第1話 乾いた四十歳
金曜の夜だった。
東京駅の八重洲口から吐き出される人の流れは、二十二時を過ぎても衰えなかった。
黒いスーツの男たちがスマートフォンを見ながら早足で歩き、タクシー乗り場には長い列ができている。ビルの谷間には、終電を逃した人間の諦めたような空気が漂っていた。
田中圭太、四十歳。
職業はコンサルタントだった。
年収は二千五百万ほど。
生活に困ることはない。住宅ローンも見通しは立っているし、娘の教育費だって、少なくとも今のところは問題ない。高めのワインを買っても、時計を一本増やしても、すぐに家計が傾くことはない。
それでも彼は、ここ数年ずっと、自分の内側が少しずつ乾いていく感覚を持っていた。
嬉しいことがあっても、うまく喜べない。
腹の立つことがあっても、本気で怒れない。
昔なら悔しいと思えた場面でも、「まあそういうものだ」と頭のどこかで処理してしまう。
感情が消えたわけではない。
ただ、薄い。
コーヒーを何度もお湯で薄めたように、輪郭だけが残っている。
その日も、クライアント先からの帰りだった。
丸の内の会議室で、午後から五時間。
地方観光の再生計画について、役員クラスと議論した。
議題は「地域価値の再定義」。
しかし実態はもっと泥臭い。
採算の合わない施設をどう扱うか。
誰の顔を立てるか。
どこまで民間に任せるか。
どこから税金を入れるか。
そういう話だった。
会議の途中で、若いメンバーが説明に詰まった。
圭太は自然に話を引き取り、論点を三つに整理し、意思決定の順番を並べ替え、役員が答えやすい形に変えた。
場は収まった。
クライアントは満足そうだった。
部下も「助かりました」と言った。
昔なら、そういう場面で少しは手応えがあった。
今はほとんどない。
ただ「問題が処理された」という事実だけが残る。
横断歩道を渡りながら、圭太はスマホを開いた。
未読メールが十七件。
チャットが二十三件。
部下からの相談。
クライアントからの追加依頼。
来週の提案資料の修正。
採用候補者の日程調整。
顧問先からの軽い問い合わせ。
会食の返信催促。
どれも火急ではない。
だが、放っておくとあとで面倒になる種類のものばかりだった。
人はよく言う。
「仕事ができる人には仕事が集まる」
あれは半分しか正しくない。
本当はこうだ。
仕事ができるように見える人間には、責任の中途半端な球が全部飛んでくる。
判断してほしいが責任は取りたくない。
そういう案件が最終的に彼のところへ落ちてくる。
長年それを捌いているうちに、圭太はずいぶん器用になった。
器用になりすぎた、とも言える。
自宅は世田谷の低層マンションだった。
エントランスの植栽はよく手入れされ、共用部も静かだ。高級すぎず、安っぽくもない。圭太はこういう「見栄と実利の中間」にあるものを選ぶのが昔から上手かった。
玄関を開けると、リビングの灯りがついていた。
「おかえり」
妻の美咲がキッチンから顔を出した。
「ただいま」
それだけだった。
仲は悪くない。
むしろ世間的には、うまくやっている夫婦かもしれない。喧嘩も少ないし、露骨に不機嫌をぶつけることもない。
ただ、没交渉だった。
昔はもう少し喋っていた気がする。
子どもが生まれる前。あるいは生まれてしばらくの間までは、他愛のない雑談もあった。
それがいつからか、生活の会話だけになった。
明日の習い事。
学校の提出物。
どちらが何時に帰るか。
保険の書類。
親族への連絡。
互いに嫌っているわけではない。
ただ、何かが摩耗して、そこを埋める気力もない。
その時、奥の部屋から足音がした。
「パパ!」
娘の紗良が走ってきた。
小学三年生。
髪は寝る前の適当な結び方で、パジャマの袖が少し長い。
「まだ起きてたのか」
「起きてるよ。今日、漢字テスト百点だった」
「すごいな」
圭太はしゃがみ、娘の頭を撫でた。
柔らかい髪だった。
その瞬間だけ、胸の奥に確かな温度が灯る。
ああ、可愛いな、と思う。
間違いなく思う。
だが、その感情は長く続かない。
すぐにどこかへ沈んでいく。
昔ならもっと嬉しかった気がする。
もっと大げさに褒めていた気がする。
今は反応が穏やかすぎる。
娘はそれでも嬉しそうに笑っていた。
その笑顔に救われながら、圭太は少しだけ怖くなる。
愛情はある。だが、情動が薄い。
深夜。
家族が寝静まったあと、圭太はリビングでノートパソコンを開いていた。
メールを返す。
チャットを整理する。
来週の会議体を確認する。
作業は速かった。
体に染みついている。
相手の立場を想像し、先回りして不足を補い、余計な摩擦が起きないよう文章を整える。
誰かが明日困らないように、今のうちに不確定要素を潰しておく。
そういう仕事を彼は得意としてきた。
だが、得意であることと、好きであることは違う。
まして、向いていることと幸福であることなど、ほとんど無関係だ。
作業を終え、椅子にもたれた。
午前一時四十分。
窓に映る自分の顔は、ひどく疲れて見えた。
四十という年齢は微妙だ。
老人ではない。
だが若くもない。
身体は静かに衰え始め、気力は経験によって最適化されるかわりに、無邪気さを失う。
若い頃、コンサルタントという仕事は刺激的だった。
難しいことを考える。
大企業の経営に関わる。
賢い人たちと議論する。
お金ももらえる。
自分は社会を動かしている側なのだ、という感覚があった。
だが長く続けると、別の景色が見える。
どんな資料も、たいていは誰かに都合のいい物語だ。
どんな改革も、最後は人間関係で歪む。
どんな優秀な役員も、感情と保身から自由ではない。
そして自分もまた、その構造の一部に過ぎない。
若い頃は「社会を動かす側」だと思っていた。
四十になると分かる。
自分もまた、大きな疲労の回路の一部なのだ。
そのとき、ふっと視界が揺れた。
疲れだろうと思った。
だが次の瞬間、足元が崩れた。
椅子が倒れる音。
床。
暗転。
気がついたとき。
圭太は、森の中に立っていた。




