第3話 四十人の村
村に入った瞬間、視線が集まった。
それは当然だった。
森の奥から現れた、見知らぬ男。
しかも服装はこの土地の誰とも違う。黒い上着に白いシャツ、首には細い布。足元は革靴。村の誰も着ていない格好だった。
畑にいた男が、鍬を持ったまま立ち止まる。
井戸の横で水を汲んでいた女が、手を止める。
子どもたちは少し離れたところで、興味と警戒の入り混じった目でこちらを見ていた。
圭太は歩みをゆっくりにした。
こういうとき、急に動くのはよくない。
警戒を刺激する。
会社の会議でも似たようなことがある。
部外者が突然、強い言葉で議論に入れば空気は固まる。まずは状況を観察すること。自分の立場を確認すること。
少女――リナが振り返る。
「こっち」
彼女は何の躊躇もなく、村の中央へ歩いていく。
圭太はその後ろについていった。
村は小さかった。
家は十五軒ほど。
畑が広がり、鶏小屋と羊の囲いがあり、中央には井戸と小さな広場がある。
地面は土で、ところどころ踏み固められている。
道というほどの道はないが、人の動線ははっきりしていた。
圭太は無意識に見ていた。
家の配置。
畑の広さ。
井戸の位置。
薪の積み方。
干し草の山。
そして、人の数。
働いているのは二十人弱。
子どもと老人を含めて、三十〜四十人。
リナの言った数字は、だいたい合っている。
小さな農村だ。
「お父さん!」
リナが声を上げた。
畑の中で作業していた男が顔を上げる。
四十代くらい。
日焼けした腕。
鍬を持っている。
リナは言った。
「森で迷子見つけた」
圭太は軽く頭を下げた。
「すみません。森で道に迷ってしまって」
男は黙って圭太を見ていた。
視線は鋭いが、敵意はない。
ただ、状況を測っている。
圭太はその目に見覚えがあった。
現場の責任者の目だ。
余計な言葉に反応せず、まず相手を観察する。
それは企業の工場長や職人の親方にもよくある表情だった。
男は言った。
「……村長のところへ行こう」
村長の家は、他の家より少しだけ大きかった。
といっても立派な建物ではない。
木で組まれた質素な家だ。
中には机と椅子、そして棚がある。
窓は小さい。
暖炉にはまだ火が残っていた。
そこに座っていたのが村長だった。
六十歳くらい。
白髪。
深い皺。
だが目はしっかりしている。
圭太は軽く頭を下げた。
「突然すみません。森で道に迷ってしまって」
村長はしばらく黙っていた。
そして言った。
「どこから来た」
圭太は答えに迷った。
東京。
そう言っても通じない。
少し考え、言葉を選ぶ。
「遠い土地です」
村長は何も言わない。
嘘を見抜こうとしているのかもしれない。
圭太は続けた。
「森で気を失って、気づいたらここにいました」
半分は本当だ。
村長は腕を組んだ。
「金はあるか」
率直だった。
圭太は首を振った。
「ありません」
村長はさらに聞いた。
「仕事は」
圭太は少し考えた。
これも難しい質問だった。
コンサルタント。
そう言っても意味がない。
しばらく沈黙したあと、圭太は言った。
「……考える仕事です」
村長は眉を動かした。
「考える?」
「問題を整理して、解決の方法を考える」
村長はしばらく黙った。
それから言った。
「剣は使えるか」
「使えません」
「畑は」
「やったことはありません」
村長は深く息を吐いた。
それは「困った」というため息だった。
しばらく沈黙が続いた。
圭太はその間、部屋の中を見ていた。
机の上。
棚。
窓。
棚には麻袋がいくつか置かれている。
穀物だろう。
机の上には木の板があり、そこに印が刻まれていた。
記録だ。
おそらく収穫や配分の簡易な記録。
圭太は思った。
この村は回っている。
規模は小さいが、秩序はある。
村長が中心になって、何とか生活を維持しているのだろう。
村長が言った。
「ここは余裕のある村じゃない」
圭太は頷いた。
「分かります」
「食べさせる余裕はない」
「はい」
圭太は静かに答えた。
それは当然だ。
人口四十人の村に、働けない大人が一人増えれば負担になる。
会社でも同じだった。
小さなチームほど、余剰人員は抱えられない。
そのとき、圭太の頭の中で一つの考えが浮かんだ。
外に広がる畑。
さっき見た畝。
干し草の積み方。
水路の位置。
圭太は言った。
「一つだけ聞いていいですか」
村長が顔を上げる。
「何だ」
圭太は言った。
「小麦、あまり取れていませんよね」
部屋の空気が止まった。
リナの父親が、圭太を見た。
村長も目を細める。
「……なぜ分かる」
圭太は答えた。
「畝が狭い」
そして続ける。
「水はけも悪い」
村長は黙った。
圭太はさらに言う。
「干し草の積み方も、少し損しています」
今度は、リナの父親が眉をひそめた。
圭太は慌てて付け加える。
「責めているわけじゃありません」
そして正直に言った。
「ただ、改善できると思います」
村長は長く黙っていた。
暖炉の火が小さく音を立てる。
外では鶏が鳴いた。
やがて村長が言った。
「お前、畑をやったことはないと言ったな」
「はい」
「なのに分かるのか」
圭太は少し苦笑した。
「仕事で似たようなことをしています」
村長は聞いた。
「何を」
圭太は答えた。
「無駄を探す」
村長は再び黙った。
そしてゆっくり言った。
「……面白い男だ」
圭太は何も言わなかった。
村長は椅子にもたれた。
「すぐには信じない」
それは当然だ。
圭太は頷いた。
「はい」
村長は続けた。
「だが、試すことはできる」
圭太は顔を上げた。
村長は言った。
「畑を一つ、お前に任せる」
圭太は外に出た。
夕方の光が畑を照らしている。
風が吹く。
小麦が揺れる。
彼は少しだけ笑った。
東京では、何百億の事業計画を作っていた。
だが今、目の前にあるのは小さな畑だ。
それでも――
胸の奥で、何かがほんの少し動いた気がした。




