちると、会議が始まる合図だった。
「本日は、ノーヴァル商会の包囲網に対する反撃計画をお伝えします」
立ち上がった。全員の視線が集まる。覚悟を決めた目、不安な目、期待する目。それぞれの感情が入り混じっている。しかし一つだけ共通しているのは、全員がここにいることを自ら選んでいるという事実だ。誰も強制されていない。命令で集まったのではない。それぞれの理由で、この辺境に留まっている。
前世の会議室を思い出した。蛍光灯の下で、疲れた顔の同僚たちが資料を睨んでいた。あの頃とは何もかもが違う。ここにあるのは義務ではなく、意志だ。
「まず現状の整理です。ノーヴァルの攻撃は三方面から来ています」
指を折った。
「一つ、仲買五社の取引停止と街道の通関封鎖。これにより王都向け流通が事実上止まっています。二つ、辺境産品特別関税法。通常の三倍の関税で、価格競争力を奪う法案が議会で審議中です。三つ——」
声を低くした。
「王都社交界と商業ギルドにおける、ヘルムガルド領への信用攻撃。『辺境の開発は見せかけ』『勘当された公爵令嬢の道楽』という噂を流しています」
三つ目の攻撃を聞いて、ヨハンの拳が握られた。マルクスの太い眉が寄せられている。「道楽だと」という声が聞こえそうな表情だ。
「しかし——これらの攻撃には共通の弱点があります」
地図を指差した。
「全てが『王都を中心とした流通網』を前提にしていること。王都の関税、王都の仲買、王都の社交界。カーティス・ノーヴァルは王都の中でしか物を考えていません。ならば——」
リリアーヌの経済圏概念図を持ち上げた。中央にヘルムガルド、周囲にヴォルフスハイム、リンデンブルク、ザールフェルトの三領地。その外側に港町エーリヒスハーフェン。そしてさらに外側に「海外市場」の文字。王都はこの図のどこにも登場しない。
「これが、辺境連合商業圏の構想です」
息を整えた。前世のプレゼンテーションの経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。しかしあの頃と違うのは、聴衆が上司ではなく仲間だということだ。
「要点は三つあります」
一つ目。
「原材料ではなく加工品として出荷し、関税の品目分類を変えます。マルクス殿のヘルムガルド鋼を農具や台所刃物に加工すれば、特別関税の対象外になります。鋼材に三倍の関税がかかっても、包丁や鍬にはかかりません。オルガさんの薬草も、乾燥薬草ではなく調合軟膏として出荷すれば品目が変わります。法の隙を突くのではなく、法の中で最も賢い選択をするだけです」
マルクスが腕を組んで頷いた。先日の相談で既に試作に入っている。農具の試作品は三日後に完成する予定だ。
二つ目。
「近隣三領地と正式な経済同盟を結び、物流コストを分担します。ヴォルフスハイムのクラウス殿とは先物取引の契約が成立しています。リンデンブルクとザールフェルトの商人とも交渉中です」
リリアーヌの概念図を全員に見せた。三領地を線で結んだ図の中心にヘルムガルドがあり、物流と資金の流れが矢印で示されている。
「経済同盟の核は『相互依存』です。例えば、ヴォルフスハイムの木材でヘルムガルドの炭を焼き、その炭で鋼を鍛え、鋼でリンデンブルクの農機具を作り、農機具でザールフェルトの農地を耕す。一つの領地が攻撃されれば全員が損をする構造を作ることで、ノーヴァルの個別撃破戦略を無効化します」
ギュンターが不敵に笑った。三十年前に一人で戦って負けた男が、今は同盟を作ろうとしている。歴史は繰り返さない——今度は。
三つ目。
「東の港町エーリヒスハーフェン経由で海外交易に進出します。王都の管轄外の取引ルートを確保することで、関税と流通封鎖を根本的に無効化します」
ルキウスが口を開いた。
「山岳ルートの護衛隊は訓練中だ。来週には最初の偵察隊を出せる。南斜面のルートなら、魔獣との遭遇を最小限に抑えられる」
「ありがとうございます、ルキウス殿。護衛隊の装備は——」
「マルクスの剣が六振り、来週完成する。あとは革の胸当てと盾。ヘルムガルドの鍛冶場で全て揃う」
マルクスとルキウスが目を合わせた。鍛冶師と騎士。職種は違うが、「ものを作る手」と「ものを守る手」として、互いへの敬意がある。
エミルが手を挙げた。
「情報戦についても一点。間者クルトに流した偽情報——『ヘルムガルドが資金難で在庫を投げ売りしている』が、王都に届いた頃合いです。カーティスがこれを信じれば、攻撃の手を緩める可能性があります。油断させた隙に、山岳ルートの開通を急ぎましょう」
「エミル殿の提案を採用します。ただし——」
全員を見回した。
「この計画にはリスクがあります。近隣領地の領主を説得する時間が必要です。その間、カーティスの攻撃に耐え凌がなければなりません。運転資金は加工品転換を考慮しても、あと二ヶ月。山岳ルートの開通がそれまでに間に合わなければ——」
「間に合わせる」
ルキウスが静かに断言した。
「俺が来た意味はそこにある」
不器用な宣言。しかしこの男の言葉には、学園時代から積み上げてきた武勲と信頼が伴っている。ルキウスが「やる」と言えば、やる。それを疑う人間は、この場にはいなかった。
リリアーヌが立ち上がった。
「あの——私からも一つ。港町の商人に見せる見本帳を作りました。ヘルムガルド鋼の製品と薬草の一覧です。これを護衛隊の偵察に持たせてもらえませんか。商品を見れば、港町の商人も興味を持ってくれると思います」
ギュンターが見本帳を手に取り、ページをめくった。
「嬢ちゃん……これは俺が三十年かけて作れなかったものだ。商品カタログとしては上出来だぞ」
リリアーヌの頬が赤くなった。
ヘルガが静かに茶を注ぎ足しながら呟いた。
「こんなに賑やかな会議は、先代の頃にもなかったですねえ」
オルガが手を挙げた。
「薬学院の同門から返事が来ました。三人が取引に興味を示しています。彼らはギルドの外にいるので、ノーヴァルの圧力が届きません。来月には最初の納品が可能です。特に解熱と鎮痛の調合薬は、春先に需要が高まります」
「ありがとうございます、オルガさん。亡きご主人の人脈が、今の私たちを助けてくれていますわね」
オルガの目が一瞬潤んだ。しかしすぐに背筋を伸ばし、力強く頷いた。
ギュンターが立ち上がった。
「三十年前にも王都商人が辺境の鉱山利権を奪おうとした。あの時は負けた。だが今回は——」
セラフィーナ、ルキウス、エミル、リリアーヌ。そしてマルクス、オルガ、ヨハン、ヘルガ。老商人の目が一人一人を見渡した。
「面白い駒が揃ってる。いや——駒じゃねえな。仲間が、だ」
全員が動き始めた。この部屋にいるのは、領主と家臣ではない。一つの目標に向かうチームだ。前世では得られなかったもの。一人で全てを背負う必要がないこと。それがどれほど心強いか——前世の佐藤凛には、ついに理解できなかった感覚だ。
しかし同時に、この人たちを巻き込んでいるのは私だ。ノーヴァルとの戦いも、魔獣の脅威も、聖光教会の影も——全てが、私がこの辺境を変えようとしたことから始まっている。
会議が終わった後、ヘルガが険しい顔で近づいてきた。
「領主様。困ったことが」
「何でしょう」
「新住民の一人が、夜中に鴉を飛ばしているのを台所番のエルザが目撃しました。クルトではありません。別の人間です」
間者がもう一人。
クルトだけではなかった。ノーヴァルは、保険をかけていた。
「……名前は」
「ブルーノ。三ヶ月前に炭焼きの仕事を求めてやってきた男です」
ヘルガの目が冷たく光った。この女性は領地の全世帯の事情を記憶している。ブルーノの経歴に「不自然な空白」があったことを、今思い出したのだろう。
「泳がせますか、それとも——」
「泳がせます。クルトには経済的な偽情報を、ブルーノには軍事的な偽情報を。情報源が二つあるなら、それぞれに別の嘘を流しましょう。カーティスが二つの情報を突き合わせた時に矛盾が生じる。そうすれば、間者の報告そのものの信頼性が落ちます」
ヘルガが薄く笑った。領主と侍女長の間に、言葉を超えた共犯の空気が流れた。
「領主様。あなたは——この辺境に来てからずっと、敵の二手先を読んでいらっしゃいますね」
「前の職場で鍛えられましたから」
ヘルガの目が一瞬だけ深くなった。「前の職場」という言葉の裏にあるものを、この人は感じ取っているのかもしれない。しかし問わない。ヘルガは常に、問われるまで黙っている。そしてその沈黙が、この領地の最も深い知恵の一つであることを、私は知り始めている。




