第2話 森の少女
圭太が目を覚ましたとき、最初に感じたのは空気だった。
冷たい。
そして妙に澄んでいる。
東京の夜の空気は、どこか湿って重い。車の排気、ビルの空調、アスファルトの熱。そういうものが混ざり合って、街特有の匂いを作っている。
だが今、彼の肺に入ってきた空気は違った。
草の匂い。
湿った土。
遠くの水の気配。
目を開けると、空が見えた。
高かった。
ビルの隙間ではなく、丸ごとの空だ。
青の深さが、東京とは違う。
圭太はしばらく、動かなかった。
状況を理解する前に、まず体を確認する。
長年の仕事の癖だった。
手足は動く。
痛みはない。
スーツのままだ。
靴も履いている。
スマートフォンはポケットにあった。
電源は入る。
圏外だった。
圭太はゆっくり起き上がった。
周囲は森だった。
背の高い木々。
下草。
見たことのない形の葉。
風が通ると、枝が擦れ合う音がした。
どこかで鳥が鳴いた。
圭太は立ったまま、目を閉じた。
これは夢ではない。
少なくとも、そう感じた。
夢にしては、空気が冷たすぎる。
匂いが鮮明すぎる。
そして、地面の硬さがリアルだった。
「……何だこれ」
思わず声が出た。
それが、今の自分の状況に対する最も正確な言葉だった。
圭太は歩き出した。
じっとしていても何も変わらない。
それもまた、長年の仕事で身についた判断だった。
森の中には、かすかな道があった。
人が通っている跡だ。
踏み固められた土。
ところどころに残る車輪の跡。
圭太はそれを辿った。
歩きながら、頭は自然に整理を始めていた。
・場所は日本ではない可能性が高い
・事故か、意識喪失か、あるいは何か別の要因
・人がいる可能性は高い(道がある)
そして最も重要な結論。
人を見つけること。
森の道を十五分ほど歩いたときだった。
前方で、枝が揺れた。
圭太は立ち止まる。
獣かもしれない。
そう思った。
だが出てきたのは、人だった。
小柄な影。
少女だった。
年齢は十歳くらい。
肩までの茶色い髪。
麻のような布の服。
手には籠を持っている。
籠の中には、きのこと木の実が入っていた。
少女は圭太を見るなり、固まった。
そして、ゆっくり言った。
「……誰?」
圭太は少し安心した。
言葉が通じる。
少なくとも、意味は理解できる。
発音は微妙に違う気がするが、問題はない。
圭太は答えた。
「それはこっちも聞きたい」
少女は瞬きをした。
圭太は続けた。
「ここはどこ?」
少女は首を傾げた。
「森」
それはそうだ。
圭太は苦笑した。
「いや、そうじゃなくて」
少し言葉を探す。
「町とか、村とか」
少女は少し考えた。
そして言った。
「村ならあるよ」
圭太の胸の中で、緊張が少しほどけた。
人が住んでいる。
それだけで状況は大きく違う。
少女は圭太をじっと見ていた。
視線がスーツに向く。
ネクタイ。
革靴。
明らかにこの環境には不自然な服装だった。
少女が言う。
「その服、変」
圭太は苦笑した。
「そうだろうね」
少女はさらに近づいてきた。
恐怖より好奇心が勝っているらしい。
「旅人?」
圭太は少し考えた。
旅人ではない。
だが説明のしようもない。
「……迷子かな」
少女はあっさり言った。
「じゃあ村来ればいい」
圭太は思わず笑った。
シンプルな解決策だった。
「遠い?」
「歩けばすぐ」
少女は森の奥を指した。
「こっち」
歩きながら、少女はよく喋った。
名前はリナ。
村の子どもで、今日はきのこを取りに来ていたらしい。
「おじさん、どこから来たの?」
圭太は答えに困った。
「遠いところ」
「町?」
「もっと遠い」
少女は考えた。
そして言った。
「変な人」
圭太は笑った。
「そうかもね」
森を抜けると、景色が開けた。
畑があった。
小麦のような作物が風に揺れている。
その向こうに、小さな集落が見えた。
木の家が十数軒。
煙突から煙が上がっている。
羊が二頭。
鶏が何羽か歩いていた。
圭太は立ち止まった。
都市でも町でもない。
村だった。
そして、その村の規模を見た瞬間、圭太の頭は無意識に動き始めていた。
家の数。
畑の広さ。
人口の推定。
水源の位置。
完全に職業病だった。
少女が振り返る。
「どうしたの?」
圭太は言った。
「いや」
少し笑う。
「考えごと」
少女は首を傾げた。
「何を?」
圭太は村を見ながら答えた。
「この村、何人くらい住んでるのかなって」
少女は即答した。
「四十人くらい」
圭太は驚いた。
「正確だね」
少女は胸を張る。
「だって知ってるもん」
村に近づくと、何人かの大人がこちらを見た。
当然だった。
スーツ姿の男が森から出てくるのだから。
圭太は小さく息を吐いた。
さて。
ここからどう説明するか。
だがその時、彼の頭の片隅で別の考えが動いた。
畑の畝の作り方。
水路の位置。
干し草の積み方。
明らかに効率が悪い。
圭太は思わず苦笑した。
こんな状況でも、仕事の目で世界を見ている。
我ながら、職業病だと思った。
少女が言う。
「村長のとこ行こう」
圭太は頷いた。
「そうだね」
そして歩きながら、ふと思う。
東京では、自分は何をしていたのだろう。
企業の売上。
事業の再編。
市場戦略。
そういう話を、毎日していた。
だが今、目の前にあるのはもっと単純な問題だった。
人がどうやって生きているか。
圭太は村を見ながら、静かに息を吐いた。
そして思った。
少なくとも、ここでは。
自分の仕事は、もう少し分かりやすいかもしれない。




