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処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


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ギュンター、堕ちる——「あんたのやり方、嫌いじゃない」

 朝の九時。普段は昼過ぎまで自分の店にいる男が、朝一番で来るのは初めてだ。葉巻も吸っていない。手にはくたびれた革鞄を抱えている。


「ギュンター殿、お早いですわね」


「話がある。長くなる」


 応接間に通した。ヘルガが茶を運び、ヨハンが控える。しかしギュンターは首を振った。


「二人きりで話したい」


 ヨハンとヘルガが退出した。ヘルガだけが、振り返りざまに意味ありげな目を向けた。何かを察している顔だ。


 扉が閉まった。


 ギュンターが革鞄を開いた。中から出てきたのは——古い帳簿だった。何冊も。表紙が擦り切れ、綴じ糸が緩んでいる。三十年以上前のものだろう。


「これは……」


「俺が王都で商売をしていた頃の帳簿だ。取引先、仕入先、顧客リスト。ノーヴァル商会に潰される前の」


 テーブルの上に帳簿が並んだ。ギュンターの若い頃の筆跡。几帳面だが少し癖のある文字。数字の列が、三十年前の商売の記録を語っている。


「なぜ今、これを?」


「あんたに見せるためだ」


 ギュンターが一冊を開いた。最後のページに、赤いインクで書かれた一行がある。


 『ノーヴァル商会による取引妨害——全損失額:金貨三千二百七十枚』


 三千二百七十枚。辺境の領地を数年は回せる金額だ。それを一人の商人が失った。


「三十年分の借りだ。利子をつけて返してもらう」


 ギュンターの声は低く、静かだった。怒りではない。もっと深い感情。長い年月をかけて研ぎ澄まされた意志だ。


「ギュンター殿。借りを返すとは、具体的にどうするおつもりですの」


「辺境経済圏を作る」


 一拍。その四文字が、空気を変えた。


「経済圏?」


「ヘルムガルドを核にして、近隣三領地——ヴォルフスハイム、ブレンタール、それとこの北にあるアイゼンベルク——を経済同盟で結ぶ。王都の仲買ギルドを通さない、独立した流通網だ」


 ギュンターが鞄からもう一つ取り出した。地図。手描きの、しかし精密な地図だ。街道、河川、山道、港。三十年かけて歩き回った辺境の全体像が一枚の羊皮紙に凝縮されている。


「この地図……三十年分の情報が入っていますわね」


「ああ。俺の全財産だ。金なら使えばなくなるが、情報は使っても減らない。あんたの『書物』にもそう書いてあるだろう」


 書いてある。前世のドラッカーもそう言っていた。情報は唯一、共有しても減らない資源だと。


 ギュンターが地図の上に指を走らせた。


「ヘルムガルドの鋼は、ヴォルフスハイムの農業道具需要と直結する。薬草はブレンタールの港から海運で輸出できる。アイゼンベルクの木材は鍛冶の燃料になる。四つの領地が互いの強みを補完すれば——」


「サプライチェーンが完成しますわ」


「サプラ——?」


「供給の連鎖です。原料から製品、販売まで一気通貫で管理する仕組みですわ」


 ギュンターが目を細めた。


「あんたの『書物』は、本当にこの世界のものじゃないな」


 心臓が跳ねた。しかしギュンターの目には追及の色はなかった。むしろ——感心と、わずかな敬意。


「商人は、相手の秘密を暴く趣味はない。使える知識なら出自は問わん。それが俺の流儀だ」


 救われた。ギュンターは深く踏み込まない。しかし理解はしている。この老商人は、私の知識が普通ではないことに気づいていて、それでも協力を選んでいる。


「辺境経済圏の構想、具体的にはどう進めますの」


「まずヴォルフスハイムのクラウスは既にあんたの味方だ。ブレンタールは俺の人脈で来月交渉に入る。問題はアイゼンベルクだ。あそこの領主は老人で、変化を嫌う」


「どうすれば動きますか」


「利を見せる。あの老人は頑固だが愚かではない。数字で示せば、必ず乗る」


 前世の同盟戦略と同じだ。共通の利益を基盤にした連携。感情ではなく合理性で結びつける。


「ギュンター殿、一つ確認しますわ。この構想の目的は、ノーヴァル商会への報復ですの? それとも辺境の発展ですの?」


 ギュンターが葉巻を咥えたまま、しばらく黙った。暖炉の火が爆ぜる音が三度響いた後、ゆっくりと口を開いた。


「……両方だ。きれいごとを言うつもりはない。俺は借りを返したい。しかし——」


 地図の上のヘルムガルドの位置を、太い指で押さえた。


「この土地に来て三十年。女房を看取り、商売を続けてきた。ここの連中は不器用で貧乏で、冬は凍えて夏は日照りで苦しむ。でも——悪い連中じゃない。ここを守りたいと思うのは、復讐だけが理由じゃない」


 ギュンターの目が、一瞬だけ柔らかくなった。すぐにいつもの鋭さに戻る。しかしその一瞬で十分だった。


 この男は、この土地を愛している。三十年かけて根を下ろした場所を。


「わかりましたわ。両方をやりましょう。復讐と発展は矛盾しませんもの」


「ふん。あんたは商人向きだな」


「経理部出身ですわ。——書物の中の」


「まだ言うか、その嘘を」


 ギュンターが鼻で笑った。しかし追及はしない。この男との間には、暗黙の了解がある。秘密は暴かない。結果だけで判断する。それが商人の信義だ。


「もう一つ、大事なことがある」


 ギュンターの声が低くなった。


「ノーヴァルの商人が帰ったが、あれで終わりじゃない。あの男——ルドルフは帰り際に宿の主人から情報を聞き出していた。鉱山の生産量。薬草園の規模。鍛冶場の人員。全部だ」


「偵察でしたのね、やはり」


「ああ。次は金ではなく、政治で来る。商務大臣の息子が動けば、辺境の直接取引を『ギルド規約違反』として問題にできる。王都の法律は、あいつらに有利にできている」


 前世の大企業が独占禁止法を都合よく使うのと同じ構造だ。法律は平等に見えて、運用する側の権力で歪む。


「政治で来るなら、政治で対抗しなければなりませんわ。しかし——私には王都の政治力がない」


「ない。だからこそ、辺境の経済力で対抗する。四領地の同盟が成立すれば、辺境全体の経済規模は王都の中堅ギルドに匹敵する。無視できない存在になれば、政治的にも発言力が生まれる」


 経済力が政治力を生む。前世では当たり前の理屈だが、この世界の貴族社会では新しい発想かもしれない。


「ギュンター殿」


「なんだ」


「三十年間、一人で戦ってこられたんですわね」


 ギュンターが黙った。葉巻に火をつけた。紫煙を吐いた。長い沈黙の後、低い声で言った。


「一人じゃなかった。女房がいた。あいつが死んでからは——まあ、一人だったな」


「もう一人じゃありませんわ」


「……わかっている」


 ギュンターが立ち上がった。帳簿と地図をテーブルに残したまま。


「これは置いていく。あんたの経営に使え。俺の三十年と、あんたの——書物の知識を合わせれば、面白いことができる」


 扉に手をかけたギュンターが、振り返らずに言った。


「あんたのやり方、嫌いじゃない。——いや、正直に言おう。気に入っている」


 太い背中が扉の向こうに消えた。


 テーブルの上に残された帳簿と地図。三十年分の商人の人生。これは金では買えない。信頼の証だ。


 帳簿を一冊手に取った。古い紙の匂い。インクが褪せた数字の列。この中に、ノーヴァル商会の弱点がある。三十年前の取引記録には、あの商会の手口が全て記されているはずだ。


 前世の経理部主任の血が騒いだ。帳簿の分析は、私の得意分野だ。


 最初の一冊を開いた。取引先リスト。仕入先と販売先の名前が並んでいる。その多くに「N」の印がつけられていた。ノーヴァル商会に奪われた取引先の印だろう。赤いインクで——ギュンターの怒りの色だ。


 ヨハンを呼んだ。


「ヨハン、この帳簿の写しを作ってもらえますか。原本は大事に保管して、写しで分析します」


「はい。……これは全部、ギュンターさんの?」


「三十年分の記録ですわ。三十年分の信頼を、私たちに預けてくれた」


 ヨハンが帳簿の山を見て、息を呑んだ。一人の商人の人生が、ここに詰まっている。


「ヨハン」


「はい」


「私たちは、この信頼に応えなければなりませんわ」


「……はい」


 ヨハンの返事に、いつもの照れはなかった。真剣な目だった。この従者も、少しずつ変わっている。「行くあてがない」と言って名乗り出た青年が、今は守りたいもののために働いている。


 窓の外で、マルクスの槌音が響いている。オルガの薬草園から、朝の挨拶をする領民の声が風に乗って届く。子供たちの笑い声。


 この辺境を守るために——辺境経済圏を、作る。


 午後、マルクスの鍛冶場に向かった。月産十五本の二回目のロットが完成間近だ。鍛冶場に近づくにつれ、ハンマーの音が大きくなる。二つのリズム。マルクスと弟子の、重なったり外れたりする槌音。


 鍛冶場の扉を開けると、炉の熱気が顔を打った。マルクスが振り向きもせずに言った。


「来たか。十五本、今日中に仕上がる」


「品質は?」


「聞くな。見ればわかる」


 木箱の中の刃物を確認した。前回と同じ青い光沢。全て同一基準。品質管理チャートが確実に機能している。


「マルクス殿、チャートの改良版も見せていただけますか」


 マルクスが壁に貼られた紙を指差した。私が作った品質管理チャートの横に、マルクスが自分で書き足した新しい列がある。焼き入れ後の冷却速度と、刃の硬度の相関を独自に追跡していた。


「……これは、素晴らしいですわ」


「俺の仕事だ。当たり前のことをしている」


 当たり前のことを当たり前にやる。それが一番難しい。前世の品質管理の授業で、教授が繰り返し言っていた言葉だ。マルクスは理論を知らないが、本質を体得している。


 鍛冶場を出て、薬草園に足を向けた。オルガが新しい領民に乾燥薬草の保存方法を教えている。子供たちが苗床の間で走り回り、大人に怒られている。日常の風景が、少しずつ形を変えながら定着していく。


 辺境経済圏。大きな言葉だ。でもその核にあるのは、一つ一つの日常の積み重ねだ。マルクスの槌音。オルガの薬草。ギュンターの地図。ヨハンの土地勘。ヘルガのホットミルク。


 全てが繋がって、一つの絵になる。まだ完成にはほど遠い。でも——下絵は描けた。

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