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処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが  作者: ぽんぽこライフ


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過労死したら悪役令嬢でした

 蛍光灯の青白い光が視界の端で滲んでいる。キーボードを叩く指はとうに感覚を失くしていて、眼球の奥にはここ三日ほど居座り続けている鈍痛がある。画面に並ぶ数字の羅列が、ゆっくりと溶けていく。


 月次決算、締め切り、残業、月次決算。佐藤凛の二十八年間は、その繰り返しだった。


 最後の日も、何も変わらなかった。午前三時のオフィスに残っているのは私だけで、隣の席の課長はとっくに帰っている。私のデスクにだけ山積みの伝票。月末の仕訳が百件。消費税の端数が合わない。たった一円のために、もう二時間も画面を睨んでいる。


 ——ああ、もう駄目だ。


 心臓が妙な音を立てた気がした。視界が白く飛ぶ。崩れ落ちる瞬間、頬を打ったのはデスクの冷たい角。痛い、と思う間もなく、世界が遠ざかる。


 最後に聞こえたのは、同僚の悲鳴でもなければ救急車のサイレンでもなく——清掃員のモップが廊下を擦る、規則正しい音だった。


 経理部主任、佐藤凛。享年二十八歳。死因、過労。


 遺書は——ない。辞表すら出せなかった人間に、遺書など書けるわけがない。



  ◇



 甘い。


 最初に認識したのは、鼻腔をくすぐる薔薇の香水だった。蛍光灯の無機質な光ではなく、柔らかな陽光が頬に触れている。身体を包んでいるのは、ブラック企業の安い事務椅子ではなく——絹。指先に滑らかな繊維が纏わりつく感触に、思わず指を握った。


 ……柔らかい。


 重い瞼を持ち上げる。


 天蓋付きのベッド。天井には金箔の精緻な彫刻。窓からは暖かい陽光が斜めに差し込み、塵が光の柱の中で舞っている。窓の外には、手入れの行き届いた薔薇の庭園。


 意味がわからない。


 がばりと上体を起こす。絹のシーツがさらりと滑り落ち、薔薇の香りがふわりと舞い上がった。身体が軽い。驚くほど軽い。あの三日ぶりの鈍痛も、慢性的な肩凝りも、じわじわと蝕んでいた腰痛も——全部、消えている。


 代わりに、妙に指が細い。手が小さい。胸元のネグリジェのレースが——待ってください今の私何を着ているんですか。


「セラフィーナ様、お目覚めですか?」


 ノックもなく扉が開き、フリルだらけのメイド服を着た少女が銀の盆を手に入ってくる。盆の上には白磁のティーカップと、花が添えられた焼き菓子。


 ……メイド服?


「本日のご予定ですが、午前中はお茶会、午後はヴァルトシュタイン家の家庭教師がいらっしゃいまして——」


「待って」


 思わず手を上げて制止した。少女がぴたりと動きを止める。


 鏡。鏡はどこだ。


 ベッドを降り、素足が冷たい大理石の床に触れる。その感触すら非現実的だ。覚束ない足取りで化粧台へ向かう。鏡面に映ったのは——見知らぬ少女の顔だった。


 銀灰色の髪が腰まで流れている。淡い紫の瞳。陶器のように白い肌に、形の良い唇。年の頃は十七、八。どこからどう見ても、残業と不規則な食生活で肌が荒れた二十八歳の経理部主任ではない。


 脳の奥で、何かが弾けた。


 ——この顔を、知っている。


 前世の数少ない娯楽だった乙女ゲーム実況。終電を逃した深夜のネットカフェで、死んだ目のまま見ていた動画。その中で、何度も何度も処刑されていた少女。


『聖光のエトワール』——その悪役令嬢、セラフィーナ・ヴァルトシュタイン。


「……は?」


 鏡の中の令嬢が、前世のOLと全く同じ顔で固まっている。眉間の皺まで同じ。


 冗談じゃない。ブラック企業で殺されたと思ったら、今度はゲームの世界で処刑される役ですか。どういう人事異動ですか。配属先が断頭台って、さすがに労基案件では。


「セラフィーナ様? お顔の色が優れないようですが……」


「いえ、大丈夫ですわ」


 ——ですわ?


 口から出た言葉が、自分のものではない響きを持っている。舌が勝手に動く。身体に染みついた令嬢の口調。これが、セラフィーナ・ヴァルトシュタインという存在のデフォルト設定か。


「……少し、一人にしていただけます?」


 侍女が心配そうな顔で下がっていく。扉が閉まり、薔薇の香りだけが残った。


 化粧台の前に座り直す。鏡の中の紫の瞳が、じっとこちらを見つめ返していた。


 怖い。正直に言えば、震えが止まらないくらい怖い。


 前世は、ただ働いて、疲れて、死んだ。理不尽だったけれど、少なくとも処刑ではなかった。今度は衆人環視の中で首を切られる。それが「お約束」として用意されている世界に、私は放り込まれた。


 ——でも。


 泣いても喚いても、状況は変わらない。


 それだけは、前世で嫌というほど学んだ。



  ◇



 パニックは十五分で終わらせた。感情に浸る暇があるなら、データを集めて対策を立てる。経理部主任の矜持。


 書斎に移動する。羊皮紙とインクの匂いが漂う部屋は、狭いが落ち着いた。本棚には革装丁の書物が並び、机の上には羽根ペンとインク壺。羽根ペンを手に取ると、紙の上を滑るペン先がかすかに引っ掻く音を立てた。少なくとも、キーボードを叩く乾いた音よりはずっと耳に優しい。


 まず、現状把握。


 侍女から聞き出した情報とカレンダーを照合する。現在、王立学園の最終学年。卒業式まで——残り三ヶ月。


 三ヶ月。


 ゲームの記憶を掘り起こす。プレイ動画を流し見した程度の知識だが、大筋は覚えている。


 悪役令嬢セラフィーナは全ルートでヒロインに嫌がらせを行い、最終的に公開処刑される。ルートによって罪状は変わるが、結末は同じ。断頭台の上で膝をつくセラフィーナの姿は、どの実況者も「ざまぁ」と盛り上がるお約束のシーンだった。


 ——冗談じゃない。


 前世は過労で殺された。今世は処刑で殺される。この世界の人事部は二度も私を殺す気か。


 だが。ここで重要なのは感情ではなく分析だ。


 処刑に至る全ルートの共通条件は何か。


 私は羽根ペンを走らせ、記憶にある限りのイベントを書き出していく。


 ——ルート一、王太子レオンハルト。ヒロインとの舞踏会イベントを妨害、王太子の面前でヒロインを侮辱。


 ——ルート二、騎士団長ルキウス。ヒロインへの嫌がらせがルキウスの怒りを買う。


 ——ルート三、宮廷魔術師エミル。ヒロインの魔力暴走を悪役令嬢が仕組んだと断罪。


 ——以降も同様。五ルート全てに共通するのは、「攻略対象の前でヒロインに敵対する」こと。


 つまり。


 攻略対象と関わらなければ、処刑フラグは立たない。


 単純な話だ。営業部に近づかなければ営業との揉め事は起きない。同じこと。


 問題は一つ。婚約者の王太子レオンハルトとの定期面会が一週間後に迫っている。接触不可避。


 だが、これにも対処法はある。婚約破棄。自分から切ればいい。前世で出せなかった辞表を、今度こそ叩きつける。


 ペンが止まる。


 紙の上には、攻略対象五人の名前が並んでいた。その横に赤インクで大きくバツ印。一人残らず、回避。


 最後の行に、私は一つの決意を書き加えた。


 ——辺境領地の請求。


 ヴァルトシュタイン家は北東辺境に不採算の領地を持っている。ゲームの設定テキストにちらりと映った「未開拓の寒冷地・ヘルムガルド」。誰も見向きもしない土地。


 完璧だ。あそこなら攻略対象は来ない。王宮からも教会からも遠い。前世の経営知識——簿記、原価計算、労務管理——があれば、不採算の領地だって立て直せる。少なくとも、ブラック企業の決算を一人で回すよりはマシな仕事のはずだ。


 母が早くに亡くなったことで、父上との関係は冷え切っている。公爵家の長女が辺境に消えたところで、本気で追いかけてくる人間はいないだろう。


 羽根ペンを置いた。インクの匂いが鼻を掠める。窓の外では、知らない世界の夕陽が赤く沈もうとしていた。


 私は椅子の背に身体を預け、小さく息を吐いた。胸の奥に残っていた震えが、少しだけ収まっていく。


 怖い。まだ怖い。


 でも、前世の私はただ怯えて、従って、死んだ。


 今度は——違う。


「全員回避。これは退職届じゃなくて——辞表ですわ」


 悪役令嬢セラフィーナ・ヴァルトシュタインの、運命に対する辞表。


 受理させてみせる。今度こそ、私は自分の足で歩く。

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― 新着の感想 ―
月次決算〜の繰り返しの28年間だった、のなら28歳で死ぬのはおかしいのでは?働いて28年たったみたいに読み取れます。主人公は50位で亡くなったのならわかるのですが、28歳なら高卒だとしても10年くらい…
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