領民の暮らし改善計画——福利厚生は基本です
数字を見ながら、私は領主館の執務室で次の計画を練っていた。窓の外から鍛冶場の槌音が聞こえる。マルクスのリズム。最近は弟子候補の若者が一人加わり、二つの槌音が交互に響くようになった。
ヴォルフスハイム領への初回納品は無事に完了した。クラウスからは簡潔な書簡が届いている。「品質は期待通り。次回も同条件で」。商人の褒め言葉としては最上級だ。
しかし——利益を出すだけでは足りない。
前世のブラック企業は利益を出していた。株主には配当を払い、社長は外車に乗っていた。その代わり社員は過労で倒れ、離職率は業界最悪だった。利益と幸福は、自動的にはイコールにならない。意図的に分配しなければ。
「ヨハン、領地のインフラで最も緊急なものは何ですの?」
「井戸です。三つあるうちの一つが枯れかけていて、残り二つも水質が悪化しています。冬場は凍結で使えない日も多い」
「水か……前世では蛇口をひねれば出たのに」
「前世の?」
「書物ですわ。水道の書物」
ヨハンがもう突っ込まなくなっている。慣れたのか、諦めたのか。
井戸の修繕と新規掘削。簡易浄水設備。さらに排水路の整備。見積もりを作ると、ヴォルフスハイムとの取引利益の三ヶ月分が吹き飛ぶ。
投資だ。回収に時間がかかる。しかし——水がなければ人は生きられない。
「やりましょう。井戸の修繕から」
ヨハンが古い地図を広げた。水源の位置、地下水脈の推定ルート、既存の井戸との距離。彼の土地勘はここでも活きる。
「この辺りなら地下水脈が浅いはずです。子供の頃、ここで湧き水を見つけたことがあります」
「ヨハンの記憶と、地質図と、水の流れ。三つの情報を重ねれば——掘削の成功率は上がりますわね」
前世なら地図帳と地質調査で済む話だ。この世界では、人の記憶と経験が最も信頼できるデータベースになる。
井戸の掘削には鉱夫の技術が使えた。岩盤を掘るノウハウは、そのまま井戸掘りに応用できる。鉱山チームから三人を一時的に振り替え、ヨハンが指示した地点に新しい井戸を掘り始めた。鉱夫たちは「鉄じゃなくて水を掘るのか」と笑ったが、手つきは正確だった。
◇
午後は、もう一つの計画に着手した。
領主館の空き部屋の一つを片付け、長テーブルと椅子を並べる。壁にチョークで書ける黒板代わりの板を立てかけた。
「これは……」
ヨハンが目を丸くしている。
「簡易学校ですわ。子供たちに読み書きと算術を教えます」
「子供に教育を? この辺境で?」
「読み書きができれば契約書が読める。算術ができれば帳簿の不正に気づける。教育は——搾取されないための武器ですわ」
十五年間の中間搾取が可能だったのは、領民が帳簿を読めなかったからだ。数字を理解できない人間は、数字で騙される。前世でも今世でも。
最初の「授業」は五人の子供で始まった。トビアスもいる。エルマの息子。母親はオルガの煎じ薬で回復し、畑仕事に復帰していた。
「お姉ちゃん、べんきょうってなに?」
「将来、誰かにだまされないようにする練習ですわ」
「だまされる?」
「大人になると、ずるい人が数字で嘘をつくことがあるの。そういう時に、自分で計算できれば嘘を見抜けるでしょう?」
トビアスが真剣な顔で頷いた。五歳児が「数字の嘘」を理解しているかは怪しいが、真剣さだけは本物だ。
一の位の足し算から始めた。石板に数字を書く子供たちの手元を見ながら、前世の新人研修を思い出す。教え方は同じだ。簡単なことから始めて、できたら褒める。褒められた子供は目を輝かせる。
オルガが見学に来て、「私も薬草の名前を教えていいですか」と申し出た。翌日にはマルクスの弟子の若者が「鉄の種類を教えたい」と手を挙げた。教師が増えていく。前世の社内勉強会と同じ仕組みだ。知識は共有すると増える。
三日目には生徒が十二人に増えた。大人も混じっている。年配の鉱夫が「俺も字くらい読みてえ」と照れくさそうに席に着いた時、子供たちが拍手した。あの光景は忘れられない。
ヨハンが帰り際に呟いた。「セラフィーナ様、これは領地経営ではなく——会社経営ですね」。正解だ。でもそれを言うと色々バレるので、笑って誤魔化した。
◇
それから一週間。
朝は井戸の工事を監督し、昼は子供たちに算術を教え、午後は鉱山の採掘状況を確認し、夕方はギュンターと次の取引先の打ち合わせをし、夜は帳簿をつける。
オルガの薬草園は柵の修繕が終わり、春の植え付けが始まった。聖光草の試験栽培もオルガが黙々と進めている。苗の状態は良好だが、結果が出るまで数ヶ月。
問題は——私自身の体だった。
三日連続で睡眠が四時間を切った。食事を抜く日が増えた。ヨハンが差し入れてくれたパンを、書類に埋もれたまま齧る。味がよくわからない。
これは。前世で何度も通った道だ。
締め切り前の徹夜。栄養ドリンクで誤魔化す体力。「あと少し、あと少し」の繰り返し。そして——心臓が止まった。
わかっている。わかっているのに止められない。やるべきことが多すぎる。一つ解決すれば三つ新しい問題が生まれる。領主は一人しかいない。
「お嬢様」
ヘルガの声で顔を上げた。いつの間にか深夜だった。蝋燭の灯りだけが執務室を照らしている。
「何時ですの」
「三の刻を回りました」
真夜中の三時。前世なら終電を逃して始発を待つ時間だ。デスクの上には食べかけのパンと、半分冷めた茶。羊皮紙には今月の収支表が広がり、数字の列が蝋燭の光にぼんやりと浮かんでいる。
「——お嬢様、前の人生でも、そうやって体を壊したんじゃありませんかい」
心臓が跳ねた。
ヘルガの目は真剣だった。毒舌ではない。本気の心配が、皺の刻まれた顔に浮かんでいる。
「……何のことですの」
「とぼけなくていいですよ。あたしは年寄りです。色々なお嬢様を見てきました。でもね、あんたみたいに——最初から疲れ方を知っているお嬢様は初めてだ」
返す言葉がなかった。
ヘルガがテーブルの上に碗を置いた。湯気が立っている。温かい牛乳に蜂蜜を溶かしたもの。この世界のホットミルクだ。
「飲んで、寝なさい。帳簿は逃げませんよ」
「でも、明日までに——」
「明日死んだら、帳簿も何もないでしょう」
沈黙。
蝋燭の炎が揺れた。ヘルガの影が壁に大きく伸びている。この人は、知っているのだろうか。私が一度、本当に「明日死んだ」人間だということを。
ホットミルクを飲んだ。甘い。温かい。胃の底にじわりと広がる。前世では、こんなふうに「飲んで寝なさい」と言ってくれる人がいなかった。同僚は自分も限界で、上司は「まだやれるだろ」と言うだけだった。
「……ありがとうございます、ヘルガさん」
「礼を言う暇があったら寝なさい」
ヘルガが出ていった。足音が廊下に消えていく。
この人の情報網。毒舌の裏にある観察力。そして——こうして深夜にホットミルクを持ってくる不器用な優しさ。ヘルガという人間の全体像が、まだ見えていない。
◇
翌朝、珍しく七時間眠った体で郵便物を確認すると、二通の手紙が届いていた。
一通はギュンターからの商談報告。東のブレンタールとの接触が始まったという内容。港町との取引が実現すれば、販路は飛躍的に広がる。
もう一通は——ナターリアからだった。
封蝋にヴァルトシュタイン家の紋章。しかし正規の公爵家書簡ではなく、個人の便箋だ。父の目を通さずに送ったのだろう。異母妹の丁寧な筆跡。インクの匂いがまだ新しい。
『お姉様。
お元気でいらっしゃいますか。王都は相変わらず退屈な社交会ばかりです。
父上が最近、辺境の報告書を頻繁にお読みになっています。お姉様のことを「見直した」とは言いませんが、以前のように怒りの表情ではなくなりました。
それから——お姉様に一つ、お知らせしなければなりません。
レオンハルト殿下が、辺境の視察を検討されているそうです。フリッツ様がそう漏らしていました。殿下は「辺境開発の視察は王太子の義務である」とおっしゃっているそうですが、フリッツ様は首を傾げていらっしゃいました。
お姉様、お体にはくれぐれもお気をつけて。
ナターリア 』
手紙を置いた。
レオンハルト。攻略対象筆頭。処刑ルートの起点。
来るな。頼むから来ないでくれ。
しかし前世のゲーム知識が告げている——回避した攻略対象は、別の形で接触してくる。ゲームのシステムがそう設計されている。シナリオは、簡単には壊れない。
窓の外を見た。鍛冶場から煙が上がっている。薬草園の方向から、作業の声が聞こえる。子供たちが走り回る影。
この場所を守るために、王太子を退ける方法を考えなければならない。
帳簿に向き直った。ヘルガの言葉が頭をよぎる。「明日死んだら、帳簿も何もない」。
死なない。今度は死なない。やりすぎない。休む時は休む。
そう自分に言い聞かせながら、ペンを取った。——三十分だけ。三十分だけ帳簿をやって、それから朝食を食べる。
前世の自分なら「三十分」が六時間になっていた。今世は——少しだけ、マシになっているはずだ。たぶん。




