卒業式は修羅場フェスティバル
控室の姿見に映る自分は、一分の隙もない公爵令嬢だった。深い紫のドレス、銀の刺繍、ヴァルトシュタイン家の紋章をあしらった胸元のブローチ。完璧な鎧。
窓の外から、ファンファーレの音が聞こえた。王立学園の卒業式。華やかな金管楽器の旋律。胃がきりきりと痛む。
「セラフィーナ様、間もなくお時間です」
侍女の声に頷きながら、最後のチェックリストを頭の中で確認する。
一、卒業式の壇上で、公式に婚約破棄を宣言する。
二、ゲームのイベント——ヒロインが王太子に「この女がいじめを」と告発するシーン——より先に動く。先手必勝。
三、宣言後は速やかに退場。感傷に浸る暇はない。
計画は単純だ。しかし単純であるがゆえに、失敗の余地がない。
——嘘だ。手が震えている。
袖の中で拳を握り込んだ。大丈夫。前世の経験で最も過酷だったのは、百人の株主の前で決算報告をした時だ。あの時も手は震えていた。でもやり遂げた。
今日やることは、あれと同じ。数字の代わりに、自分の人生を報告するだけ。
「参りますわ」
控室の扉を開けた。
◇
大講堂は人で埋め尽くされていた。
シャンデリアの眩い光が天井のドームに反射し、数百人の貴族子弟とその家族が着飾って座っている。壇上には学園長、来賓の貴族たち、そして——王太子レオンハルトの姿。
あの金髪碧眼が壇上から会場を見渡している。その隣にフリッツ。壁際には——赤銅色の髪。ルキウス・フェルグランドが腕を組んで立っていた。来賓か護衛か。どちらにせよ、攻略対象の一人が至近距離にいる。
さらに視線を巡らせると、中段の席に藍色の長髪と銀縁の眼鏡。宮廷魔術師エミル・ヴィスタリア。何やら微笑みを浮かべて——いや、あの顔は「面白いものを見に来た」の顔だ。前世の職場にもいた、トラブルを楽しむタイプ。
そして最前列。小柄なピンクブロンドの少女が、きょろきょろと落ち着かない様子で座っている。あれが——リリアーヌ・ローゼンタール。ゲームのヒロイン。実物を見るのは初めてだ。
思ったより——普通の女の子に見える。怯えた子鹿のような目。この子が聖女の力を持っているとは、見た目からは想像できない。
攻略対象が三人。ヒロインが一人。修羅場の役者が全員揃っている。
——修羅場フェスティバル開幕。
式典が始まった。学園長の長い挨拶。来賓の祝辞。退屈な儀式が粛々と進む。その間、私の心臓はずっと早鐘を打っていた。
隣の席の令嬢が小声で「婚約破棄の噂、本当なのかしら」と囁くのが聞こえた。噂は予想以上に広まっている。レオンハルトへの面会の翌日、フリッツの報告書が宮廷内に出回ったのだろう。
前世の株主総会でも、こんなに緊張したことはない。あれは他人の金の話だった。これは自分の命の話だ。
壇上のレオンハルトが、一度だけこちらを見た。鋭い視線に何が込められているのか、距離があって読み取れない。ただ、前回の面会より顔色が悪いような気がした。
——考えるな。
卒業証書の授与が始まった。一人ずつ名前が呼ばれる。五十音順——いや、この世界の貴族序列順だ。公爵家の令嬢は上位。私の番は——もうすぐだ。
ゲームでは、このタイミングでリリアーヌが立ち上がり、「セラフィーナ様が私に嫌がらせを!」と告発するはずだった。その告発を受けてレオンハルトが「余の婚約者にあるまじき行い」と断罪し、公衆の面前で婚約破棄と処刑を宣言する。
しかし。
私はヒロインに嫌がらせなどしていない。だからリリアーヌには告発する理由がない。ゲームのシナリオは、もう壊れている。
ならば。壊れたシナリオの上に、自分のシナリオを書く。
「セラフィーナ・ヴァルトシュタイン」
名前が呼ばれた。立ち上がる。数百人の視線が集まった。その重さが、物理的に肩にのしかかる。
壇上に進む。卒業証書を受け取る。学園長が微笑む。ここまでは台本通り。
だが私は、証書を受け取った手をそのままにして——会場に向き直った。
「皆様、少々お時間をいただきたく存じます」
ざわり、と空気が揺れた。式典の最中に個人がスピーチを始めることは異例だ。学園長が困惑した顔をする。しかし公爵令嬢の発言を遮る権限は、この場にはない。
「このたび、私セラフィーナ・ヴァルトシュタインは——王太子レオンハルト・アウレリウス殿下との婚約を、自らの意志で解消いたします」
会場が凍りついた。
文字通り、凍りついた。シャンデリアの光だけが変わらず降り注ぎ、数百人の人間が石像のように固まっている。
壇上のレオンハルトが——表情を失った。碧い目が見開かれ、口が微かに開いて、何も言葉が出てこない。フリッツが横で青ざめている。
壁際のルキウスは腕を組んだまま、探るような目でこちらを見つめている。中段のエミルは——笑っていた。興味深そうに、あの銀縁の眼鏡の奥で。
最前列のリリアーヌは、ただただ呆然としていた。状況を理解できていない。告発するどころか、目の前で何が起きているのかわからない顔だ。
——予定通り。シナリオは私が書く。
「理由は私的なものでございますので、この場では控えさせていただきます。殿下には既にお話ししておりますわ」
声が震えていないことを確認する。大講堂のドームに私の声が反響し、自分自身に跳ね返ってくる。それは思ったよりも——強い声だった。
「今後は辺境領地の経営に携わる所存です。皆様のご多幸をお祈りいたしますわ」
完璧なカーテシー。深く、優雅に、一分の隙もなく。
そして壇上を降りた。背筋を伸ばし、一歩一歩を確かめるように歩く。数百人の視線が背中に突き刺さる。ひそひそ声が波のように広がっていく。
扉に向かう。振り返らない。振り返ったら、レオンハルトの顔を見てしまう。あの凍りついた表情を。
前世では辞表を出せなかった。満員電車に揺られ、残業を受け入れ、疲れ果てて、死んだ。
今度は——自分で、壇上に立って、数百人の前で、運命を拒絶した。
この一瞬だけは、前世の私が夢見た「解放」だった。
扉が近づく。あと十歩。あと八歩。
背後で、誰かが立ち上がる気配がした。椅子が床を擦る音。
「あの人、なんで自分から……?」
小さな声。若い、女の声。振り返らなかったが——最前列にいたピンクブロンドの少女、リリアーヌの声だったかもしれない。
ゲームのヒロインが私に興味を持つ。それは想定外のフラグだ。だが今は関係ない。
扉を押し開けた。回廊に出る。背後で扉が閉まり、ざわめきが遠くなった。
◇
人気のない回廊。壁に背を預ける。石壁の冷たさが、薄いドレス越しに背中を刺す。
荒い呼吸。心臓が爆発しそうだ。膝が笑っている。
「……退職届、受理されましたわね」
呟いた瞬間——足音が聞こえた。
石の床を踏む、重い革靴の音。一歩ごとに近づいてくる。
振り向くより先に、声が背中を叩いた。
「セラフィーナ」
低く、重く、怒りに満ちた声。
背筋が凍った。
この声を、私は——セラフィーナの記憶は——幼い頃から恐れていた。
父、アルベルト・ヴァルトシュタイン公爵。
「卒業式の壇上で何をしたか、理解しているのか」
足音が止まった。振り返る勇気を、どこからか絞り出す。
廊下の向こうに立つ父は、普段の冷静な宰相の顔ではなかった。目が据わっている。怒りを押し殺した、しかし押し殺しきれていない表情。
前世のブラック企業の社長に怒鳴られた時より——ずっと怖い。あれは他人だった。この人は、父だ。
「……ヴァルトシュタインの名を、あの大講堂で——」
声が途切れた。怒りで言葉が出ないのか、あるいは言いたいことが多すぎるのか。
足が竦む。公爵令嬢の身体が、父の怒気を本能的に恐れている。セラフィーナの記憶が浮かぶ——幼い日、母が亡くなった後、この人は一度も私を抱きしめなかった。叱責は山ほど受けた。期待も山ほど背負わされた。でも、抱きしめられたことは——一度もない。
「書斎に来い。話がある」
低い命令。有無を言わさぬ声。
前世の社長は怒鳴るだけだった。この人は、怒鳴らない。声を低くするだけだ。それが余計に怖い。
父の背中が歩き出す。革靴の音が回廊に反響する。
——次の嵐が来る。
しかし私は、もう嵐を避ける気はない。退職届は出した。あとは退職金を——辺境を——勝ち取るだけだ。
震える膝に力を込めて、父の背中を追った。




