ノーヴァルの手——王都からの嵐の前触れ
早朝の執務室。帳簿の数字を追っていた手が止まる。フリッツは通常、規則正しい歩幅で廊下を歩く。王太子の従者として叩き込まれた歩行術だ。しかし今日の足音は速く、わずかに乱れている。
「セラフィーナ様、緊急の報告があります」
ドアを開けたフリッツの表情は硬かった。手帳を胸に抱えたまま、一瞬だけ言葉を選ぶ素振りを見せた。この慎重な男が言い淀むということは、内容が重い。
「王都から急使が参りました。商務大臣カーティス・ノーヴァルが、王宮に上奏文を提出したとのことです」
ペンが指先から滑り落ちた。インク壺の縁に当たって、澄んだ金属音が鳴った。
「上奏文の内容は」
「ヘルムガルド領の直接取引モデルが、王都商業ギルドの規約に違反しているとの申し立てです。具体的には、正規の仲買商人を介さない取引が王国商法第四十二条に抵触する、と」
窓の外で鳥が鳴いた。平穏な朝の音。しかし今、その平穏に亀裂が入った。
来た。
ギュンターが半年前に警告していた通りだ。いや、ギュンターの予想よりも早い。ノーヴァル商会は待てなかったのだ。辺境の成功が大きくなるほど、彼らの焦りも大きくなる。
「レオンハルト殿下はご存じですか」
「はい。今朝、殿下にもお伝えしました。殿下は——複雑なご様子でした」
複雑。王太子として公正であるべき立場と、辺境で見た現実の間で揺れているのだろう。上奏文を無視すれば王太子としての公正性が疑われる。しかし上奏文に同調すれば、辺境の改革が潰される。
「フリッツ殿、ありがとうございます。ギュンターのところへ行ってきますわ」
帳簿を閉じた。指先が震えていないことを確認して、立ち上がった。
◇
ギュンターの商店。奥の密室。
壁一面に貼られた取引先リストの前で、ギュンターが腕を組んでいた。白髪混じりの頭が、苛立ちで揺れている。
「言った通りだ。半年以内に来ると言ったが——もう動き出しやがった」
テーブルの上に広げられた紙の束。ギュンターが独自の情報網で集めた、ノーヴァル商会の動きに関する報告書だ。取引先の名前がずらりと並び、いくつかには赤い印がつけられている。
「赤い印は?」
「ノーヴァルの息がかかっている商人だ。ここ二週間で、急に辺境との取引を渋り始めた連中。先月まで「ヘルムガルド鋼は最高だ」と言っていた奴らが、急に「品質に不安がある」と手のひらを返しやがった」
ギュンターの声に、怒りだけでなく悔しさが混じっていた。商人同士の信頼を、金と権力で踏みにじられることへの怒り。
指で数えた。七つ。辺境の取引先のうち、三割近くが既に圧力を受けている。まだ残りの七割は持ちこたえているが、時間の問題だ。
「それと、もう一つ厄介な話がある」
ギュンターの目が鋭くなった。商人の目ではない。戦場を見据える目だ。
「新住民のクルト——あいつの正体が割れた。ノーヴァル商会の手の者だ」
やはり。泳がせていた間者の正体が、ようやく確定した。クルトが辺境に来たのは半年前。新しい生活を求めてという触れ込みだったが、鍛冶場と薬草園の周辺をうろつく頻度が不自然だった。
「確証は」
「あいつが王都に送っていた手紙を、関所の検問で写しを取らせた。中身は辺境の生産量と取引先の詳細だ。宛先はノーヴァル商会の下請け——ルドルフの名前もあった」
ルドルフ。以前撃退したノーヴァル商会傍系の商人だ。直接来て失敗したから、今度は内部に人間を送り込んだ。敵は学習する。こちらも学習しなければならない。
「クルトは追い出しますか」
「いや。泳がせておけ。追い出したら次の間者が来る。見えている間者の方が御しやすい。それより——」
ギュンターが赤い印のついた取引先リストを指で叩いた。
「次は取引先への圧力だ。ノーヴァルは上奏文で法的に攻めると同時に、取引先を締め上げて辺境を経済的に干上がらせる。二正面作戦だよ、お嬢さん」
二正面作戦。政治と経済を同時に攻める定石。前世の会社でも、競合他社がやっていた手口だ。法務部と営業部を同時に動かして、相手の体力を削りながら追い詰める。逃げ道を塞いでから、本丸を叩く。
違うのは、前世では私が追い詰められる側で——逃げた。過労の中で戦う気力を失い、上司の顔色を窺い、結局何もできなかった。
今は違う。逃げる場所がない。逃げたくもない。
◇
領主館の会議室。
長テーブルの周りに、異例の顔ぶれが揃った。
私。ギュンター。レオンハルト。ルキウス。エミル。ヨハン。フリッツ。
レオンハルトが口を開いた。
「余は——この件に関して、王太子として公式に動くことはできない。上奏文が正式な手続きを経て提出された以上、余が介入すれば職権濫用になる」
正しい判断だ。レオンハルトの苦渋が声に滲んでいた。公正であろうとする意志と、目の前の不正を見過ごせない感情が、碧い目の中で戦っている。
「しかし、非公式には協力する。フリッツに王都の動向を探らせる。情報だけは提供できる」
「殿下、それは——」
「余の判断だ。フリッツ、構わないな」
「……はい、殿下」
フリッツが手帳にペンを走らせた。主人の命令を記録する従者の手は、微かに震えていた。王太子が非公式に動く。それは本来、あってはならないことだ。
ルキウスが腕を組んだまま、低く唸った。
「剣で斬れる相手なら、とっくに片づけている」
「ルキウス殿、商務大臣は斬れませんわ」
「わかっている。だから苛立つんだ」
琥珀の目が天井を睨んでいる。拳が膝の上で固く握られていた。この不器用な騎士は、守るべきものが脅かされているのに剣では戦えない現実に歯噛みしている。しかし会議の場を離れない。それだけで、ルキウスの覚悟は伝わった。
エミルが穏やかに口を開いた。
「法的な攻撃には、法的な防御を。商業ギルドの規約違反という主張ですが——辺境領主の領内商業権は、王国基本法で保障されています。セラフィーナ様の直接取引は、領内商業権の正当な行使として反論できるはずです」
全員の目がエミルに向いた。宮廷魔術師がなぜ法律に詳しいのか。
「魔術師ギルドも、過去に王都商業ギルドと管轄権で揉めたことがありましてね。その時に学びました」
穏やかな笑顔。しかしその目は——味方の目だった。理由はまだわからない。しかし今は、その力を借りる。
ギュンターが頷いた。
「法的な防御は俺の方でも準備する。三十年分の取引記録がある。ノーヴァルの中間搾取の証拠も揃えてやる」
三十年。ギュンターは三十年間、この時を待っていたのだ。ノーヴァル商会に圧迫された商人たちの怨みを、帳簿という武器に変えて。
全員の視線が、最後に私に集まった。
「セラフィーナ、どうする」
レオンハルトの声は静かだった。命令ではない。問いかけだ。
窓の外を見た。夕暮れの辺境。鍛冶場の煙突から立ち上る煙。薬草園の温室の屋根が夕日に輝いている。通りを歩く領民の姿。マルクスの弟子たちが笑いながら帰路についている。
この景色を——守る。
「受けて立ちますわ」
声は静かだった。しかし確かだった。
「ノーヴァル商会が二正面作戦なら、こちらは三正面で返しましょう。法的防御、取引先の確保、そして——辺境経済圏の正式な確立。攻撃を受けるだけでは終わりません」
前世では、戦えなかった。追い詰められて、逃げて、壊れた。
今世では——逃げない。
テーブルに両手をついた。指先に力を込めた。この手は帳簿を記し、人々と握手し、辺境の土を掘った手だ。もう震えていない。
「ギュンター殿、取引先への対応を。エミル殿、法的な論点の整理を。ルキウス殿、辺境の物流路の警備強化を。レオンハルト殿下——」
澄んだ瞳が真っ直ぐに私を見ていた。
「情報を、お願いいたします」
レオンハルトが頷いた。真剣な眼差しで、その頷きに——信頼が宿っていた。
ヨハンが隣で黙って拳を握りしめていた。戦略を立てる力はなくても、この従者は最後まで隣にいる。それだけで十分だ。
会議が終わった後、一人になった会議室で窓辺に立った。辺境の灯りが、一つ、また一つと点っていく。領民たちの暮らしの灯り。
ギュンターの最後の言葉が耳に残っている。
「半年以内に来ると言ったが——もう動き出しやがった。次は取引先への圧力だ。覚悟しろよ、お嬢さん」
覚悟なら、とうにできている。この辺境に来た日から——いや、あの卒業式の壇上で声を上げた瞬間から。




