薬草園計画と領民の信頼
オルガの住む小屋は、集落の外れ——森の入口に建っていた。木造の質素な建物。軒先にハーブの束が吊るされ、木漏れ日が揺れる屋根の下で猫が丸くなっている。白と茶のまだら模様の猫が、半開きの目でこちらを見て、興味なさそうに目を閉じた。
周囲には森の匂いが濃い。湿った土と、苔と、針葉樹の清涼な香り。王都の花壇とは全く異なる、野生の緑の匂いだ。
扉を叩くと、静かな声が返ってきた。
「どうぞ」
中に入ると、壁一面に乾燥薬草が並んでいた。棚の上に陶器の壺。石の乳鉢。すり潰された粉の匂い。蜂蜜と苦い草の混じった独特の空気。
オルガは三十代の寡婦だった。落ち着いた顔立ちに柔らかい声。しかし目には——疲弊が見えた。目の下の隈。指先の荒れ。一人で辺境の医療を背負ってきた人の顔だ。
「新しい領主様ですか。噂は聞いています」
「噂ですか」
「鍛冶場に通い詰めて、マルクスを落としたとか」
落としたという表現はどうかと思うが、間違ってはいない。
「オルガさん、あなたの知識を貸していただきたいのです」
「知識?」
「辺境に自生する薬草について。種類、効能、需要。何でも教えてください」
オルガは少し驚いた顔をした。領主が薬草に興味を持つこと自体が異例なのだろう。歴代の領主代官は、薬草どころか領民の健康にすら関心を持たなかったに違いない。
しかし聞き始めると、オルガは止まらなかった。声に熱がこもり、目の輝きが変わった。この人は話す相手を求めていたのだ。長い間、一人で抱えてきた知識を。
この地の寒冷気候が育てる薬草は特殊で、王都では入手困難な品種が複数あるという。解熱剤の原料となるアイスミント。傷薬に使うヘルム草。鎮痛効果のある銀花。どれも辺境の厳しい冬を越した薬草は、暖地産のものより薬効が強い。
「王都では高級品として取引されます。でも——この地から王都までの輸送で品質が落ちるんです。乾燥が不十分だと腐る。かといって完全に乾燥させると薬効が落ちる」
「保存技術の問題ですわね」
「はい。もし——加工まで現地でできれば。煎じ薬の形にして密封すれば、品質を保ったまま輸送できます。でも、そのための設備も人手も……」
声が小さくなった。オルガはずっとこの課題を考えていたのだ。しかし一人では解決できなかった。
「薬草園を作りましょう」
私の言葉に、オルガが目を見開いた。
「栽培、加工、販売の一貫体制。運営はオルガさんに任せます。設備と人手は私が手配する」
「で、でも——土地が」
「旅路で見つけた薬草の群生地があります。あそこを候補地にして、まずは整地から始めましょう」
オルガの目に——光が宿った。微かだが確かな光。枯れかけた灯火に油が注がれたような。
「あの場所……私も知っています。夫が生きていた頃、二人であそこに薬草園を作ろうと話したことがあるんです」
亡き夫との夢。それを聞いた瞬間、私はこの事業の意味が変わったことを感じた。ただの収益事業ではない。誰かの夢の続きだ。
「必ず実現しますわ」
気がつけば、そう断言していた。経営者としては、不確定な約束は避けるべきだ。しかしオルガの目を見ていると——言わずにはいられなかった。
オルガの目から涙が一筋流れた。慌てて拭い、「すみません」と小声で言った。
「夫が——病で亡くなった時、薬が間に合わなかったんです。もっと薬草の知識があれば。もっと設備があれば。ずっと——そう思ってきました」
胸が痛んだ。この人は、自分を責め続けてきたのだ。力が足りなかった自分を。
「オルガさん。あなたの力は、十分です。足りなかったのは、環境のほうですわ」
前世でも同じことを何度も思った。個人の能力は十分なのに、組織や環境が悪くて力を発揮できない。あのブラック企業の優秀な同僚たちも、まともな職場にいれば輝いていたはずだ。
「環境は——私が整えます。あなたは、あなたの知識と技術を存分に使ってください」
オルガが深く頭を下げた。静かだが、芯の通った声で言った。
「……よろしくお願いいたします。領主様」
領主様。初めてそう呼ばれた。ヘルガの「お嬢様」でもなく、ヨハンの「セラフィーナ様」でもない。「領主」として認められた瞬間。
小屋の外に出ると、猫がいつの間にか軒先から降りて、私の足元に擦り寄ってきた。動物は人を見る目がある。少なくとも、この猫にはまだ嫌われていないらしい。
◇
薬草園の整地作業が始まった。
領民を雇用する告知をヘルガに頼んで出すと、最初に来たのは三人だけだった。老人が二人、中年の女性が一人。若い働き手はいない。
日当と昼食付き。この条件でも最初は警戒された。領主が何かを始めるたびに、領民は搾取されてきた歴史があるのだ。
しかし初日、私自身が鍬を持って土を掘り返した。鍬の柄は冷たく、手に馴染まない。振り下ろすたびに、肩と腰に衝撃が走った。三回目で手のひらに豆ができた。五回目で潰れた。痛い。前世の公爵令嬢——いや、前世のOLにもこんな体力仕事はなかった。
「セラフィーナ様!? 領主様が鍬を——」
ヨハンが慌てたが、私は気にしなかった。前世で引っ越しの荷造りを全部一人でやった人間が、鍬の一本も振れないわけがない。実際には振るたびに全身が悲鳴を上げていたが、表情には出さない。元ブラック企業OLは、痛みを顔に出さない術だけは完璧に身につけている。
公爵令嬢が土にまみれて鍬を振る姿は、噂になった。翌日、見物に来た人が三人。そのうち二人が「手伝おうか」と鍬を持った。
三日目には十人。一週間後には二十人。
薬草園の予定地は少しずつ形になっていった。オルガが指示を出し、私が計画図を描き、領民たちが土を掘る。ヨハンが資材の調達に走り回る。前世の「チーム」とはこうあるべきだった——役割が明確で、目標が共有されていて、誰もが自分の持ち場で力を発揮する。
昼食は全員で一緒に食べた。ヘルガが作った根菜のスープと黒パン。質素だが量は十分。「日当と昼食付き」という条件は、辺境では破格らしい。前世なら最低限の福利厚生だが。
石に当たる鍬の音。掘り返した土の湿った匂い。笑い声。最初は警戒の目だった領民たちの顔が、少しずつ——ほんの少しずつ——変わり始めていた。
ヘルガが薬草園の予定地を見に来た時、その口元が微かに緩んでいた。
「あの令嬢、本気かもしれないね」
ヘルガがそう漏らしたのを、オルガが聞いていた。オルガは何も言わなかったが、作業の手が一段と丁寧になった。
夕方。整地作業を終えて、予定地の端に腰を下ろした。
夕焼けに染まる空。冷たい風に混じる笑い声——作業を終えた領民たちが帰っていく声。
ふと、足元に小さな影が落ちた。
「お姉ちゃん」
子供だった。前に村で声をかけてきた男の子。今日は友達も連れている。
「お姉ちゃん、ずっとここにいてくれる?」
——前世で、誰もそんなことを聞いてくれなかった。
会社を辞めても、誰も「いてくれ」とは言わなかった。死んでも、きっとすぐに代わりの人間が座った。
この子は。この小さな子供は。まだ出会って数日の相手に、「いてくれるか」と聞いている。
言葉に詰まった。一瞬。
「……ええ。有給を使い切るまでは」
背後でヨハンが首を傾げた。
「有給って何ですか?」
「お休みのことですわ」
「ああ——でもセラフィーナ様、着任してから一日もお休みを取っていませんが」
的確なツッコミ。この従者、成長している。
子供たちが笑った。意味はわかっていないだろうが、大人が笑い合う空気に釣られたのだ。男の子が私の手を引っ張って、整地したばかりの土を見せた。
「ここにお花植えるの?」
「お花も植えますわ。でも、もっと大事なものを育てるの」
「もっと大事なもの?」
「みんなが元気でいられるための薬草ですわ」
男の子は「ふーん」と言って、それから不意に笑った。歯が一本抜けている。その笑顔が、夕陽に照らされて眩しかった。
前世では、「人のために働く」ことは「自分を犠牲にする」ことと同義だった。
だが今の自分には、それが重ならない。この薬草園は、オルガの夢であり、領民の健康であり、ヘルムガルドの未来であり——そして私自身が作りたいものだ。
初めて、「やりたいこと」と「やるべきこと」が一致している。
それが——こんなにも心地よいとは、前世の私は知らなかった。




