余は——レオンハルト、感情を知る
握り潰されかけた紙が、歪な形で広がっている。宰相アルベルト・ヴァルトシュタインの署名と、王宮の印章。ナターリア・ヴァルトシュタイン嬢を王太子妃候補として推挙する——その文字が、朝の光の中で冷たく浮かんでいる。
レオンハルトは窓辺に立ち、辺境の景色を見ていた。その瞳に映る鍛冶場の煙。薬草園の温室。街道を歩く領民たち。この半月で、見慣れた景色になっていた。
「殿下」
フリッツが控えめに声をかけた。
「……なんだ。どうした」
「朝食の用意ができております」
「いらない」
初めて聞いた。レオンハルトが食事を断るのは。フリッツの手帳がかすかに震えた。書くべきか迷っている。
レオンハルトは拳をテーブルに置いた。奏上書の端が拳の下で潰れる。指の関節が白くなるほど、力が入っている。
昨夜は眠れなかった。ベッドに横になっても目が冴えて、天蓋の木目を数えていた。朝方になってようやく浅い眠りに落ちたが、すぐに朝日で目が覚めた。
ナターリアを妃に迎える。政治的には合理的だ。ヴァルトシュタイン家との関係を修復し、宰相の協力を確保し、王位継承を安定させる。王太子としての「正解」だ。
しかしそれは——セラフィーナを「過去」にすることだ。
辺境で知った彼女の姿が、次々と脳裏を過ぎる。帳簿に向かう真剣な横顔。領民の前で演説する凛とした声。ヘルムガルド鋼を手に取る時の、職人への敬意に満ちた仕草。夕暮れの広場で並んで歩いた、あの静かな時間。「殿下。今日もお疲れ様でした」——あの声を、もう聞けなくなる。
それを——全て、手放すのか。
窓ガラスに自分の顔が映っていた。揺れる瞳が迷っている。王太子の顔ではない。一人の男の顔だった。
「フリッツ」
「はい、殿下」
「余は……間違っていたのかもしれない」
「何についてでしょうか」
「全てだ」
レオンハルトが窓から振り返った。碧い目に、これまで見たことのない脆さがあった。
「婚約破棄の時、余はセラフィーナの本心を見ようとしなかった。彼女がなぜ余を拒んだのか——その理由を、問わなかった。受け入れるだけで済ませた。それは誠実ではなかった。王太子としても、一人の男としても」
フリッツは黙って聞いている。手帳は閉じたまま。これは公務ではなく、主人の私的な告白だ。二十年以上仕えてきた従者は、この瞬間が主人にとってどれほど重いか、言われずとも理解していた。
「余は——彼女に問わねばならない。本当の理由を。それを聞いてから、アルベルトの奏上書に答える」
◇
中庭。午後の光が訓練場の砂地に差し込んでいる。
レオンハルトとルキウスが、訓練用の剣を手に向かい合っていた。本気の打ち合いではない。しかし速い。風を切る音が連続して響き、金属が重なる高い音が中庭に反響する。石壁に反射した刃の音が、二重に聞こえる。
領民の子供たちが遠巻きに見ている。昨日まで剣を教えてもらっていた王太子と、無口な騎士団長が真剣に打ち合う姿に目を丸くしている。
「ルキウス」
打ち合いの合間に、レオンハルトが声をかけた。
「なんだ」
「お前には——わかるか。自分の感情が、義務と衝突した時の対処法が」
ルキウスの剣が一瞬止まった。琥珀の目がレオンハルトを見る。
「……俺に聞くな。俺は六年間、感情を鎧の下に隠してきた人間だぞ」
「だから聞いている」
剣を下ろした。二人が向かい合う。汗が額を伝い、顎から滴っている。春の風が汗を冷やしていく。
「セラフィーナのことか」
ルキウスの声は低かった。レオンハルトは否定しなかった。
「……素直になれ。お前は王太子で、俺は騎士だ。立場は違う。だが——自分の気持ちに嘘をつく奴は、剣も政も鈍る。それだけは確かだ」
不器用な助言。しかし剣を交わしながら心を交わす。この二人の間には、ライバルでありながら理解者でもあるという奇妙な絆が生まれていた。セラフィーナの元で暮らす中で、いつの間にか。
「素直に、か」
レオンハルトが剣を鞘に戻した。金属が擦れる音が中庭に響く。
「ああ。で、振られたら潔く引け。男はそうあるべきだ」
「……お前に恋愛指南されるとは思わなかったな」
「うるさい。俺だって言いたくない。しかし——」
ルキウスが目を逸らした。琥珀の瞳が訓練場の向こう、領主館の方角を見ている。
「あの人は——周りが思っているより、ずっと孤独だ。一人で全部背負っている。お前がそれに気づいているなら——手を伸ばしてやれ」
ルキウスの耳が赤い。口では突き放しながら、本音を漏らす。この男の不器用さは、もはや美徳だ。自分もセラフィーナに想いを寄せているはずなのに、レオンハルトの背中を押している。それがルキウスの誠実さだった。
◇
夜。蝋燭が一本だけ灯った執務室。
帳簿を閉じた。ノーヴァル商会への対策書類に目を通し、ギュンターからの報告書を読み終え、リリアーヌの研修記録を確認した。今日の仕事は終わった。窓の外は暗い。月が薄い雲の向こうに隠れている。虫の音だけが、静かな夜を埋めている。
扉を叩く音がした。
「……どなたですか?」
「余だ」
レオンハルトの声。低く、しかし震えている。
扉を開けた。レオンハルトが立っていた。いつもの王太子の装いではなく、簡素な白いシャツに革のベスト。胸元のボタンが一つ外れている。辺境に来てから、彼は少しずつ鎧を脱いでいった。礼服を脱ぎ、マントを外し、王家の紋章入りのブローチを置いた。今夜は——最も無防備な姿だ。
「夜分に失礼する。少し——話がしたい」
声が掠れていた。この人は——中庭での訓練の後、ずっと考えていたのだろう。ルキウスの言葉を反芻し、覚悟を固め、そしてここに来た。
「……どうぞ」
執務室に入ったレオンハルトは、椅子には座らなかった。窓辺に立ち、暗い辺境を見つめた。灯りの影がその瞳に揺れている。
「本当の理由を教えてくれ」
振り返った。揺れる瞳が、真っ直ぐに私を射ている。
「なぜ余を拒んだ」
短い問い。しかしその五文字に、この男が半年以上抱え続けてきた全てが込められていた。
「婚約破棄の時——あの卒業式で、なぜ余の前で全てを捨てた。政治的な理由だけではないはずだ。余は——お前の目を見ていた。あの目は計算だけではなかった」
心臓が早鳴った。ランプの光が視界の端で揺れている。レオンハルトとの距離は三歩。しかしその三歩が、今は海峡ほど広い。
計算だけではなかった。正しい。あの日、壇上で声を上げた時——確かに計算以外のものがあった。この世界で自分の意志で生きるという、転生者としての覚悟。過労死した前世の自分への決別。もう誰かに殺されるのではなく、自分で人生を選ぶという意志。
しかしそれを言えば——全てが崩れる。「転生」という秘密に触れることになる。私がこの世界の人間ではないことが露呈する。
唇が乾いていた。言葉を探す。嘘でも真実でもない、ちょうどいい言葉を。しかしレオンハルトの眼差しは、そんな中途半端を許さない真剣さで私を見つめていた。
「殿下、それは——」
口を開いた瞬間だった。
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。穏やかだが確実な足音。そして——声が響いた。
「失礼、お取り込み中のところ恐縮ですが」
エミルの声だった。執務室の入口に、藍色の長髪を束ねた青年が立っている。銀縁の眼鏡の奥の目が——穏やかだが、覚悟を決めた光を帯びていた。
「セラフィーナ様、少しお話があります」
一拍の間。
「——『転生』について」
世界が止まった。
転生。
その二文字が、空気を凍らせた。
蝋燭の炎が揺れた。レオンハルトが振り返った。目が「何を言っている」と問うている。私の指先が冷たくなっていく。足の裏から体温が逃げていくようだ。
エミルの銀縁の眼鏡が、蝋燭の光を反射して白く光った。穏やかな微笑みは消えていた。代わりにそこにあったのは——学者の好奇心でも策略でもなく、一人の人間が真実に向き合う覚悟の目だった。
半月分の観察と分析が、この一言に収束している。複式簿記。原価計算。減価償却。品種改良。そして「行動パターンの矛盾」——全ての謎が、「転生」という一語で説明がつく。
エミルはそれを知っている。確信に近い推論として。知った上で、この場に来た。
蝋燭の炎が大きく揺れた。まるで世界の秩序が震えているかのように。
もう逃げ場がなかった。




