薬草園、開園——辺境に花が咲く
正確に言えば、目が赤くなった。涙はこぼさなかった。この人は泣く代わりに手を動かす人だ。しかし柵の最後の杭が打ち込まれ、入口のアーチにヘルムガルド鋼の飾り金具が取り付けられた瞬間、彼女の指先が震えていたのを私は見た。
「オルガさん」
「はい」
「開園式をしましょう。領民に見てもらいますわ」
オルガが首を横に振った。
「式なんて大げさです。薬草園は、静かに始めればいいんです」
「だめですわ。人は形から入るものです。開園式を開いて、この場所が『みんなのもの』だと宣言する。そうすれば——誰かが勝手に薬草を採っていく心配もなくなります」
「……相変わらず、経営者の発想ですね」
「ええ。でも、それだけじゃありませんわ」
オルガの手を取った。薬草の匂いが染みついた手。硬くて、乾いていて、でも温かい。
「亡きご主人の夢が形になる瞬間ですわ。祝いましょう」
オルガの喉が動いた。何か言おうとして、飲み込んだ。代わりに深く頷いた。
◇
開園式は三日後の朝に設定した。
ヘルガが仕切り役を買って出た。この人は行事の段取りに恐ろしく手慣れている。テーブルの配置、飲み物の手配、領民への告知。すべてを半日で整えてしまった。
「ヘルガさん、手際がよすぎますわ」
「昔は公爵家の行事も仕切っていましたからね。辺境の薬草園の開園式なんて、晩餐会に比べれば散歩みたいなものですよ」
また一つ、ヘルガの過去が覗いた。公爵家。つまりヴァルトシュタイン家の行事を仕切っていた。母エリザベートの時代のことだろうか。
聞きたいことはある。でも今は薬草園が先だ。
開園式の朝。快晴。春の陽光が薬草園の全景を照らしていた。
山腹の陽だまりに広がる長方形の区画。木の柵が整然と囲み、内側には苗床が並んでいる。排水溝が掘られ、小石が敷かれた通路が区画の中央を貫いている。入口のアーチには、マルクスが作った鉄の薔薇の飾り金具が朝日を受けて光っていた。
領民が集まっていた。五十人以上。子供たちが柵の周りを走り回っている。トビアスが「おかあさん、ここお姉ちゃんの畑?」と聞いている。エルマが微笑んで「みんなの畑よ」と答えた。
エルマの顔色は良くなっていた。頬にわずかだが血色が戻り、痩せた体に少しだけ肉がついている。オルガの煎じ薬と、規則正しい食事と休息の効果だろう。
私は入口のアーチの前に立った。
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます」
令嬢口調。でも内容は経営者の言葉だ。
「この薬草園は、ヘルムガルドの皆さんのためのものです。ここで育てた薬草は、まず領民の治療に使います。余剰分は外部に売り、その利益を領地の運営に充てます。つまり——皆さんの健康が、この領地の資産になるのです」
領民の顔を見回した。理解している人もいれば、困惑している人もいる。前世の全社集会で新制度を発表した時と同じだ。全員が即座に理解する必要はない。実感すれば、わかる。
「薬草園の責任者はオルガさんです。彼女の指示に従ってください。そして——何か体の不調があれば、遠慮なくオルガさんに相談してくださいませ」
オルガが私の隣で小さく頭を下げた。声が微かに震えている。
「……皆さん、よろしくお願いします。ここは亡き夫が夢見た場所です。彼の代わりに、私が精一杯やります」
拍手が起きた。最初は疎らだったが、すぐに大きくなった。マルクスが太い腕で拍手していた。初めて見た。あの寡黙な巨漢が、人前で感情を示している。
薬草園の建設に参加した領民たちの顔に、誇りが見えた。自分たちの手で作った場所だという実感。前世の会社では、完成したプロジェクトを「自分のもの」と感じる社員はほとんどいなかった。経営層の手柄になるだけで、現場の努力は報われなかった。ここでは違う。柵を打った人が、その柵を見て胸を張れる。
ギュンターが離れた場所から見ていた。腕を組み、葉巻を咥えたまま。しかし口元が微かに緩んでいるのを、私は見逃さなかった。
マルクスが作った薬草刻み用の小刀セットが、オルガに正式に贈呈された。マルクスは「仕事だ」とだけ言って去ったが、刃の一本一本に丁寧な仕上げが施されている。薬草の茎を切るための微妙な湾曲。根を削ぐための薄い刃先。使い手のことを考え抜いた道具だ。
オルガが小刀を手に取り、指先で刃の曲線を確かめた。
「この人は……使い手の手の大きさまで考えて作ってくださったんですね」
マルクスは聞いていない。もう鍛冶場に戻っている。でも——こういう連携が、一つの領地の中で自然に生まれている。命令したわけではない。必要だから作り、必要な人に届く。市場原理とは違う、顔の見える関係の経済。
◇
開園式の後、オルガが苗床を案内してくれた。
区画ごとに札が立てられ、薬草の名前と効能が書いてある。解熱用。消炎用。鎮痛用。止血用。そして——園の奥まった一角に、他の区画とは別の柵で囲まれた小さなスペースがあった。
「聖光草ですわね」
「はい。群生地から三株移植しました。環境が変わったことで弱るかもしれませんが……今のところ、根づいているようです」
白い花弁。淡い発光。他の薬草とは明らかに異なる存在感。この小さな花が持つ可能性を、まだ私たち以外の誰も知らない。
「試験栽培の結果が出るまで、極秘のままにしましょう」
「わかっています。でも——」
オルガが言いかけて、口をつぐんだ。
「何ですの」
「……聖光草の近くにいると、体の調子がいいんです。気のせいかもしれませんが。朝の手入れをした後は、一日中疲れにくい」
免疫力の強化。オルガの亡き夫が仮説として書き残していた効果。もし本当なら——この薬草は薬というより、健康そのものを底上げする存在だ。
「オルガさん、データを取りましょう。聖光草に触れた日と触れなかった日で、体調の変化を記録してください」
「……データ」
「記録ですわ。主観でいいんです。『今日は疲れにくかった』『頭が冴えていた』——そういう日記のようなもの。科学は観察から始まりますから」
科学という言葉はこの世界にはない。でもオルガは理解した。薬草師は、観察のプロだ。
「やってみます。……夫もそうしていました。毎日観察して、記録して。地道な作業でしたが、彼はそれを『宝探し』と呼んでいました」
宝探し。ヨハンが子供の頃に鉱石の欠片を集めて遊んだように、オルガの夫は薬草の中に宝を探していた。この土地には、宝を探す人間が集まる何かがある。
薬草園を出る時、入口のアーチの下でギュンターとすれ違った。
「いい園だ」
「商品の仕入先として、気に入りましたか」
「ああ。——それだけじゃないがな」
ギュンターが園の中を見た。オルガが領民に薬草の使い方を教えている。子供たちが苗床の間を走り回り、大人に叱られている。笑い声が聞こえる。
「あんたの前の——書物では、こういう場所を何と呼ぶんだ」
「公園ですわ。みんなが集まれる場所。コミュニティスペース」
「コミュ……まあいい。とにかく、人が集まる場所は金を生む。覚えておけ」
ギュンターの商人の視点。でも彼が見ているのは金だけではない。この老商人は、人が笑っている場所に価値を見出す人間だ。三十年前に王都で全てを失い、辺境で再起した男。彼が本当に守りたいのは利益ではなく、居場所だろう。
私と——同じだ。
◇
夕方、領主館に戻ると、ヨハンが険しい顔で待っていた。
「セラフィーナ様、ギュンターの情報網から報告です。王都の商人が三名、ヘルムガルドに向かっているとのことです」
「商人? 招いた覚えはありませんわ」
「ギュンターが調べたところ、彼らはノーヴァル商会の傍系に属する商人だそうです」
ノーヴァル。初めて聞く名前だ。
「どういう商会ですの」
「王都の大商会です。商務大臣の家系と繋がりがあると聞いています。辺境の鋼と薬草の噂を聞きつけて、買い付けに来るのだと」
嫌な予感がする。前世の勘だ。大手が中小企業に近づく時のパターン。最初は友好的に、好条件で取引を持ちかける。依存させてから、条件を引き下げる。古典的な手口だ。
「ギュンター殿に伝えてください。商人が来たら、まず私に会わせるようにと」
「はい」
薬草園の開園式の余韻が、一気に冷めた。成功は必ず注目を集める。注目は必ず競争を呼ぶ。そして競争の中で勝ち残るには——相手を知り、備えなければならない。
ヘルガが夕食を運んできた。根菜のシチューと黒パン。温かい湯気が立ち昇っている。
「お嬢様、顔色が悪いですよ」
「王都の商人が来るそうですわ」
「ああ。もうそんな時期ですか」
ヘルガの口ぶりは、まるで予想していたかのようだった。
「時期?」
「辺境が潤い始めると、必ず王都から人が来るんです。前の代官の時もそうでした。最初は取引を持ちかけて、次に条件を搾り取って、最後に全部持っていく。十五年前と同じパターンです」
十五年間の搾取構造。帳簿で発見した中間搾取の歴史。それが今、また繰り返されようとしている。
「今度は同じにはさせませんわ」
「期待してますよ、お嬢様」
ヘルガの目に、珍しく光があった。期待。この人が期待するのを、初めて見た気がする。
シチューを口に運んだ。根菜の甘みが舌に広がる。温かい。この温かさを守るために、明日からまた戦わなければならない。




