姉上様へ——ナターリアの手紙
丁寧な、しかしどこか急いだ筆跡。ナターリアの字だ。インクが一箇所だけ滲んでいて、その滲みが涙の跡に見えるのは、私の思い過ごしだろうか。
ヨハンが朝の便で届いた書簡の束を持ってきた中に、一通だけ宛名が違った。公式の書簡は全て「ヘルムガルド領主セラフィーナ・ヴァルトシュタイン殿」と書かれているが、この一通だけは——「お姉様へ」。
執務室の椅子に深く座り、封を切った。便箋からナターリアが好む白百合の香水の匂いがする。王都の記憶が、微かに蘇った。
——お姉様。お元気ですか。こちらは春が来て、王都の桜並木が満開です。お姉様がいらした頃は、一緒にお花見をしたことはありませんでしたね。来年は——いつか——ご一緒できたら嬉しいです。
胸が痛んだ。この書き出しの遠慮がちな温かさ。異母妹。ゲームには存在しなかったキャラクター。しかし今、この世界で確かに生きている十六歳の少女。
読み進めた。
——お父様が、私を社交界にお出しになりました。「ヴァルトシュタイン家の令嬢として」と仰いますが、本当の理由は——お姉様の代わりとして、王太子殿下の前に立たせるためだと思います。社交界の皆様も、そのようにお考えのようで、私を見る目が——少し、怖いです。
指先が便箋を強く掴んでいた。アルベルト。父。公爵家の当主として、娘を政治の駒に使うことに何の躊躇いもない男。セラフィーナを追放し、今度はナターリアを差し出す。
しかし——前世の記憶がなければ、この怒りは感じなかったかもしれない。ゲームの「セラフィーナ」はナターリアを疎んでいた。異母妹、母違いの妹。愛人の子。しかし転生した私は——この不器用で優しい妹に、本物の姉の愛情を感じ始めている。
ゲームの登場人物ではない。私の妹だ。
——レオンハルト殿下が辺境にいらっしゃることが、王都で噂になっています。「王太子が辺境の元婚約者のもとに入り浸っている」と。お父様はその噂を利用して、殿下への接近を試みているようです。「娘を王太子妃に」と。
利用している。辺境の成功も、レオンハルトの不在も、全てを政治の材料にしている。アルベルトにとって、娘は資産であり、家名を高める道具だ。
セラフィーナを追放して辺境に送った。辺境が成功すればヴァルトシュタイン家の手柄にする。レオンハルトが辺境に通えば、代わりにナターリアを王太子の前に差し出す。あらゆる局面で最適な手を打つ。将棋の駒のように、娘たちを盤上で動かす。
怒りが腹の底から湧き上がった。しかし同時に——冷静な部分がこう囁く。アルベルトの行動原理は「ヴァルトシュタイン家の存続」だ。貴族社会では、それは正しい判断かもしれない。この世界の倫理観では、娘を政略に使うのは当然のことだ。
しかし前世の価値観が許さない。娘は道具ではない。人間だ。
——もう一つ、お伝えしたいことがあります。お父様が、辺境の報告書を読んで仰いました。「セラフィーナの手腕は見事だ。ヴァルトシュタインの血筋だな」と。初めてお姉様を褒めるのを聞きました。しかしその目は——誇りというより、計算をしているようでした。
ヴァルトシュタインの血筋。追放した娘の成功を「家の功績」として回収する気だ。あの男は、どこまでも打算的で——しかし同時に、有能だ。その有能さが、娘たちを追い詰めている。
便箋の最後に、小さな文字で書かれていた。
——お姉様。私は駒になりたくありません。でも、お父様に逆らう勇気がありません。お姉様は卒業式の壇上で、数百人の前で運命を変えました。私にはそれができません。弱くてごめんなさい。
便箋を胸に押し当てた。白百合の香りが鼻腔に広がる。
「弱くなんかない」
声に出した。誰もいない執務室に、自分の声が響いた。
「あなたは——この手紙を書いた。助けを求める手紙を。それだけで十分に強い」
前世の私は、助けを求められなかった。過労で倒れるまで、一人で抱え込んだ。「迷惑をかけたくない」「自分で何とかしなければ」——その思い込みが命を奪った。
ナターリアは違う。助けを求めている。それは——強さだ。
◇
図書室の机に向かい、返事を書いた。何度も書き直した。便箋が三枚、くしゃくしゃになって足元に落ちている。
何を書けばいい。「大丈夫よ」と嘘の安心を与えるのか。「逃げなさい」と無責任な助言を送るのか。「私が助ける」と——まだ果たせるかわからない約束をするのか。
ヨハンが横で新しいインク壺を差し出してくれた。
「ナターリア様、お元気でしょうか」
「……元気ではないと思いますわ」
ヨハンの顔が曇った。この従者はナターリアとも面識がある。出発の日、見送りに来てくれた異母妹の姿を、ヨハンも覚えているだろう。
「ヨハン。……私は、あの子の本当の姉ではないのかもしれません」
「え?」
「いえ——何でもありませんわ」
転生者である私は、「セラフィーナの記憶」を完全には持っていない。ナターリアとの幼少期の思い出もない。しかし手紙を読むたびに、胸が痛む。この感情は——偽物なのだろうか。
偽物であってもいい。ナターリアを守りたいという気持ちは本物だ。
ペンを取り直した。便箋に、丁寧に言葉を並べていく。
「ナターリア。あなたは弱くない。助けを求められる人は強い人ですわ。お姉様は必ず——あなたの味方です。どんな時も。」
インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。辺境の空は高く澄んでいる。この空の向こうに、王都がある。妹がいる。助けを待っている。
◇
午後。庭園の北向きの壁際。
蔦が壁を這い上がっていた。春の新芽が石壁の隙間に根を張り、少しずつ居場所を広げている。
レオンハルトとフリッツが、その壁の前に立っていた。
「殿下。王宮から三通目の催促が来ております」
フリッツの声は平坦だったが、手帳を握る手は強張っていた。
「読んだ」
「殿下の不在が、宮中で問題になっております。宰相アルベルト殿が殿下の辺境滞在を公式に——」
「アルベルトか」
レオンハルトの声に、微かな苛立ちが混じった。鋭い視線が蔦を見つめている。根を張るもの。動かないもの。ここに留まりたいという意志の象徴のように、蔦は壁にしがみついていた。
「もう少しだけ——もう少しだけ、ここにいる」
フリッツの手帳がかすかに震えていた。主人のこの言葉を、記録すべきか迷っているのだ。王太子の私的な逡巡は公務の記録に残すべきものではない。しかし記録しなければ、いつか問題になるかもしれない。忠実な従者の板挟みが、手帳の震えに表れていた。
初めてだった。レオンハルトが義務を後回しにしようとしたのは。王太子として生まれてから、常に義務が最優先だった。公務。政務。外交。全てが「国のため」だった。
しかし今——この辺境で、「自分のため」にいたいと思っている。帳簿を学び、子供に剣を教え、夕暮れの広場を歩く。その全てが、王太子ではなく「レオンハルト」として生きる時間だった。
フリッツが口を開きかけた。その時——正門の方から馬蹄の音が響いた。
急使だった。
王宮の紋章をつけた騎馬の使者が、汗まみれの馬から飛び降りた。手に持った書簡の封蝋は、宰相の紋章。
レオンハルトが書簡を受け取った。封蝋を割る音が、静かな庭園に銃声のように響いた。
読み終えたレオンハルトの顔から、血の気が引いていた。
「殿下——」
フリッツが声をかける。レオンハルトは書簡を握りしめたまま、低く呟いた。
「ナターリア・ヴァルトシュタイン嬢を、王太子妃候補として正式に推挙する——宰相アルベルトの奏上書だ」
フリッツが絶句した。レオンハルトの碧い目に、複雑な感情が渦巻いている。怒り。困惑。そして——セラフィーナの名前が、声にならない形で唇に浮かんだ。
ナターリアを妃に迎えること。それはセラフィーナとの関係を完全に断ち切ることを意味する。アルベルトはそれを知っている。知った上で、この手を打った。
私はナターリアの手紙を胸ポケットに入れたまま、二階の廊下から庭園を見下ろしていた。レオンハルトの硬直した背中が見える。フリッツが何か声をかけている。
ゲーム通りなら、ナターリアルートに進めば処刑フラグは消える。レオンハルトがナターリアを選べば、私を告発する理由がなくなる。計算上は——最善手だ。
しかしそう思う自分が、嫌でたまらなかった。妹を駒に使う父と同じ思考回路ではないか。
庭園の蔦が風に揺れた。根を張ったばかりの新芽が、北風に吹かれて震えている。




