魔獣の影——北方警備費の真実
ルキウスの魔獣発見報告から一夜明けて、私は帳簿室にこもっていた。ただし今回読んでいるのは自分が作った帳簿ではない。十五年前からの旧帳簿だ。
目的は一つ。「北方警備費」の実態。
この項目はアーク2の序盤に発見した不審な経費だ。毎年計上されているのに、対応する活動記録がない。前の代官が横領していた可能性を疑っていたが、ルキウスの指摘で優先度が上がった。防壁の脆弱さと北方警備費の消失が繋がっている可能性がある。
「セラフィーナ様、ヘルガが来ています」
ヨハンの声に顔を上げた。ヘルガが地下倉庫の鍵束を持って立っていた。
「地下の奥に、歴代代官の個人記録箱がありますよ。帳簿には載らない内部文書が入っているかもしれません」
「ヘルガ、なぜそれを知っているんですの」
「この館に四十年いますからね。代官が変わるたびに、荷物の整理は私がやりました」
四十年。ヘルガの記憶は、この領地の生き字引だ。
地下倉庫の奥。積み上げられた木箱の山。ランプの光が届きにくい暗がりに、鍵のかかった小箱が三つ並んでいた。鍵はヘルガが持っている。
「十年前の代官、八年前の代官、五年前の代官。どれにします?」
「全部」
小箱を開けた。中には個人的な書簡、走り書きのメモ、そして——鉱山の古い地図。
地図に赤いインクで印がついていた。北方の坑道の、最も奥の区画。「封鎖」と書かれた注記。そしてその隣に、不審な数字の列。
「これは……支出記録?」
読み解いていくと、構造が見えてきた。北方警備費は表向きの名目で、実際には「封鎖区画の維持費」に使われていた。封鎖を続けるための資材費、人件費、そして——「口止め料」。
「口止め? 誰への?」
メモの筆跡は乱れていた。書いた人間が焦っていたか、怯えていたか。
「ヘルガ。北方の坑道が封鎖された経緯を知っていますか」
ヘルガの目が、一瞬だけ曇った。
「……知っています。十五年前、鉱山の最奥で——何かが出たんです」
「何か?」
「当時の代官は『崩落事故』と発表しました。でも、坑夫たちの噂は違った。『掘りすぎて、あっちの世界と繋がった』と」
あっちの世界。魔獣の巣か、それとも——。
ヘルガは首を振った。
「私が知っているのはここまでです。当時の坑夫は大半がもう亡くなっていますし、残っている人も口をつぐんでいます」
口止め料。十五年分の沈黙。封鎖された坑道の向こうに、何がある。
もう一枚、小箱の底から紙片が出てきた。便箋の切れ端に、震える筆跡で一行だけ。
「掘ってはならぬ。あの光の下に、眠っているものを起こすな」
意味がわからない。「光」とは何だ。オルガの聖光草が放つ淡い光を思い出したが、関連があるのか——。
ヘルガが便箋を覗き込み、顔色を変えた。
「この筆跡。マルクスの先代の鍛冶師——ハインリヒの字です。十年前に亡くなった」
「マルクスの師匠?」
「ええ。マルクスに鍛冶を教えた男。鉱山にも詳しかった。晩年は——少し、おかしかったと聞いています。何かを恐れていたと」
伏線が積み重なっていく。鉱山の最奥。封鎖された区画。先代鍛冶師の警告。魔獣の巣。そして聖光草の異常な成長。
全てが地下で繋がっている予感がする。
◇
午後、帳簿室に戻ると、レオンハルトとルキウスが既に待っていた。フリッツも同席している。
テーブルの上に地図を広げた。北方の鉱山地図と、旧帳簿から読み取った警備費の流れ。
「北方警備費は十五年前から毎年計上されていますが、実際の警備活動は五年前に完全停止していました。つまり直近五年間は、名目上の経費だけが計上され、実態のない支出が続いていた」
「横領か」
レオンハルトの声が鋭くなった。
「横領もありますが、問題はもっと根深いですわ。五年より前——十五年前から十年前まで——は、警備費が実際に使われていた形跡がある。ただし、使途が『封鎖区画の維持管理』と『関係者への口止め料』です」
ルキウスが地図を指差した。
「封鎖区画。昨夜、魔獣の目を見た方角と一致する」
「ええ。坑道の最奥部が意図的に封鎖され、その封鎖を維持するための費用が北方警備費として計上されていた。五年前に代官が逃げた後、維持管理も停止。封鎖が劣化している可能性があります」
沈黙が落ちた。テーブルに広げた地図の紙がかすかに震えている。窓を叩く北風。季節はまだ春の入口だが、北方の風は鋭い。
「偵察が必要だ」
ルキウスが立ち上がった。
「封鎖区画の状態を確認する。魔獣がそこから出てきているなら、封鎖を修復するか、巣を潰すかのどちらかだ」
「余も行く」
レオンハルトが言った。フリッツが「殿下!」と声を上げたが、レオンハルトは取り合わなかった。
「北方の安全保障は王家の責務だ。現場を見ずに判断は下せぬ」
「殿下が危険な偵察に参加される必要は——」
「フリッツ、お前は記録を続けろ。これは公務だ」
フリッツは口を噤んだ。しかし手帳を握る手に力が入っているのが見えた。忠実な側近の苦悩。
私は二人を止めたかった。攻略対象が魔獣の巣に突入するなど、ゲームのどのルートにもないイベントだ。死亡フラグの匂いしかしない。
しかし——止める権限がない。ルキウスは騎士団長として、レオンハルトは王太子として、それぞれの職責で動いている。領主代行の私に、二人の軍事行動を制止する権限はない。
「条件があります」
声を張った。二人が私を見た。
「安全第一。封鎖区画の状態確認が目的であって、魔獣との戦闘は避けてください。もし巣があるなら、一度撤退して対策を練る。それが条件です」
ルキウスが鼻で笑おうとして——やめた。私の目を見て、何かを読み取ったらしい。
「……わかった」
レオンハルトが頷いた。
「セラフィーナ、約束する」
約束。この人が「約束」と言った時、それは守られる。ゲームの知識ではなく、この半年の交流で学んだ確信だ。
ヨハンが同行を志願した。
「私も行かせてください。地元の人間として、坑道の構造を——」
「だめ」
即答した。ヨハンの目が丸くなった。
「ヨハンには領地で留守を守ってもらいます。ギュンターとの連絡、ノーヴァルの動向監視、領民への対応——全部あなたにしかできないことですわ」
本音は別にある。ヨハンを危険に晒したくない。この従者は戦闘の訓練を受けていない。剣を持ったところで、魔獣の前では——。
「……了解しました」
ヨハンは不満そうだったが、従った。
偵察は翌朝出発と決まった。レオンハルトとルキウス、それに騎士団から二名。四人編成。
◇
見送りの朝。
北方に向かう馬が四頭、正門前に並んでいる。霧が出ていた。湿った空気が肌にまとわりつく。
ルキウスが鎧を着け、剣を確認している。無駄のない動作。レオンハルトは軽装だが、腰に細身の剣を帯びている。王太子も剣は使えるのだ。
「殿下、お気をつけて」
「二日で戻る」
「ルキウス殿もお気をつけて」
「……別に心配はいらん」
耳の先が赤い。北風のせいだと思っておく。
四人の馬影が北方に向かって霧の中を進んでいく。蹄鉄の音が次第に遠くなり、やがて霧に飲まれて消えた。
私は正門に立ったまま、しばらく動けなかった。
ゲームのキャラだ。攻略対象だ。心配する必要はない。彼らはシナリオの中で死ぬ設定はない——。
そう言い聞かせているのに、胸の奥が冷たい。
「心配なんかしてない」
呟いた。声に出した時点で嘘だとわかっていた。
ヨハンが横で黙って立っていた。何も言わなかった。ただ——その沈黙が、前世で一人で残業していた夜の静けさとは全く違うものだった。
夕方。
偵察隊からの使者が戻ってきた。ルキウスの部下の騎士が、息を切らせて報告する。
「封鎖区画を確認しました。坑道の最奥部に、人為的に塞がれた壁があります。石と木材で作られた封鎖壁ですが——劣化が進み、複数箇所に亀裂が入っています」
「魔獣は?」
「封鎖壁の向こうから、獣の気配がしたと団長が。複数。少なくとも十体以上の個体が奥にいると推測されます」
十体以上。
「全員無事ですか」
「はい。戦闘は回避し、撤退中です。明日の午前には帰還予定です」
安堵で膝が抜けそうになった。
封鎖壁の向こうに魔獣の巣がある。十五年前に「何か」が出て、当時の代官が慌てて封鎖し、口止め料を払い、帳簿上の嘘で隠蔽した。そして五年前の代官は、維持管理の費用を横領して逃げた。封鎖は放置され、劣化が進み、魔獣が壁の向こうからにじみ出てきている。
帳簿の嘘が、物理的な脅威に変わった。数字の裏に隠された闇が、牙を持って領地に迫っている。
——ここは、帳簿だけでは守れない。
その認識が、痛いほど明確だった。




