あの日の馬車——騎士の恩義
「六年前。王立学園の訓練場だ」
声は低く、しかし一語一語を確かめるように紡がれた。この男にとって、過去を語ることは剣を抜くより難しいのだ。
「俺は平民出身の訓練生だった。騎士候補の中では最も身分が低い。実家は辺境の没落領主の分家で、爵位だけは残っているが金はない」
テーブルの全員が黙っている。レオンハルトさえも口を挟まない。
「上級生に目をつけられた。伯爵家の三男坊で、剣の腕は大したことないが徒党を組むのが得意な男だ。訓練場の裏で——まあ、よくある話だ。三対一で囲まれた」
よくある話。ルキウスの口調は淡々としていたが、その「よくある」が彼にとってどれほどの屈辱だったか、想像に難くない。実力はあるのに身分で押さえつけられる。前世の職場でもそういう構造はあった。能力ではなく派閥で人事が決まる世界。
「殴られたのか」
レオンハルトが低い声で訊いた。碧い目に怒りが滲んでいる。六年前の出来事に、今、怒っている。
「殴られかけた。だが——」
ルキウスの目が、私に向いた。
「あんたが来た」
心臓が跳ねた。
「セラフィーナ・ヴァルトシュタイン。公爵令嬢。当時の学園で最も名前の通った女。訓練場の裏を通りかかって——三人の上級生に向かって一言、言い放った」
ルキウスの口元が、微かに歪んだ。笑いに似た、しかし笑いではない表情。
「『公爵家の名において命じますわ。この場を離れなさい』」
——記憶にない。
ゲームの選択肢イベントのどこかに、そんな場面があったのかもしれない。プレイ動画を早送りしていた部分かもしれない。ルキウスルートの序盤、好感度に影響しないフレーバーイベントだった可能性もある。プレイヤーにとっては読み飛ばす程度のテキスト。
しかし目の前のルキウスにとって、それは人生を変えた瞬間だった。ゲームの「設定」と「人間」の違いが、これほど痛烈に突き刺さったことはない。
「上級生は逃げた。公爵家の令嬢に逆らう度胸はなかった。俺は——地面に膝をついたまま、あんたの背中を見ていた」
食堂に沈黙が満ちた。蝋燭の炎が揺れ、壁に大きな影を落としている。
「あの時、決めたんだ。この人のような強さが欲しいと。身分でも財産でもなく、一言で空気を変える力を持ちたいと」
ルキウスの声が掠れた。琥珀の目が、真っ直ぐに私を射ている。
「だから騎士になった。剣を磨いた。近衛騎士団に入った。——あんたのおかげで、俺は今ここにいる」
言い切った。
ルキウスの耳は真っ赤だった。拳がテーブルの上で固く握られている。これだけの告白をするのに、どれほどの覚悟が必要だったか。
私は——言葉が出なかった。
ゲームのセラフィーナは「悪役令嬢」だ。他人に嫌がらせをし、ヒロインを苛め、攻略対象に成敗される。しかしそのセラフィーナが、ルキウスの人生を救った。ゲームでは語られなかった一瞬の気高さが、この男の人生を形作った。
「悪役令嬢」は、一面的な存在ではなかった。ゲームでは描かれなかったが、彼女にも光の瞬間があった。
「……当然のことをしただけですわ」
声が震えなかったのは奇跡だ。
「公爵家の令嬢が不正を見逃すわけにはいきません。それだけのことです」
嘘だ。私はあの場面を覚えていない。ゲームの「セラフィーナ」が何を思ってそうしたのかもわからない。しかしルキウスの前では——そう言うべきだった。
ルキウスが目を逸らした。初めて、この食卓で。
「……そうか」
一言。しかしその一言に、六年分の感謝が詰まっていた。
◇
食卓の向こうで、レオンハルトが黙り込んでいた。
揺れる瞳が帳簿の数字を見る時とは違う光を帯びている。内省の目。自分自身と向き合っている目。
「余は——」
小さく呟いた。フォークが皿の端に当たり、澄んだ金属音が鳴った。レオンハルトはそれに気づかない。
「余は、彼女のそういう面を知らなかった」
フリッツが手帳にペンを走らせようとして——やめた。これは記録すべき公務ではない。主人の私的な感慨だ。
婚約者だった。二年間。しかしレオンハルトは「公爵令嬢セラフィーナ」の一面しか知らなかった。社交界の仮面の奥に、弱い者を守る一瞬があったことを。その一瞬が、一人の騎士の人生を変えたことを。
知らなかった、という自覚が、レオンハルトの中で何かを動かした。
エミルが静かにワインを口に運んだ。眼鏡の奥で目が光っている。この男は全てを見ている。ルキウスの告白も、レオンハルトの動揺も、そして私の——演技ではない感情も。
エミルの左手が、テーブルの下でノートを撫でていた。「行動パターンの矛盾リスト」。きっと今夜の食事会の全てが、あのノートに追記されるのだろう。
ヨハンが横でスープを見つめていた。泣いてはいない。しかし鼻の頭が赤い。この正直者は、ルキウスの告白に素直に感動したのだ。感情を隠す術を持たない青年。それが今は——ありがたかった。誰かが素直に感動してくれることで、この場の温度が保たれている。
食事会は静かに終わった。
ルキウスは一言も加えず席を立った。レオンハルトは最後に一度だけ私を見て、何か言おうとして——やめた。エミルは穏やかに「ごちそうさまでした」と微笑み、眼鏡を拭きながら去っていった。
フリッツが後片付けを手伝い、ヨハンが食器を集める。ヘルガが最後にテーブルを拭きながら、ぽつりと言った。
「あの三人、全員まっすぐだね。不器用で面倒くさいが——悪い人間じゃないよ」
「……そうですわね」
「で、お嬢様はどうするんだい」
「何が」
「全員から好意を向けられて、逃げるのかい。それとも——」
「ヘルガ、その話は今夜は——」
「はいはい。わかってますよ」
ヘルガが布巾を畳んだ。あの鋭い目が、珍しく穏やかだった。
一人になった食堂で、私はしばらく動けなかった。
ルキウスの告白が胸の中に重く残っている。「あんたのおかげで、俺は今ここにいる」。
ゲームの悪役令嬢が、誰かの人生を照らしていた。知らなかった。知らされなかった。ゲームはそんなことを教えてくれなかった。
この人たちは——ゲームのキャラクターではない。
生きている。呼吸している。傷つき、成長し、感謝し、迷い、それでも前を向いている人間だ。
その認識が、処刑エンド回避戦略の根幹を揺るがしている。
レオンハルトは帳簿を通じて、数字の向こうに人間を見ようとしていた。ルキウスは剣を携えて、言葉にできない感謝を六年間抱え続けていた。エミルは——まだわからない。しかしあの男も、穏やかな仮面の下で何かを感じている。
三人とも、ゲームのテキストボックスに収まるような薄い存在ではなかった。血が通い、記憶を持ち、傷つきながら歩いてきた人間だった。
そんな人たちを「攻略対象」というラベルで処理してきた自分が——少し、恥ずかしくなった。
「攻略対象を回避すれば安全」——その前提が、壊れ始めている。
◇
深夜。エミルの客室。
エミルは机に向かい、ノートを開いていた。ランプの光がページを照らし、ペン先が紙の上を走る音だけが部屋に響く。
ページの上部に書かれたタイトル。
「セラフィーナ・ヴァルトシュタイン——行動パターンの矛盾リスト」
その下に、整然とした文字が並んでいる。
一、複式簿記——この世界に存在しない記帳法を「独学」で習得。
二、原価計算——同上。産業革命期の概念。
三、減価償却——同上。
四、品種改良の知識——農学的体系。
五、温度管理による鍛冶技術——冶金学的知見。
六、流通の中間搾取構造の分析——経済学的視点。
そして新たに書き加えられた一行。
七、六年前の学園での行動と、現在の性格の乖離。「悪役令嬢」の人格と、現在の合理的・共感的な人格は同一人物のものとは思えない。
エミルはペンを置き、眼鏡を外して目を瞑った。
「ふふ……」
独り笑い。穏やかだが、その中に——学者としての高揚がある。
「面白い。実に面白い。仮説は一つに収束しつつある」
ペンを取り、ノートの余白に大きく書いた。
「魂の転移——?」
疑問符をつけた。しかしその筆致は、確信に近い力強さだった。
窓の外では、夜の辺境が静かに眠っている。しかしエミルの頭の中では、仮説が嵐のように渦巻いていた。
ペン先がもう一行、書き加えた。
「確認手段——直接、本人に問う」




