費用対効果で考えれば、婚約破棄一択ですわ
鏡の前に立つ私は、前世のどの日よりも美しかった。当たり前だ。この身体は公爵令嬢だ。化粧を施し、最高級のドレスを纏い、銀灰色の髪を侍女に結い上げてもらったセラフィーナ・ヴァルトシュタインは——控えめに言って、人形のように完璧だった。
コルセットの締め付けが肋骨を圧迫している。息が浅い。前世のスーツのほうがまだ楽だった。
今日は二度目の面会。そして——婚約破棄を宣言する日。
「セラフィーナ様、お支度が整いました」
「ありがとう。……少し、一人にして」
侍女が下がると、鏡の中の紫の瞳と目が合った。覚悟を決めた瞳。前世の退職面談では、こんな目はしていなかった。あの時は諦めの目だった。今は——違う。
これは最後の公爵令嬢としての舞台だ。完璧に演じきる。
◇
王宮の応接間。テーブルの木目、磨き上げられた銀器、窓から差し込む午後の斜光。前回と同じ部屋。同じ紅茶の香り。
違うのは、今日の私には台本があるということだ。
レオンハルトは椅子に座ったまま、真っ直ぐにこちらを見ていた。澄んだ瞳が、前回よりわずかに——何か期待するような色を帯びている。フリッツが隣で控えている。
「殿下。本日は、大切なお話がございます」
着席すると同時に切り出した。前置きは不要。前世で学んだ交渉術。相手が心の準備をする前に、核心を提示する。
レオンハルトの眉が微かに動いた。フリッツのペンが止まる。
「婚約の解消を申し出ます」
沈黙が落ちた。
時計の針が刻む音が、やけに大きく聞こえる。窓の外で鳥が鳴いた。レオンハルトの目が一瞬見開かれ、それから——凍りついたように動かなくなった。
「……何だと」
低い声。怒りではない。純粋な驚愕。
「理由を説明いたしますわ」
私は用意してきた資料——もちろん脳内にだが——を淡々と展開した。
第一に、政治的合理性の不在。ヴァルトシュタイン家と王家の同盟関係は、婚姻以外の手段で維持可能であること。宰相の地位にある父の政治力を考えれば、婚姻は冗長な保険にすぎないこと。むしろ婚姻関係がなくなることで、宰相職の中立性が強化される。
第二に、双方の性格の不一致。——これは方便だが、嘘ではない。ゲームの暴君と元OLの相性が良いわけがない。私はなるべく丁寧に、しかし曖昧さを排して言葉を選んだ。「性格の不一致」は前世でも離婚理由の定番だ。ここでは特に、私が政務に向かない性格であること、社交界の中心で生きることが苦手であることを強調した。半分は事実だ。
第三に、将来設計の相違。私には領地経営という明確な目標がある。王太子妃という立場は、その目標と両立しないこと。「互いの将来のため」という言葉で包んだが、要するに「あなたの隣にいると死ぬんです」が本音である。さすがにそれは言えない。
レオンハルトは一言も挟まなかった。碧い目が、私の言葉を一つ残らず受け止めている。その真剣さが——いけない。このプレゼンは「冷酷な暴君」相手のつもりで準備したのに。
「セラフィーナ」
レオンハルトが口を開いた。声が、掠れていた。
「それは——余の不足を指摘しているのか」
的外れだ。完全に的外れだ。政治的合理性の話をしているのに、なぜ自分の不足の話になるのか。
しかしレオンハルトの目は真剣そのもので、冗談を言っている気配は微塵もない。この人は、本気で「自分のどこが足りなかったのか」を知ろうとしている。
「……いいえ、殿下。これは殿下個人の問題ではなく——」
「余が至らぬために、お前がそのような結論に至ったのであれば、改善の余地を示してほしい」
改善の余地。まるで人事面談だ。部下が退職を申し出た時の、困惑した上司の台詞。ただし前世の上司は「考え直せ」と言っただけで改善する気などなかった。レオンハルトは——本気で改善するつもりだ。
この不器用な真摯さは、反則だ。
「殿下、恐れ入りますが——」
「失礼いたします」
フリッツが仲裁に入った。さすがは側近、空気を読む能力が高い。
「殿下、婚約の解消は王家の正式な手続きを経る必要がございます。まずは猶予期間を設け、双方が冷静に検討されるのがよろしいかと」
レオンハルトが口を引き結んだ。何か言いたそうだったが、フリッツの進言を受け入れる理性はあるらしい。
「……わかった。一ヶ月の猶予を置く。その間に、余も考える」
一ヶ月。長い。しかしこの世界の手続き上、致し方ないか。卒業式には間に合う計算だ。
「ありがとうございます、殿下。ご理解に感謝いたしますわ」
立ち上がり、カーテシーをする。完璧な令嬢の動作。スカートの裾を摘み、膝を折り、微笑む。機械的に身体が動く。何百回と繰り返してきた動作が、今日ほど重く感じたことはない。
面会は終わった。計画通りだ。多少の予定外はあったが、本質は達成した。婚約破棄の意思は伝わった。猶予期間の一ヶ月を経て、正式に解消される。あとは手続きを待つだけ。
扉が閉まる直前、フリッツがこちらをじっと見ていたのに気づいた。あの目は——「何かがおかしい」と感じている目だ。記録係の彼が、主人に何を報告するのか。少しだけ不安が過ぎったが、今はそれどころではない。
——そのはずだった。
◇
回廊を歩く。自分の靴音だけが、大理石の床に響いている。壁にはタペストリーが掛けられ、王家の紋章——金の獅子と銀の鷲——が織り込まれていた。
やりきった。
張り詰めていた緊張が、少しずつ解けていく。肩が重い。コルセットが苦しい。でも、やりきった。前世では出せなかった辞表を、今度は——
「セラフィーナ」
背後から声がした。
振り向く。回廊の向こうに、レオンハルトが立っていた。フリッツの姿はない。一人で追いかけてきたのか。
陽光が斜めに差し込み、金色の髪が光っている。その瞳には、先ほどの応接間とは違う——もっと剥き出しの何かがあった。
「……殿下?」
「余は、不足があるなら改める」
声が、震えていた。微かに。気づかないふりもできたが、私の耳はそれを拾ってしまった。
「婚約を結んだのは両家の都合だ。余自身が何かをした覚えはない。だが——それでも。お前が何かを望むなら、余はそれに応える努力を——」
言葉が途切れた。レオンハルトは口を閉じ、眉を寄せ、自分自身の言葉に困惑しているようだった。何を言っているのか自分でもわかっていないのかもしれない。
——そういう不器用さが一番困るんですけど。
心の中で叫んだ。
ゲームの「冷酷な暴君」なら、切り捨てるのは簡単だった。傲慢に鼻で笑えば、こちらも遠慮なく退場できる。なのにこの人は——。
「……殿下のお気持ちは、ありがたく存じますわ」
声が震えなかったのは、前世のプレゼン経験のおかげだ。泣きそうな時ほど声を安定させる技術。ブラック企業が唯一私にくれた武器。
「ですが、私の決意は変わりません。一ヶ月後に、正式な手続きをお願いいたします」
カーテシーをし、背を向けた。
足が動かない。一瞬だけ、動かなかった。
レオンハルトの視線が背中に刺さっている。振り返ってはいけない。振り返ったら、何かが壊れる。計画が。覚悟が。
一歩。二歩。三歩。
靴音が回廊に響く。タペストリーの獅子が、こちらを見下ろしていた。
——ごめんなさい。
心の中だけで呟いた。声には出さない。出したら、公爵令嬢の仮面が剥がれる。
退職面談は終わった。あとは手続きを待つだけ。
そうだ。それだけだ。それだけの——はずなのに。
帰りの馬車で、私はしばらく何も考えられなかった。
革張りの座席の匂い。車窓から見える夕暮れの王都。茜色の空が、やけに目に沁みた。
前世で退職を切り出した時、上司は「お前の代わりはいくらでもいる」と言った。傷ついた。傷つくことすら馬鹿馬鹿しくなるくらい、予想通りの言葉だった。
レオンハルトは——「改める」と言った。
代わりはいくらでもいるのに。王太子なのだから。公爵令嬢の一人や二人、いつでも新しい婚約者を見つけられるのに。
なのに、改める、と。
——関係ない。あの人が何を言おうと、私の計画は変わらない。変えてはいけない。
馬車の窓から顔を上げると、夕陽が最後の光を投げかけて沈んでいくところだった。オレンジ色の光が目を刺す。思わず目を細めた。
泣いていない。泣いてなど、いない。ただ夕陽が眩しかっただけだ。
次は卒業式。一ヶ月後。そこで全てが決まる。




