反撃の糸口——前世の経理部長、先物取引を仕掛ける
テーブルの上に帳簿が三冊並んでいる。売上台帳、在庫管理簿、そして資金繰り表。全てに赤い印がついている。薬商二社の契約破棄で、ヘルムガルドの月収予測は当初の六割まで落ち込んだ。
集まったのはギュンター、マルクス、オルガ、ヨハン。レオンハルト、ルキウス、エミルは別室で待機している。この会議は「ヘルムガルドの経営」の問題であり、攻略対象たちを巻き込むべきではないと判断した。
しかしエミルだけは「商業的な知見で貢献できる」として同席を求めてきた。あの夜以来、この男は「秘密の共有者」として振る舞い方を変えている。学者の立場を保ちつつ、しかし一歩踏み込んだ位置に立つようになった。断る理由がなかった。
リリアーヌも同席していた。師匠の窮地に顔を青くしながらも、手帳を広げてメモを取っている。
「現状を整理します」
立ち上がって、帳簿の数字を読み上げた。
「仲買三社の取引停止と薬商二社の契約破棄で、王都向けの売上が六割減。街道の通関検査で物流も事実上封鎖。在庫は増え続けていますが、出荷先がない。このままでは三週間で運転資金が底をつきます」
沈黙が落ちた。マルクスの太い腕が組まれている。オルガの指先が膝の上で小さく震えていた。
「嬢ちゃん。率直に聞く」
ギュンターが口を開いた。
「打つ手はあるのか」
全員の視線が私に集まった。期待と不安が入り混じった目。この人たちは半年間、私を信じて動いてくれた。その信頼に応えなければならない。
前世なら、ここで一人で残業して企画書を仕上げていただろう。上司に提出して、却下されて、また書き直して。孤独な作業の繰り返し。しかし今は——目の前に、一緒に考えてくれる人がいる。
「あります」
声は落ち着いていた。
「先物取引を仕掛けます」
「先物取引?」
ギュンターが眉を上げた。聞いたことのない言葉だろう。この世界には、まだ体系的な先物取引の概念がない。
「簡単に言えば、『未来の商品を今売る』契約ですわ」
帳簿の余白に図を描いた。
「ノーヴァルが薬商二社を離反させたことで、来月の王都の薬草市場に何が起きるかわかりますか」
「品薄になる」
エミルが即座に答えた。穏やかな目が、理解の光を帯びている。
「その通り。ヘルムガルドの薬草は王都市場の二割を占めていました。それが突然消える。市場価格は急騰します。特にオルガ殿の調合軟膏は代替品がない。品薄になれば——」
「買いたい人間が殺到する」
ギュンターの目が変わった。商人の勘が動いた。
「では、今のうちに近隣領地の商人と『将来の納品契約』を結んでおけばいい。王都の薬商が戻ってきた時には、価格決定権はこちら側にある」
「……嬢ちゃん。お前、何者だ」
「ただの辺境領主ですわ」
笑って流した。しかしエミルの目が一瞬だけ鋭くなったのを見逃さなかった。「先物取引」——また一つ、この世界に存在しない概念を口にしてしまった。あの手帳にまた新しい項目が追加されるのだろう。しかしエミルは何も言わなかった。秘密を知った今、彼は追及者ではなく共犯者の側にいる。
ギュンターは意味がわからないという顔でエミルと私を見比べたが、深追いはしなかった。目の前の商売の方が大事だと判断したのだろう。この老商人の優先順位の付け方は、いつも正しい。
「具体的な手順を説明します。まず——ギュンター殿の近隣三領地ネットワークを使います。ヴォルフスハイム、リンデンブルク、ザールフェルト。この三領地の商人と、向こう三ヶ月分の薬草と鋼製品の納品契約を結びます。価格は現在の市場価格の八割で構いません」
「八割? 安すぎないか」
「安いからこそ飛びつきます。そして契約が成立した時点で、王都の仲買に逆提案できる。『うちの商品は既に売り先が決まっています。王都向けの在庫はありません』と」
ギュンターが膝を打った。
「締め出されたら、逆に締め出し返すわけだ」
「そうです。ノーヴァルは私たちの『売り先がない弱み』を突いてきた。ならば『売り先がありすぎて王都に回す余裕がない』状況を作ればいい。需要と供給の力関係が逆転します」
部屋が静まった。全員が頭の中で計算している。ギュンターは商人の勘で、オルガは薬師の実感で、マルクスは職人の直感で——それぞれの角度から、この策の可能性を量っていた。
マルクスが腕を解いた。寡黙な鍛冶師が、初めて会議で口を開いた。
「俺の鋼は品質で売る。安売りはしたくねえ」
「マルクス殿。八割はあくまで入口の価格です。品質を体験してもらえれば、三ヶ月後には正規の価格で契約更新できます。ヘルムガルド鋼の品質は、一度使えばわかる。それはマルクス殿が一番ご存じでしょう」
マルクスが鼻を鳴らした。否定ではない。照れ隠しだ。太い指が無意識にテーブルを叩いている。鉄を打つリズムと同じだ。この人は、言葉よりも手で考える人間なのだ。
「……勝手にしろ」
オルガが手を挙げた。
「セラフィーナ様。薬草についてですが——私にも使える手札があります」
「何でしょう」
「亡夫の王都薬学院時代の同門が、まだ何人か現役で薬師をしています。彼らは商業ギルドの外で独立して営業している。ギルドの圧力が及ばない相手です」
予想外の援軍だった。オルガの人脈は薬草園の技術だけでなく、販路としても機能する。
「オルガさん、それは——ありがたい。連絡を取っていただけますか」
「もちろん。夫が生きていたら、きっと同じことをしたでしょう。いいえ——夫のためにも、やらせてください」
オルガの声が一瞬だけ揺れた。目に、亡き夫への思慕と、今ここで戦う決意が重なっていた。薬草の知識だけでなく、人の繋がりもまた、この土地に根を張り始めている。
リリアーヌが手を挙げた。おずおずと、しかし目は真剣だ。
「あの、セラフィーナ様。私からも提案があるのですが——」
「どうぞ」
「近隣三領地との契約書、私が清書しましょうか。商家の娘なので、契約書の書式は学んでいます。それと——経済圏の仕組みを図にまとめれば、商人の方々に説明しやすくなると思います」
驚いた。この子は——自分にできることを、自分で見つけて申し出ている。ゲームのリリアーヌは天然で純粋なだけのヒロインだった。しかし今の彼女は、商才の芽を伸ばし始めている。
「お願いします、リリアーヌさん」
リリアーヌの目が輝いた。認められたことが嬉しいのではなく、役に立てることが嬉しい。その真っ直ぐさが、この場にいる全員の気持ちを少し軽くした。
ヨハンが静かに手を挙げた。
「セラフィーナ様。間者クルトへの偽情報は、いつ流しますか」
「先物取引の契約が成立してからです。『ヘルムガルドは資金難で在庫を投げ売りしている』という情報を流しましょう。カーティスが油断してくれれば、次の一手を打つ時間が稼げます」
ヨハンが頷いた。この従者の目に、信頼と覚悟が並んでいる。
会議が終わった後、全員が動き始めた。ギュンターは馬を用意させ、近隣三領地への書状をしたためている。オルガは薬学院の同門に宛てた手紙を書いている。マルクスは工房に戻り、「見本品」として最高品質のヘルムガルド鋼の短刀を一振り鍛え始めた。リリアーヌはテーブルに向かって契約書の雛形を作成している。
窓から朝日が差し込んできた。夜通しの会議だったが、誰の顔にも疲労よりも闘志が勝っている。
前世では、こんな経験はなかった。企画を提案しても、上司に却下されるか、一人で実行するかの二択だった。仲間が自分の得意分野で動き出す光景は、前世の佐藤凛が一度も見られなかった景色だ。胸の奥に、温かいものが広がっていく。しかし同時に、責任の重さが肩にのしかかる。この人たちの生活を、私の判断が左右する。失敗は許されない。
エミルが最後に残った。
「面白い報告があります」
微笑みながら近づいてきた。あの穏やかな笑みの奥に、今は共犯者の光がある。
「辺境の地下魔力脈の調査結果が、予想外の方向を示しています」
「詳しく聞かせてください」
「長くなりますので、明日改めて。ただ一つだけ——」
エミルが声を落とした。穏やかな仮面の下に、学者の興奮が透けている。
「あの封鎖された坑道の向こうに、ノーヴァルが喉から手が出るほど欲しがるものが眠っている可能性があります」
「……何ですか」
「魔鉱石です。魔術具の素材として、王都では一握りで金貨百枚を超える品。しかもこの辺境の魔鉱石は、通常のものより純度が高い。地下の魔力脈が鉱物に浸透した結果です」
魔鉱石。その名前は聞いたことがある。ゲームの設定資料集に載っていた——聖光教会が独占管理する希少鉱物。もし本当にヘルムガルドの地下に眠っているなら、それは商業戦争の切り札にも、新たな火種にもなりうる。
「その件は——慎重に進めましょう。下手に手を出せば、ノーヴァルどころか、もっと大きな相手を引き寄せることになりかねません」
エミルが頷いた。
「だから面白いのですよ」
銀縁の眼鏡が、朝日を受けて白く光った。学者の笑みの奥に、仲間を守る覚悟が見えた。あの夜から、この男は変わった。知的好奇心だけで動く学者ではなくなった。




