廃坑に眠る黒い宝——鉱脈は死んでいなかった
廃坑への山道を、ヨハンと二人で登っていた。吐く息が白い。針葉樹の枝に積もった雪が、時折ぱさりと落ちて静寂を破る。枯れた松の匂いが鼻をくすぐった。
「ヨハン、この道はよく来たの?」
「子供の頃は遊び場でした。坑道の入口付近で宝探しごっこをしていたんです。もちろん、奥には入るなと言われていましたが」
ヨハンの声に、懐かしさと寂しさが混じっていた。この山道は彼の幼少期の風景だ。仲間と駆け回った場所。やがて若者が出稼ぎに出て、子供の声が消えた場所。
「宝探しごっこ——実際に宝はありましたの?」
「鉄鉱石の欠片を集めて、どちらが大きいか競うんです。一番大きい欠片を見つけた子が、一日だけ鉱山王を名乗れる」
くすりと笑った。子供たちの無邪気な遊びが、今日は本物の鉱山再生に変わる。
「じゃあ今日は、私が鉱山女王になりますわ」
「……セラフィーナ様、その呼び方はちょっと」
山道の勾配がきつくなった。前世のデスクワーク体質では息が切れるが、セラフィーナの身体は若く健康だ。転生の数少ないメリット。
道の脇に、古い石碑が半分雪に埋もれていた。風化した文字は読めないが、おそらく鉱山の道しるべだろう。かつてはここを多くの鉱夫が行き来していた。今は私たち二人だけだ。
「ヨハン、鉱山が閉鎖されたのはいつ頃?」
「十二、三年前です。主坑道の崩落事故で二人が亡くなって、それきり。領主代行だった役人が閉鎖を決めました。危険だからという理由で」
「危険だから——採掘コストに安全対策費を上乗せする口実にもなりますわね」
ヨハンが振り返った。私の言葉の意味に気づいた顔だった。
◇
廃坑の入口が、山腹に口を開けていた。
前回は入口付近を確認しただけだった。今日はもっと奥に入る。松明を二本用意し、予備の油も持ってきた。ヨハンが古地図を広げる。
「この主坑道がまっすぐ百五十歩ほど続いて、そこで崩落しています。でも——ここ」
ヨハンの指が、主坑道の途中から分岐する細い線を辿った。
「この支脈は主坑道の五十歩手前で左に分岐しています。子供の頃、ここだけは入ったことがあるんです。行き止まりだと思っていましたが——」
「古地図ではもっと奥まで続いているように見えますわね」
松明を掲げ、坑道に入った。
湿った空気が肌にまとわりつく。壁面に水滴が光っている。天井から時折、ぽたりと雫が落ちる音。足元は不揃いの岩と砂利で、一歩ごとにじゃりじゃりと鳴った。
朽ちた支柱の木が、坑道の両側に並んでいる。虫食いだらけだが、まだ形は保っている。崩落の危険が頭をよぎるが、ヨハンが壁や天井を叩いて確認しながら進んでくれた。この人、実は頼もしい。
「ここが分岐点です」
五十歩ほど進んだところで、主坑道の左壁に開口部があった。大人一人がかがんで入れるほどの幅。前回は気づかなかった——というよりも、入口付近の岩で半分塞がれていたのだ。
松明を差し入れると、支脈は想像以上に広かった。天井が高くなり、壁面の鉄鉱石の赤黒い層が松明の光を吸い込むように輝いている。
「ヨハン、見て。この鉱脈——太さが違う」
壁に手を当てた。冷たい岩の感触。指先に伝わる微かな振動——地下水脈が近いのかもしれない。鉄鉱石の層は主坑道のものより明らかに厚い。未採掘の、手つかずの資源が眠っている。
前世の原価計算が頭の中で回り始めた。この層の厚さなら、鉄鉱石の純度も高いはずだ。マルクスのヘルムガルド鋼の原料として十分すぎる品質。
「すごい……こんな場所が残っていたなんて」
ヨハンの声が震えていた。感動ではない——もっと複雑な感情だ。
「この鉱脈がずっとここにあったのに、誰も掘らなかった。父も、祖父も、ここを知っていたはずなのに」
「知っていて、掘れなかったんですわ。帳簿を見る限り、歴代の管理者は採掘コストを意図的に高く見積もっていた。掘らせないために」
搾取の構造は、現場を動かさないことで維持される。前世のブラック企業も同じだった。改善提案を出す社員は、異動させられるか黙殺された。
ヨハンの拳が握りしめられていた。
「……セラフィーナ様。ここを、必ず」
「掘りましょう。あなたの故郷の宝を、正しい持ち主に返しますわ」
ヨハンが黙って頷いた。松明の炎が彼の横顔を照らしている。そばかすの浮いた頬に、決意の影が落ちていた。
この青年は、故郷を出た時には「行くあてがない」と言っていた。だが今のヨハンには、帰るべき場所がある。守りたいものがある。
私も——同じだ。前世では守るものがなかった。会社も自分の身体も守れなかった。今世で初めて、守りたいと思える場所を見つけた。
◇
支脈をさらに奥に進んだ。
松明の光が届く範囲で、鉱脈の広がりを確認していく。壁面にチョークで印をつけ、歩数を数え、天井の高さを目測する。ヨハンが古地図に書き込みを加えてくれた。
五十歩。百歩。支脈は思ったよりも長い。そして鉱脈は途切れない。
百二十歩ほど進んだところで、異変に気づいた。
壁の質が変わった。自然の岩盤ではない——積み上げられた石。人の手で塞がれた壁だ。
「ヨハン」
「はい、見えます。これは……落盤じゃありませんね」
松明を近づけた。石と石の間に古い漆喰が詰められている。風化して脆くなっているが、かつては頑丈に封じられていたことがわかる。石壁の端に、何かの刻印が微かに残っていた。
文字ではない。紋章のようなものだ。円の中に何かの動物が描かれている——翼を持った獣? 松明の光では細部が読み取れない。
「これが——ヘルガの言っていた、意図的に塞がれた区画」
「誰が、何のために……」
ヨハンが石壁に触れた。指先が漆喰の表面をなぞる。
「この漆喰、かなり古いです。五十年——いや、もっと前かもしれません。鉱山が稼働するよりも前に、ここは封じられていた可能性がある」
つまり、鉱山を開いた人間が発見して、意図的に見なかったことにした。あるいは——封鎖を前提に鉱山を開発した。
壁の向こう側から、微かに風が吹いている。空間がある証拠だ。そして——冷たい風の中に、ほんの微かに、嗅ぎ慣れない匂いが混じっていた。鉄鉱石でも水でもない、もっと甘い——植物のような匂い。
壁を崩す装備は持っていない。今日はここまでだ。
「帰りましょう。でも、この区画のことは覚えておいて。いずれ調べますわ」
来た道を戻りながら、私は考えていた。
北方警備費。封鎖された坑道。古い言い伝え。壁の向こうの甘い匂い。
帳簿の数字では見えない秘密が、確かにこの山の中にある。
◇
坑道を出ると、午後の陽光が目を射した。
山の空気が肺に流れ込む。冷たくて清潔で、体の隅々まで洗われるような感覚。ヨハンも大きく息を吸い込んだ。
「鉱脈の件、マルクス親方に報告しますか?」
「ええ。サンプルを持ち帰りましょう」
支脈で採取した鉄鉱石の欠片を布に包んだ。ずしりと重い。前回のサンプルよりも赤みが深く、粒子が細かい。高品質な証だ。
ヨハンが古地図を畳みながら、支脈の概要を暗唱するように言った。
「分岐から封鎖壁まで約百二十歩。鉱脈の厚さは平均して拳二つ分。天井高は十分。崩落の危険箇所は三ヶ所、補強が必要です」
「完璧な調査報告ですわ。前世のフィールドワーカーより優秀」
「前世の——何ですか?」
「現地調査の専門家ですわ。書物の中の」
またごまかした。いい加減ヨハンには薄々勘づかれている気がするが、この従者は踏み込まない。踏み込まない優しさがある。
帰路、薬草の群生地を通りかかった。雪の間から顔を出す小さな緑が、陽だまりの中で凛と立っている。オルガと視察した場所だ。薬草園の候補地として既に目をつけてある。
「春になれば、ここも花畑になりますの」
「セラフィーナ様は、薬草にも詳しいんですか?」
「詳しくはありません。でもオルガさんが詳しい。適材適所ですわ。経営者の仕事は、自分より優秀な人を見つけて、その人が力を発揮できる環境を作ること」
前世の上司にこれを言いたかった。あの人は全部自分でやろうとして、部下の能力を殺していた。そして全員が疲弊した。
「マルクスに鍛冶を。オルガに薬草を。ギュンターに流通を。そしてヨハン——あなたには、この土地のことを」
ヨハンが足を止めた。目が潤んでいる。
「……はい」
それだけ言って、ヨハンは歩き出した。耳が赤いのは、寒さだけが理由ではなさそうだ。
山を下りながら、鍛冶場の煙が見えた。マルクスのハンマーの音が、山に反射して遠くまで響いている。あの人に鉱石のサンプルを見せれば、目の色が変わるだろう。
鉱脈は生きている。職人の腕がある。あとは、回すだけだ。
鍛冶場に近づくにつれ、ハンマーの音が大きくなる。規則正しいリズム。鉄を打つ人間の、揺るぎない存在感。マルクスは今日も何かを作っている。まだ誰にも頼まれていないのに、ただ腕を磨いている。
あの人に、このサンプルを見せる。
目の色が変わるだろう。鍛冶職人にとって、良質な鉄鉱石は命の水だ。
しかし——封鎖された壁の向こうの甘い匂いが、頭の隅から消えなかった。




