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処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


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辺境の帳簿は赤字だらけ——元経理部主任、現状分析を始める

 翌朝一番のヨハンの報告に、私は執務室の椅子で崩れ落ちた。文字通り、背もたれに沈み込んだ。


「馬車から降りてこられたのは、王室資産管理局の書記官ディートリヒという方です。辺境領の定期資産査定のための巡回だと」


「定期……査定……」


 昨日の夕方、金の獅子と銀の鷲の紋章を見た瞬間に凍りついた心臓が、ようやく通常の鼓動に戻った。レオンハルトではなかった。攻略対象の接近ではなかった。


 しかし——安堵は三秒で終わった。


「査定ということは、帳簿を見せろと」


「はい。三日間滞在されるそうです」


 帳簿。ヘルムガルドの帳簿。歴代の代官が残した杜撰な記録と、私がここ数日で書き始めた複式簿記の断片。つまり、見せられるようなものがほぼない。


 前世の経理部主任としての本能が叫んでいる。監査対応は準備が九割。準備なしの監査は——地獄だ。


「ヨハン、地下倉庫の鍵を」


「地下倉庫ですか?」


「前の代官たちの記録が眠っているはずですわ。査察を受けるなら、まず過去の帳簿を把握しなければ」



  ◇



 地下倉庫は、領主館の裏手にある石段を降りた先にあった。石段は十二段。一段ごとに空気が冷たくなる。


 ヨハンがランプを掲げた途端、埃の粒子が黄色い光の中で踊った。カビた紙の匂いが鼻の奥を刺す。積み上げられた木箱、崩れかけた棚、虫食いの書類束。天井の低さが圧迫感を加え、石壁の隙間から冷気が滲み出している。十年は人が入っていない空気だ。


「ここ、一人で入るのは怖いですね」


「経理部の書庫に比べれば天国ですわ。あそこは窓もなかったし、ネズミがいたし、残業中に電気が——いえ、明かりが消えたことも」


 ヨハンが首を傾げたが、深追いしなかった。この従者、最近私の口が滑った時のスルー技術が上がっている。


 棚の奥から、革表紙の帳簿を五冊引き出した。表紙の金箔は剥がれ、ページの端が茶色く変色している。最も古いものは二十年前の日付だった。


 埃を払い、一冊目を開いた。


 数字が並んでいる。収入、支出、税額、納付記録。不揃いの筆跡が次々に変わる——代官が交代するたびに字が変わったのだ。


 そして、おかしい。


 収入欄と支出欄の差額が、毎年ほぼ同額で赤字になっている。十五年間、判で押したように。赤字の額まで揃っている年がある。


「ヨハン、ここを見て」


 ランプの近くにページを寄せた。


「支出の内訳。『王都上納金』『管理費』『仲介手数料』。この仲介手数料だけで収入の三割を持っていかれている」


「それは……多いのですか?」


「異常に多い。王都の相場でも仲介料は一割五分が上限ですわ。しかもこの『管理費』——」


 指で欄をなぞった。インクが薄れて読みにくいが、金額だけは妙にはっきり書かれている。


「中身が何も記載されていません。名目だけの支出。これは前世——いえ、書物で見た典型的な架空計上の手口ですわ」


 五冊全てを確認した。同じ構造。同じ搾取。十五年間、ヘルムガルドの産出する価値の四割以上が、正体不明の中間業者と架空費目に吸い上げられていた。


 ヨハンがランプを持つ手を下ろし、呆然としていた。


「つまり……この領地はずっと」


「騙されていたんです。歴代の代官も、おそらく知っていて黙認していた。見て見ぬふりをしたほうが楽ですから。帳簿を真剣に読む人間がいなければ——搾取は永遠に続く」


 帳簿を閉じた手が震えていた。怒りだ。


 この領地が「不採算」とされた理由は、資源が乏しいからでも気候が厳しいからでもない。食い物にされていたのだ。前世のブラック企業と同じ構図——現場が生み出す価値を、本社が搾取する。働く人間には何も残らない。


 だが。怒りを数字に変換するのが、経理部主任の仕事だ。



  ◇



 執務室に戻った。窓から差し込む朝日はまだ冷たい。


 羽根ペンをインク壺に浸し、白紙の帳簿に向かった。過去十五年分のデータを、正しい形式で再構築する。架空の費目を除去し、実質的な収支を計算し直す作業だ。


 三時間で終わらせた。前世なら一日かかる作業だが、複式簿記のフォーマットを最初から構築できる分、かえって速い。ペンが紙を走る音だけが執務室に響いていた。窓の外では査察官のディートリヒが領主館の周囲を歩き回っている。小太りの中年男で、分厚い眼鏡の奥の目は几帳面そうだが、悪意は感じられない。純粋な事務官だろう。


 結果は予想通りだった。


 中間搾取を排除した実質収支で計算すると、ヘルムガルドの経済ポテンシャルは帳簿上の数字の倍以上ある。鉱山の産出記録は意図的に過小報告されており、鋼材の卸値は市場の半分以下に設定されていた。


 つまり——正しい経営をすれば、この領地は黒字化できる。


 改革の三本柱を書き出した。


 第一、鉱業の再編。廃坑の支脈から良質な鉄鉱石を安定供給する。


 第二、鍛冶産業の高度化。マルクスのヘルムガルド鋼を核に、高付加価値製品の量産体制を構築する。


 第三、薬草事業の確立。オルガの知識を軸に、栽培・加工・販売の一貫体制を作る。


 そしてこの三本を貫く原則——中間搾取の完全排除。直接取引による利益の最大化と、領民への公正な分配。


 前世の株式会社ヴァルトシュタインの経営計画書は、こうして完成した。



  ◇



 台所に降りると、ヘルガが竈の前に立っていた。薪が爆ぜる音。鍋の中で薬草茶が煮立っている。


「お嬢様、朝食を召し上がっていませんね」


「帳簿に夢中で——」


「前の代官たちと同じことを言いますねえ」


 差し出された薬草茶は苦かった。舌の奥が収縮する。胃の薬草を入れたな、この人。


「ヘルガ。過去の代官たちについて聞かせてくださいな」


「何人目のお嬢様がそれを聞くのやら」


 ヘルガは竈の火を見つめたまま指を折った。


「五人来ました。最長で一年。最短は三ヶ月。全員、最初は立派なことを言うんですよ。『この領地を変える』『辺境を豊かにする』——」


 竈の炎がヘルガの横顔を照らしている。


「帳簿を見て顔が青くなって、冬が来る前に荷物をまとめる。お決まりの流れです」


「私は違いますわ」


「皆そう言いました」


 苦い茶を一口飲んだ。ヘルガの言葉のほうがずっと苦い。


「三ヶ月で黒字にしてみせます」


 ヘルガが初めてこちらを向いた。皺の奥の目は読めない。五人の代官を見送ってきた人間の、期待と諦めが入り混じった目。


「——せいぜい、六人目にならないことですね」


 竈の前を離れ、ヘルガは食器棚から黒パンと干し肉を取り出して皿に並べた。無言で差し出す。「食べなさい」とは言わない。ただ置く。不器用な優しさだ。前世の先輩が、デスクにそっと缶コーヒーを置いてくれたのを思い出した。


 黒パンを齧った。固い。しかし噛むほどに穀物の甘みが広がる。辺境のパンは、味気ないが嘘がない。


 台所を出た。



  ◇



 裏庭でヨハンと合流した。辺境の風が頬を切る。遠くに連なる雪山の稜線。ヨハンの耳が寒さで赤くなっている。


「査察官への提出資料、まとめましたわ」


「もうですか?」


「帳簿の精査は十八番ですの」


 計画書を広げた。三本柱。数字の裏付け。三ヶ月の収支予測。


「これを査察官に見せます。過去の不正な費目計上も全て洗い出しました。正しい帳簿は最強の武器——前世の……書物の教えですわ」


 ヨハンが計画書に目を通し、唸った。


「規模は理解できます。でも鉱山の本格再開には、あの日見た以上の調査が必要では?」


「ええ。支脈の正確な埋蔵量と、坑道の安全性を確認しなければ。明日、もう一度廃坑に入りましょう」


 ヨハンが頷き、しかし少し声を落とした。


「……実は一つ、気になることがあるんです」


「何ですの?」


「ヘルガから聞いた話では、廃坑の崩落は自然のものではないかもしれないと。奥に、意図的に塞がれた区画があるらしいんです」


 風が強くなった。雪山の方角から灰色の雲が流れてくる。


「意図的に?」


「理由はわかりません。ただ、昔から『あの坑道の奥には近づくな』と言い伝えがあると」


 帳簿の中に、一つだけ説明のつかない項目があった。「北方警備費」。毎年一定額が計上されているが、何を警備しているのか記載がない。十五年間、一度も。


 廃坑の封鎖。北方警備費。古い言い伝え。


 点と点が、まだ線にはつながらない。だが——この土地には、帳簿の数字だけでは見えない秘密がある。


 裏庭の向こうに、マルクスの鍛冶場から煙が立ち昇っていた。ハンマーの音が微かに聞こえる。あの人は今日も鉄を打っている。


「……確かに、おかしいですね。北方警備費。誰が何を警備していたのか、父も祖父も話したことがなかった」


 ヨハンの声が小さくなった。辺境育ちの彼でも知らない領地の闇がある。


「まずは鉱山からですわ。掘れるものを掘り、売れるものを売る。経営の基本は——キャッシュフローの確保から」


 前世の経理部主任が十年かけて学んだことを、今世の悪役令嬢が三ヶ月で実行する。贅沢な話だ。前世では会社のために数字を回していた。今は——自分のために。この領地と、ここに住む人たちのために。


 査察官の馬車が領主館の前に止まっている。王家の紋章が朝日に光っていた。あれを見ても、もう心臓は跳ねない。


 本当に怖いのは、紋章ではなく——紋章の向こう側にいる人間だ。

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