視察という名の追跡——レオンハルト、領地を歩く
「鍛冶場に行きたい」
朝食の席で、開口一番にそう言った。視察二日目の予定は商業施設と新規住宅区画のはずだ。鍛冶場は三日目の午後。
「殿下、本日の予定は——」
「変更する」
また王権の乱用だ。フリッツが横で「申し訳ございません」と目で謝っている。この側近の苦労が偲ばれる。
「……かしこまりましたわ」
抗う理由もないので従った。正直に言えば、レオンハルトに鍛冶場を見せるのは悪くない。マルクスの腕は辺境最大の誇りだ。
鍛冶場への道を歩きながら、レオンハルトは集落を興味深げに見回していた。半年前に比べて建物が増えている。新しい木造の住居。修繕された石畳。通りを行き交う人々の顔に、以前ほどの険しさがない。
子供が三人、道端で遊んでいた。そのうちの一人——前に「りょうしゅさま」と呼んでくれた男の子——が私に気づいて駆け寄ってきた。
「おねえちゃん! 今日はだれといっしょ?」
「お客様よ。王都からいらした偉い方」
男の子がレオンハルトを見上げた。金髪碧眼の長身の青年。子供には威圧的に映るだろうか。
レオンハルトが、膝を折った。子供の目線に合わせて。
「余は——いや、俺はレオンハルトだ。お前の名前は?」
「トビアス!」
「トビアス、いい名だな。剣士に向いている」
男の子が目を輝かせた。「けんし!」と叫んで友達のところに走っていく。
横で見ていた私の胸が、妙な痛み方をした。
この人は——ゲームの設定では子供と話すイベントなどなかった。冷酷な暴君は子供に微笑まない。なのに、この自然さはなんだ。
「セラフィーナ、先を」
「……ええ」
歩き出した。半歩前を歩くレオンハルトの背中を見ながら、「設定」と「現実」の乖離を噛み締めていた。
◇
鍛冶場。
扉を開けた瞬間、炉の熱気が顔を打った。鉄と炭の匂い。ハンマーが鉄を打つ甲高い音。
マルクスが炉の前に立っていた。相変わらずの禿頭、丸太のような腕、汗にまみれた革エプロン。ハンマーのリズムは規則正しく、一打ごとに火花が散る。
来客に気づいたマルクスが手を止め、レオンハルトを見た。
「誰だ」
「王太子殿下ですわ、マルクス殿」
「ああ」
それだけ。マルクスにとって王太子も公爵令嬢も等しく「部外者」だ。ただし、私はこの一年で「使える部外者」に昇格した。
レオンハルトが——一言も言わずに鍛冶場に入り、炉の前に立った。鉄を見ている。マルクスの手元を見ている。真剣な目で。
「この鋼……」
完成品の棚に並んだヘルムガルド鋼のインゴットを手に取った。重さを確かめ、光に透かし、表面を爪で引っ掻いた。ギュンターが初めて鋼を見た時と同じ検品の動作。
「青い光沢。硬度が高いのに粘りがある。折れにくく、研ぎやすい。王都の最高級鋼材と同等か、あるいは——上か」
マルクスの目が変わった。この男が「鋼を見る目を持っている」と認めた瞬間の目だ。
「あんた、鋼がわかるのか」
「余は剣を振る。良い剣と悪い剣の違いくらいはわかる」
「ふん」
マルクスの「ふん」は、三段階ある。拒絶の「ふん」、興味の「ふん」、認めた「ふん」。今のは二番目だ。
「見せてやろうか。打ってるところ」
マルクスが自分から見学を申し出た。王族だからではない。鋼を理解する人間に、自分の技術を見せたいのだ。職人の矜持。
レオンハルトが頷いた。椅子も勧めず、立ったまま炉の横で見守る。熱気で額に汗が浮かぶが、拭おうともしない。
マルクスが鉄を炉に入れた。鞴を踏む。改良された送風機構から空気が送り込まれ、炉内温度が上がる。鉄が暗赤色から橙色に、橙色から黄色に変わっていく。
「今だ」
マルクスの呟きと同時に、鉄が炉から引き出された。ハンマーが振り下ろされる。一打。二打。三打。火花が散り、鉄が形を変えていく。
レオンハルトの目が釘付けだった。
「温度管理が異常に正確だ。普通の鍛冶師の目では見分けられない色の差を、この男は——」
「マルクス殿の勘ですわ。三十年の経験に基づく職人の目。それに私が提案した温度管理法を組み合わせて、ヘルムガルド鋼の品質が生まれました」
「お前が提案した?」
「ええ。送風機構の改良と、焼き入れの温度管理です」
レオンハルトの碧い目が細くなった。帳簿の記帳法。鍛冶場の温度管理。どちらも「公爵令嬢の教養」の範疇にはない。疑問が積み重なっていくのが見えた。
しかしレオンハルトは追及しなかった。代わりに、マルクスに向き直った。
「マルクスと言ったか。見事な腕だ。余の近衛騎士団にもこれほどの鍛冶師はいない」
「近衛騎士団の鍛冶師なんぞ、設備に甘えた若造の集まりだろう」
フリッツが外で聞いていたら卒倒する発言だ。しかしレオンハルトは怒らなかった。
「そのとおりだ」
認めた。王太子が、辺境の鍛冶師の毒舌を受け入れた。
マルクスの目が、また変わった。三番目の「ふん」に近い何か。
◇
鍛冶場を出た後、薬草園に向かった。これもスケジュール外だが、もう抗っても無駄だ。
オルガが温室で苗の手入れをしていた。レオンハルトが来ると聞いて少し緊張した様子だったが、彼が薬草の品種について的確な質問を始めると、すぐに専門家の顔に戻った。
「この品種は寒冷地でしか育たない。王都では栽培が難しい。つまり辺境にしか作れない高付加価値製品だ」
「ご明察です、殿下。オルガの加工技術と組み合わせて、煎じ薬として出荷しています」
オルガが嬉しそうに薬草園の拡張計画を説明した。レオンハルトは一つ一つ頷きながら聞いていた。
温室の奥に、聖光草の苗床がある。淡い光を帯びた葉。レオンハルトがちらりと見たが、特に反応しなかった。聖光草の重要性には、まだ気づいていない。
広場に戻ると、夕暮れが始まっていた。
子供たちが広場で遊んでいる。さっきのトビアスが友達と木剣で打ち合いをしている。「レオンハルトさまみたいに!」と叫んでいるのが聞こえて、思わず笑ってしまった。
レオンハルトが足を止めた。
夕陽が山の稜線に沈んでいく。オレンジ色の光が広場を染め、子供たちの笑い声が薄暮の空気に溶けていく。鍛冶場からマルクスのハンマーの音。薬草園の方角からオルガの歌声。領民たちが家路につく足音。
日常だ。この半年で築いた、辺境の日常。
「ここは」
レオンハルトが呟いた。声が低かった。
「余が知る王国の中で、最も温かい場所だ」
その声には、王太子の威厳はなかった。ただの二十歳の青年の、率直な感想。
「……殿下?」
「王都にはないものがある。ここには」
澄んだ瞳が夕陽を受けて金色に光った。
「民が領主を信頼している。それは——」
言葉を探して、見つけられなかったようだった。口を閉じ、少しだけ——本当に少しだけ——寂しそうな顔をした。
胸が締めつけられた。
この人は、王都で孤独なのだ。王太子として義務に生き、信頼ではなく服従に囲まれてきた人。領民の笑い声が珍しいのではなく、自分に向けられた温かさそのものが珍しいのだ。
何か言おうとした。気の利いた台詞を。令嬢としてふさわしい、距離のある言葉を。
でも出てきたのは——
「……スープ、飲みますか。ヘルガの根菜スープ、美味しいですよ」
令嬢口調が抜けた。素だった。完全に素。
レオンハルトが目を丸くして——それから、ふっと笑った。
「ああ。いただこう」
その笑顔は反則だと思った。
◇
夜。執務室。
ヨハンの夜警報告を聞きながら、今日の予定外の視察を振り返っていた。レオンハルトの知的好奇心。マルクスとの意外な共鳴。子供たちとの自然な交流。そして夕暮れの広場での言葉。
「セラフィーナ様、もう一件」
ヨハンの声が硬くなった。
「南方街道から、旗を掲げた騎馬隊が接近しています。ギュンターが早馬で知らせてきました」
「旗の紋章は?」
「銀地に赤い剣の十字。近衛騎士団の紋章です」
ティーカップが手の中で震えた。
近衛騎士団。赤い剣の十字。その旗を掲げるのは——。
「ルキウス・フェルグランド。近衛騎士団長」
ヨハンの声が、裏返った。
「攻略対象二人目、来ますか」
「来ますわね」
回避した。全力で回避した。なのに追いかけてくる。二人目が。
レオンハルトの「温かい場所」という言葉が、まだ耳に残っている。あの声の温度を忘れる暇もなく、次の嵐が来る。
ティーカップを置いた。手が震えているのを、ヨハンに見せたくなかった。




