改革者の孤独と一通の手紙
深夜。領主館の執務室。机の上には帳簿が三冊、計算用の羊皮紙が山積み、そして冷めたハーブティーが一杯。ハーブティーの表面に蝋燭の光が揺れて映っている。もう温かさは残っていない。
鉱山試掘の初期投資。鍛冶場の送風設備改良。薬草園の整地と種苗。日雇い領民への賃金。消耗品。食料の備蓄。
金貨が水のように減っていく。ペン先で数字を追うたびに、胃がきゅっと締まる。この感覚は前世でも何度も味わった。月末の資金繰り表を見る時の、あの独特の圧迫感。
「前世よりブラックな労働環境じゃないですの……」
窓の外は真っ暗だ。時刻は——わからない。この世界には時計がない。正確には、砂時計はあるが、夜中に砂時計をひっくり返す気力がない。
肩が凝っている。背中が痛い。目が霞む。
……前世の終わり頃と、同じ症状だ。
やばい。
「セラフィーナ様、そろそろお休みになってください」
ノックの音と共に、ヨハンの声がした。扉を開けると、彼は温かい毛布を手に持っていた。
「まだ決算が——」
「決算ですか、セラフィーナ様。このヘルムガルドに決算期があるとは初耳ですが」
鋭い。この従者、最近ツッコミのキレが上がっている。
「決算期がないのは問題ですわ。来月から四半期ごとの収支報告を導入します」
「……それは明日でもよろしいのでは」
「決算が終わるまで寝られない主義なので」
「主義を変えてください」
ヨハンの声に、珍しく真剣な色が混じっていた。心配している。前世では、私の体調を心配してくれる人間は——いなかったわけではない。いたが、私がそれに気づかなかった。
「……わかりましたわ。あと十分だけ」
「五分です」
「七分」
「六分」
ため息をついて、ペンを置いた。ヨハンが勝った。前世の上司にこの交渉力があれば、私は過労死しなかったかもしれない。
毛布を肩にかけてもらった。羊毛の粗い感触が心地よい。ヨハンが蝋燭を新しいものに替え、冷めたハーブティーを下げていく。その背中を見ながら、ふと思った。この青年は、いつの間にか「下級侍従」ではなく「右腕」になっている。本人にその自覚はあるだろうか。多分、ない。
◇
翌日。
朝食の後、ヘルガが手紙を持ってきた。
「王都からですよ。ナターリアお嬢様から」
封蝋を割る感触。ナターリアの丸い筆跡。手紙に押し花が添えられていた。紫色の小さな花。淡い香りが鼻をくすぐる。
——お姉様へ。
お元気ですか。王都は相変わらずです。卒業式のことはまだ話題になっています。
一つ、お伝えしたいことがあります。
王太子殿下が、お姉様のことを聞いてきました。「辺境でお元気か」と。側近のフリッツ様を通じて、非公式に。
お姉様、大丈夫でしょうか。王太子殿下がなぜお姉様のことを……。
——胃の底が冷えた。指先が微かに震えた。手紙を持つ手に力が入る。
レオンハルト。まだ私のことを気にかけている。「冷酷な暴君」は、婚約破棄した元婚約者を忘れてくれなかった。ゲームの知識が脳裏をよぎる。レオンハルトルートでは、ヒロインを手に入れるためなら国すら犠牲にする男だ。その執着が、今度はこちらに向いている。
「やめてくれ、フラグが立つ」
呟いてしまった。ヨハンが「フラグ?」と首を傾げたが、説明する余裕がない。
手紙を読み進める。
追伸。
父上が最近、辺境の報告書を読んでいるようです。家令に「ヘルムガルドの近況を詳しく報告しろ」と命じているのを聞きました。
お姉様のこと、気にかけているのでしょうか。それとも——。
ナターリア。
手紙を閉じた。押し花の淡い香りが指先に残っている。
ナターリアの手紙は、いつも丸い文字で一生懸命書かれている。この子は——優しい子だ。異母姉に対して何の義理もないのに、わざわざ情報を送ってくれる。前世にこんな妹がいたら——いや、前世には兄弟姉妹はいなかった。一人っ子で、一人で生きて、一人で死んだ。
この妹だけは——守りたい。そう思っている自分に、少し驚いた。
レオンハルトがフラグを立てている。父アルベルトが辺境を監視している。
二方面からの圧力。王家と公爵家。ゲームの攻略対象と、物語の黒幕的存在。
——嫌な予感しかしない。
だが、今できることは一つ。辺境を強くすること。経済的な自立を達成すれば、王都からの干渉に対する最大の防壁になる。帳簿は最強の武器。正しい数字は、政治に対する盾になる。
押し花を挟んだナターリアの手紙を、机の引き出しにしまった。あの子は……大丈夫だろうか。王太子妃候補の重圧を一人で背負っていないか。
返事を書く。辺境のことは詳しく書かない。父の目に触れる可能性がある。代わりに——妹への気遣いだけを。
「元気ですわ。辺境は寒いけれど、温かいスープと温かい人がいます。あなたも無理をしないで。何かあればいつでも手紙をちょうだい。お姉様はいつでもあなたの味方ですからね」
書き終えて、少し恥ずかしくなった。インクが乾くのを待ちながら、自分の書いた文字を見つめた。セラフィーナの筆跡は流麗で美しい。貴族教育の賜物だ。その美しい文字で、こんな庶民的な温かさを書いている違和感。セラフィーナの記憶の中で、この妹にこんな温かい言葉をかけたことはなかった。ゲームの悪役令嬢は、妹のことなど眼中になかったのだから。
でも——私は悪役令嬢じゃない。元OLだ。妹の気持ちくらい、わかる。
封蝋を溶かし、手紙を封じた。押し花のお返しに何か入れたかったが、辺境には花が咲いていない。代わりに、オルガからもらったアイスミントの葉を一枚忍ばせた。辺境の香りが、少しでもナターリアの心を和ませてくれればいい。
◇
その夜。
手紙の内容を反芻しながら、帳簿の前に座っていた。資金はあと二ヶ月で底をつく。鉱山の試掘が順調に進み、ヘルムガルド鋼の最初の取引が成立すれば黒字化できるが——タイムリミットが迫っている。
前世のスタートアップ創業者たちが「ランウェイ」と呼んでいたもの。資金が尽きるまでの猶予期間。私のランウェイはあと六十日。
焦りが胸を締めつける。しかし焦って判断を誤れば、全てが崩れる。
前世でも資金繰りの地獄を見たことがある。会社の口座残高が日に日に減っていく恐怖。あの時は他人の金だったから、まだ客観的でいられた。今は——自分の金で、自分の領地で、自分が決めた計画が資金不足で潰れるかもしれない。
でも、前世の私はこの局面で諦めなかった。不採算事業の黒字化を提案し、実行した。あの時の分析力と胆力は、今も使える。
深呼吸。帳簿に向き直る。数字は嘘をつかない。数字の中に、答えがある——。
鉱山の試掘は順調だ。マルクスのヘルムガルド鋼の品質は安定してきた。薬草園は整地が完了し、オルガが栽培を始めている。あと一ヶ月——最初の取引が成立すれば、キャッシュフローが改善する。
あと一ヶ月。持つか。ぎりぎりだが——持たせる。
ノックの音。
今度はヨハンではなかった。ヘルガの足音。急いでいる。
「お嬢様、大変です」
扉が開いた。ヘルガの顔が、いつもの毒舌マスクを外していた。珍しく——焦りが見える。
「明日、王都から商人が来ると。領地の商品を査定したいと言っているそうです」
「商人? 今このタイミングで?」
「ギュンターから急ぎの使いが来ました。商人の素性はわからないが、王都の大手ギルドの匂いがすると」
松明の炎が廊下で揺れている。ヘルガの影が壁に大きく伸びている。
私の目が鋭くなった。
ナターリアの手紙。レオンハルトの関心。父の監視。そして今——王都の商人。
全てが繋がっているのか。それとも偶然の一致か。
どちらにせよ、来るものは受けて立つ。
「……来るのが早いですわね」
帳簿を閉じた。インクの乾いた匂いと、蝋燭の煤の匂いが鼻に残っている。窓の外で夜風が木の枝を揺らす音がした。
明日は——別の戦場だ。しかし戦場なら慣れている。前世のブラック企業は、毎日が戦場だった。違うのは、今度は自分のために戦うこと。そして——守りたい人たちのために。




