直接取引モデル——中抜きは許さない
白壁に赤い屋根。手入れされた庭園に噴水。玄関の石段には苔一つない。南方の温暖な気候がもたらす豊かさが、建物の隅々にまで行き渡っている。
対照的に、私の靴底にはまだヘルムガルドの泥がこびりついていた。三日間の馬車旅で腰は悲鳴を上げている。前世の出張を思い出す——取引先のオフィスが立派であるほど、こちらの提案書が薄く感じるあの圧迫感。
「セラフィーナ様、少しお待ちを」
ギュンターが馬車の中で葉巻を消した。太い体躯を揺らして降り、門の衛兵に慣れた様子で名刺——羊皮紙に押された商業ギルドの印章——を渡す。三十年の信用が、一枚の紙に凝縮されている。
「いくつか忠告しておく」
「伺いますわ」
「クラウス・フォン・ヴォルフスハイムは実利家だ。口先や肩書きには動かない。代わりに、品物が良ければ出自を問わない」
「つまり製品で語れと」
「ああ。それと——値段を安くしすぎるな。安売りは自信がない証拠だと、あの男は見抜く」
前世の先輩営業が同じことを言っていた。「値引きは最後の手段。最初に値引くやつは二流だ」と。国が変わっても、商売の本質は変わらない。
◇
応接間の天井は高く、窓から差し込む午後の光が石造りの床を温めていた。壁には狩猟の絵画と、南方の産物——絹織物、陶器——が飾られている。富の展示。これも商談術の一つだ。
クラウス・フォン・ヴォルフスハイムは、想像していたよりも小柄な男だった。五十代半ば。灰色の髭を短く刈り込み、目は小さいがよく動く。あの目は数字を計算している目だ。前世の取引先の財務部長を思い出す。
「辺境のヴァルトシュタイン嬢か。ギュンターの紹介でなければ、門前払いにしていた」
開口一番、正直な男だった。嫌いじゃない。
「ご多忙の中、お時間をいただき感謝いたしますわ。本日は、品物に語らせていただきます」
ヨハンが木箱をテーブルに置いた。蓋を開ける。
五本のヘルムガルド鋼の刃物が、窓からの光を受けて青く輝いた。ギュンターへの商談で見せた十本から選んだ、最上の五本。マルクスが「五本選ぶなら俺が選ぶ」と自ら品質チェックしたものだ。
クラウスの目が変わった。商人の目から、鑑定士の目に。
手に取る。重さを確かめる。光に透かす。——ギュンターと同じ動作だ。品物を見極める人間の手つきは万国共通らしい。
「切ってみてよろしいですか」
「どうぞ」
テーブルの端に置かれた革の端切れを、クラウスが一閃した。音もなく裂けた。断面が滑らかだ。クラウスの眉がわずかに上がった。
「……品質は認める。しかし、なぜ王都の仲買を通さない」
「中間マージンを排除し、生産者と消費者の双方に利益を還元するためですわ」
「仲買を敵に回す覚悟があると?」
「敵に回すのではなく、不要にするのです。品質が保証され、供給が安定し、価格が適正であれば——仲買を通す合理性がありません」
クラウスが椅子の背にもたれた。指先が顎を撫でている。計算中の顔だ。
「原価はいくらだ」
懐から原価計算書を取り出した。ギュンターに見せたものと同じフォーマット。項目ごとに計算根拠を記載し、誰でも検証可能な形に整えてある。
クラウスが一項目ずつ確認していく。目が細くなる。
「……王都の同等品より二割以上安い。品質は同等以上。しかもこの計算書は——」
「ご自由に検証なさってくださいませ。数字は嘘をつきませんわ」
沈黙が落ちた。ギュンターは腕を組んだまま、口を挟まない。プロの商人は、相手が考えている時に邪魔をしない。
「月にどれだけ供給できる」
「当面は十五本。半年後に五十本まで拡大します」
「少ないな」
「品質管理のためです。全数検査を通った製品しか出荷しません。不良品を一本でも出せば、ヘルムガルド鋼の名前に傷がつく」
クラウスの目が私を見据えた。値踏みではない——信用を測る目だ。
「若いのに——いや、年齢は関係ないな。ギュンター、この嬢ちゃんをどう見る」
「買って損はしない商品と、裏切らない売り手だ。三十年の経験で言う」
ギュンターの一言が重い。この男が保証人になるということは、自分の信用を賭けるということだ。
クラウスが立ち上がった。手を差し出した。
「月十五本、すべて買おう。価格はお前の提示通りでいい。——ただし、品質が落ちた瞬間に契約は終わる」
手を握った。堅い手だった。実利家の手。信用を握りしめる手。
「ありがとうございます。品質は——私の命をかけて保証いたしますわ」
「命ではなく信用をかけろ。命は一つだが、信用は積み重なる」
良い言葉だ。前世の上司に聞かせたかった。
◇
商談を終え、ヴォルフスハイムの宿で一泊した翌朝。帰路の馬車の中で、私は計算をしていた。
月十五本の売上。原価を引いた粗利。輸送コスト。ギュンターへの手数料。残った純利益——前世の零細企業の月商とほぼ同じ規模だ。ここから始める。
「ギュンター殿、帰ったらすぐに鉱夫たちに話があります」
「何をする気だ」
「成果報酬制を導入しますわ。採掘量に応じたボーナスを支給します」
ギュンターの眉が動いた。
「日給制から成果報酬制か。鉱夫が暴走して安全を無視する危険があるぞ」
「だから上限を設けます。安全基準を満たした上での増産にのみボーナスを適用する。前世の——書物に書いてありましたわ」
「また書物か」
「とても分厚い書物ですの」
ヨハンがまたため息をついた。もはや様式美だ。
馬車の窓から、南方の平野が流れていく。ヴォルフスハイムの豊かな農地。麦畑の緑が目に眩しい。ヘルムガルドにはない光景だ。しかし——ヘルムガルドにはヘルムガルドの宝がある。
「ギュンター殿」
「なんだ」
「次の取引先は、どこを狙いますの」
ギュンターが葉巻に火をつけた。紫煙が馬車の天井に昇る。
「東のブレンタール。港町だ。海運ルートに繋がれば、販路は一気に広がる」
「海運——王都の流通網を迂回できる」
「察しがいいな。あんたに商才がなけりゃ、俺はとっくにこの取引から降りている」
褒め言葉なのか牽制なのか。おそらく両方だ。
◇
ヘルムガルドに戻ったのは四日後の夕方だった。
領主館の前で、ヘルガとオルガが待っていた。ヘルガは腕を組み、オルガは手を胸の前で握っている。二人とも表情が硬い。
「お帰りなさいませ、お嬢様。——商談は」
「成立しましたわ」
ヘルガの口元が微かに緩んだ。一瞬だけ。すぐに毒舌マスクが戻る。
「そうですか。では今夜は祝いの夕食でも作りますかね。——と言いたいところですが、お嬢様が留守の間に三つほど問題が」
やはりそうか。経営者が出張から戻ると問題が山積みなのは、前世でも今世でも同じだ。
「聞きましょう」
「一つ、薬草園の柵が夜中に獣に壊されました。二つ、鉱山の坑道で小さな落盤がありましたが怪我人はなし。三つ——マルクス親方が、品質管理チャートを自分で改良し始めました」
最後のは問題じゃない。むしろ最高のニュースだ。
「マルクス殿が自分でチャートを?」
「温度の測定間隔を細かくしたそうです。『この方が正確だ』と言って」
笑いがこみ上げた。あの寡黙な巨漢が、数字を自分のものにし始めている。部下が自走するのは上司にとって最大の喜びだ。前世では一度も経験できなかった喜び。
翌朝、鉱山の広場に鉱夫たちを集めた。二十人ほど。日焼けした顔に汗と土埃。朝の冷気の中で白い息を吐いている。
「皆さん、ヴォルフスハイム領との直接取引が成立しました」
静かなざわめき。
「これにより、安定した収入が見込めます。そこで——新しい報酬制度を導入しますわ」
成果報酬制の説明をした。基本日給は据え置き。安全基準を遵守した上で、採掘量が基準を超えた分にはボーナスを上乗せする。チームごとの成果を評価し、個人の暴走を防ぐ仕組み。
鉱夫の一人が手を挙げた。年配の男。
「領主様、つまり——頑張った分だけ、もらえるってことですかい」
「そうですわ。ただし、安全を無視した増産は認めません。怪我をしたら元も子もありませんから」
男の顔に、困惑と期待が入り混じった表情が浮かんだ。この領地で「頑張った分だけ報われる」経験をした者は、おそらくいない。十五年間、搾取の構造の下で労働していた人々だ。
「嘘じゃないですかね」
別の鉱夫が言った。若い男。目に疑いの色がある。
「嘘かどうかは、最初の月で証明されますわ。数字は嘘をつきません——それは、クラウス・フォン・ヴォルフスハイム殿もおっしゃっていました」
近隣の有力領主の名前を出したことで、空気が変わった。ヘルムガルドの鋼が外の世界に認められたという事実。それは鉱夫たちの労働に価値があるという証明でもある。
ヨハンが私の隣で、静かに微笑んでいた。
「セラフィーナ様」
「何ですの」
「……この領地に来てよかったです」
耳が赤い。この従者は、照れると耳が赤くなる癖がある。
鉱夫たちが持ち場に散っていく。足取りが、前より少しだけ軽い。気のせいかもしれない。でも——気のせいだとしても、それは悪い兆候じゃない。
領主館に戻る道で、ヘルガが昨夜焼いたパンを差し出してきた。黒パンだが、いつもより少しだけ柔らかい。
「祝いだと言ったでしょう」
「ヘルガさん、これ——バターが塗ってありますわね」
「気のせいですよ」
気のせいじゃない。この人は不器用な祝福を、パンのバターに込める人だ。
噛みしめた。小麦とバターの素朴な味が、口の中に広がる。前世では高級レストランの接待で食べた料理より、このパンの方がずっと美味しい。
最初の取引が成立した。最初の一歩。しかし——ギュンターの言葉が頭に残っている。「東のブレンタール。港町」。販路を広げれば、王都の目にも留まる。前世の経験が告げている。成功は、必ず妬みを呼ぶ。
空を見上げた。辺境の空は今日も高い。雲が北から南へ、ゆっくりと流れていく。
次は——領民の暮らしを、もう一段上げる番だ。




