表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/58

商業ギルド長の壁——よそ者に市場を荒らされてたまるか

「期限だ。一ヶ月前に約束した。結果を見せろ」


 太い体躯を椅子に沈めたまま、ギュンターは腕を組んでいた。葉巻の煙が天井に向かって昇っている。目は鋭い。商人が取引の成否を見極める時の目だ。


 ヨハンが私の隣で緊張している。手が微かに震えている。


 だが私は——落ち着いていた。この手の交渉は前世で何十回もやった。上司にプレゼンし、取引先に数字を見せ、不安がる株主を説得する。武器は常に同じ。結果。


「ギュンター殿。こちらを」


 木箱を開けた。


 十本のヘルムガルド鋼の刃物が、窓から差し込む光を受けて青く輝いた。


 ギュンターの目が変わった。腕を解き、身を乗り出す。葉巻を灰皿に置く音が、静まった部屋に響く。


「……触っていいか」


「どうぞ」


 ギュンターが一本を手に取った。前回ヘルムガルド鋼のサンプルを見た時と同じ動作——重さを確かめ、表面を爪で引っ掻き、光に透かす。しかし今回は、それで終わらなかった。


 刃を布に当てて引いた。布が音もなく裂けた。切れ味に、ギュンターの眉が上がる。


 次の一本。また次の一本。五本を手に取り、全て同じ動作で確認した。


「……品質が揃っている」


「十本全て、同一の基準で製造しています。品質管理の手法を導入しましたの」


「品質管理?」


「製品のばらつきを最小限に抑える技術です。マルクス殿の腕と、数値化した温度管理の組み合わせで実現しました」


 ギュンターが椅子に深く座り直した。商人の計算が始まっている。目の奥で、利益の数字が弾かれている。


「一本あたりの原価は」


「こちらに」


 原価計算書を広げた。鉱石の採掘コスト。精製と鍛造の労賃。燃料費。道具の減耗費。前世で毎日やっていた計算を、羊皮紙の上に再現した。項目ごとに計算根拠を付記し、誰が見ても検証可能な形に整えてある。


 ギュンターの表情が変わった。商人の目が細くなり、そろばんを弾く代わりに指が机の上で数字を叩く。一項目ずつ指で追い、唸る。


「……王都の同等品の三分の二の原価で、品質は上回る。これが安定供給できるなら——」


「できますわ。鉱山の支脈から安定した鉄鉱石を確保する体制を構築中です。月産十五本から始めて、半年後に五十本まで拡大する計画です」


「五十本」


 ギュンターの指が止まった。五十本を毎月、直接取引で売る。仲介手数料なし。利幅は王都経由の三倍。


「面白い」


 前回の「面白い。乗ってやろう」とは声の質が違った。今回のそれは——商人が本気で金の匂いを嗅いだ時の声だ。


「ただし、条件がある」


 ギュンターが指を一本立てた。


「販売先の選定は俺に任せろ。あんたの製品は上物だが、売り方を間違えれば三ヶ月で潰される。近隣三領地のうち、最初に売るべきは南のヴォルフスハイム。あそこの領主は実利家で、品質さえ良ければ出自を問わない」


「ギュンター殿の人脈を使わせていただくということですわね」


「人脈と言うな。三十年かけて築いた信用だ。それを担保にあんたの刃物を売る。だから——品質を落としたら、俺が先に首を絞める」


 微笑んだ。前世の取引先にも、こういう老練な商人がいた。信用を命より大事にする人間。そういう人間と組めれば、ビジネスは長く続く。


「お任せくださいませ。品質管理は——得意分野ですの」


 ギュンターが立ち上がった。帰り際に木箱を一瞥し、最初に手に取った刃物をもう一度見つめた。


「一つ聞くが。この刃物を打ったマルクスは——なぜ今まで、こんな物を作れなかった?」


「道具が足りなかっただけですわ。腕はずっと一流でした」


「道具が足りない——か」


 ギュンターの目が遠くなった。三十年前の自分を見ているような目。若い頃に才覚がありながら、環境に恵まれず辺境に流れてきた商人の記憶。


「俺も——昔はな」


 言いかけて、首を振った。去り際に振り返ることなく、太い背中が扉の向こうに消えた。



  ◇



 ギュンターが帰った後、ヨハンが大きく息を吐いた。


「緊張しました……ギュンターが怒鳴るかと思いました」


「怒鳴らなかったのは、結果が良かったからですわ。数字のない交渉は口喧嘩。数字のある交渉は対話になる」


「前世の……書物ですか?」


「ええ。とても分厚い書物に書いてありましたわ」


 ヨハンがため息をついた。「また書物か」という顔。この従者は私の嘘を信じているのか、信じたふりをしているのか。おそらく後者だ。


 応接間の窓から外を見た。広場では子供たちが走り回っている。最近、遊ぶ子供の姿が増えた。親が鉱山の仕事で安定した収入を得始め、子供を遊ばせる余裕ができたのかもしれない。


 その時、子供の一人がこちらに走ってきた。男の子。鼻を赤くして、目に涙を浮かべている。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん」


 窓を開けた。冷たい風と一緒に、子供の泣き声が飛び込んできた。


「どうしましたの?」


「おかあさんが……おかあさんが咳が止まらないの。苦しいって……」


 胸が詰まった。


 前世でも見た光景だ。同僚が具合が悪くなっても、ブラック企業には休む余裕がなかった。保険はあっても、使える時間がなかった。


 ここは——保険すらない。医者もいない。辺境の、取り残された集落。


「ヨハン、オルガさんの小屋は」


「村の外れ——走れば十分ほどです」


「行きましょう。今すぐ」


 子供の冷たい手を握った。小さな指が、必死に私の手にしがみつく。指先が氷のように冷たい。この子自身も、防寒具が十分ではないのだろう。


 ギュンターとの商談の高揚感は消えた。木箱の中の美しい刃物も、この子の母親の咳は止められない。目の前に、商売の数字では救えない現実がある。


 経営は万能ではない。だから、経営以外のことも同時にやらなければならない。



  ◇



 オルガの小屋に駆け込んだ。


 乾燥薬草の苦い匂いが満ちる室内で、オルガは既に煎じ薬を用意していた。子供の母親の症状を聞くと、表情が厳しくなった。


「冬の寒冷咳です。放置すれば肺を侵す。煎じ薬で症状は抑えられますが、根本的には——この地に医療の基盤がなさすぎるんです」


 オルガの声に、いつもの穏やかさが欠けていた。日常的に直面している無力感が、滲み出ている。


「薬草園の進捗はどうですの?」


「整地はほぼ終わりました。春になれば最初の苗を植えられます。でも、栽培から収穫まで半年。加工してさらに一ヶ月。今すぐ必要な患者には間に合わない」


 時間。いつも足りないのは時間だ。前世でも今世でも。


「自生している薬草で、今すぐ使えるものは?」


「いくつかあります。でも採取できる量に限りがある。私一人では——」


「一人じゃありませんわ」


 オルガが顔を上げた。


「薬草園を前倒しで動かしましょう。建設と並行して、自生薬草の採取チームを作る。日当制で領民を雇用する。マルクス殿に薬草を刻む専用の刃物も依頼しますわ」


「刃物?」


「薬草の加工には切れ味の良い刃物が要るでしょう? ヘルムガルド鋼なら、最適な刃を作れます。鍛冶と薬草の連携ですわ」


 オルガの目に光が戻った。亡き夫との夢だった薬草園が、少しずつ現実の形を取り始めている。


「それと——もう一つ、お願いがあります」


「何でしょう」


「この前の視察で見つけた、あの群生地の薬草。名前を教えていただけますか。見たことのない種類がいくつかあったんです」


 オルガが棚から薬草帳を取り出した。使い込まれたページ。亡き夫の筆跡と、オルガ自身の筆跡が入り混じっている。二人の知識の結晶だ。


「特に気になったのは、淡く光る白い花を——」


「聖光草」


 オルガの声が震えた。薬草帳を握る手が白くなっている。


「聖光草は伝説の薬草です。魔力の回復効果があるとされていますが、自然界で見つかったという記録は……数十年前に一例あるだけ」


「それが、ヘルムガルドに自生している」


 オルガと目が合った。二人とも、この発見の重みを理解していた。


 聖光草が本物なら、薬草園の価値は計り知れない。しかし同時に——それは外部の注目を集める危険も意味する。


「オルガさん。聖光草のことは、しばらく私たちだけの秘密にしてくださいな」


「……わかりました」


 小屋を出た。子供の手を引いて、母親のいる家へ向かう。オルガが煎じ薬を抱えて後に続いた。


 空には灰色の雲。風が冷たくなっている。冬が近い。


 ギュンターの商売の話と、オルガの薬草の話。鉄と薬。経済と医療。別々に見えるものを一つに繋げる——それが経営者の仕事だ。


 子供が私の手を見上げた。鼻を赤くして、しかしもう泣いていなかった。


「お姉ちゃん、おかあさん治る?」


「治りますわ。オルガさんがいますから」


 嘘ではない。でも——全てを救う力は、まだない。


 オルガが母親に煎じ薬を飲ませている間、私は小屋の外で待っていた。軒先の薬草の束が風に揺れている。乾いた葉がかさかさと音を立てた。


 足元を猫が通り過ぎた。オルガの飼い猫だ。寒そうに体を丸めて、日なたの残る一角で目を閉じた。


 この領地には、守るべきものが多すぎる。鉱山もある。鍛冶もある。商売もある。そして——こうして病に倒れる母親もいる。子供の涙もある。


 全部を一度に解決する魔法はない。でも、一つずつ——一歩ずつなら。


 前世で学んだ一番大事なことは、諦めないことだ。諦めたら終わる。逆に言えば、諦めなければ終わらない。


 オルガが小屋から出てきた。「症状は落ち着きました」と小さく微笑んだ。子供が母親の元に駆け寄る小さな足音が聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ