第6話 能力の片鱗
翌日、高く澄み渡った青空とは裏腹に、私の心は落ち着かないまま激しく波打っていた。
「……本当によろしいのでしょうか。私が、このような……」
用意された豪奢な馬車の中で、私は自分の身を包む衣服を見下ろして小さく震えた。昨日仕立て屋が持ち込んだ、深い群青色のビロードのドレス。滑らかな生地は私の荒れた肌には不釣り合いなほど上質で、実家で着ていた継ぎ接ぎだらけのボロ布とは比べ物にならない。
向かいの席には、漆黒の外套を纏った当主、ギルベルトが静かに目を閉じて座っている。
「不要な口を開くな。お前はただ、私の傍にいればいい」
彼の言葉はいつも通り冷たく、取り付く島もない。今回の外出の名目は、生活に必要な物資の調達と、侯爵家として領民の生活を視察することだった 。
しかし、彼の本音は全く別のところにあった 。
(屋敷の中という閉鎖空間だけでなく、外の雑踏の中でも、この女が傍にいれば呪いの痛みは静まるのか――)
ギルベルトは外套の下で密かに拳を握りしめていた。昨日から彼の身体を蝕む激痛は、エルサが視界に入る距離にいるだけで、嘘のように鳴りを潜めている。それが環境のせいではない本物かどうか、どうしても確かめずにはいられなかったのだ 。
やがて馬車が領都の石畳を踏む音が変わり、賑やかな街の喧騒が外から聞こえてきた。
辺境とはいえ、侯爵家の領都は活気に満ちている。しかし、馬車が中央広場に停車し、護衛の騎士が扉を開けてギルベルトが外に降り立った瞬間――。
街の空気が、まるで魔法にかけられたように一変した 。
「……っ、当主様だ」
「道を空けろ、頭を下げろ! 目を合わせるな!」
先ほどまで笑顔で果物を売っていた商人も、走り回っていた子供たちも、弾かれたように道の両端へと退き、深く深く頭を垂れた。彼らの態度から伝わってくるのは、領主に対する敬意だけではない。それ以上に色濃く滲んでいるのは、絶対的な『恐れ』だった 。
誰もギルベルトに近づこうとはしない 。
呪われた当主。触れれば死ぬ、あるいは正気を失う化け物。領民たちもまた、その恐ろしい噂と、過去に何人もの人間が倒れていった事実を知り尽くしているのだ。
遅れて馬車から降りた私は、その異様なまでの拒絶の空気に息を呑んだ。
(ああ……怖いんだわ。皆、旦那様のことが……)
そして同時に、自分のような薄汚れた娘が、畏れ多い当主の隣に並び立っていることへの猛烈な罪悪感が込み上げてきた。実家で植え付けられた「身の程を知れ」という呪いが、私の足を竦ませる。
私なんかが、彼の隣を歩いてはいけない。領民の皆様の目障りになってしまう。罰を与えられる前に、隠れなければ。
私は反射的に、ギルベルトから距離を取るように半歩、後ろへ下がろうとした 。
だが、私の足が後ろに下がるより早く。
「あっ……」
強い力で、ドレスの袖口をガシッと掴まれた 。
見上げると、ギルベルトが鋭い視線で私を射抜いていた。
「下がるな」
低く、地を這うような声。
「私のそばにいろ」
その言葉は、有無を言わさぬ絶対的な命令だった 。しかし、袖を掴む彼の手の力強さの奥底には、まるで迷子が母親の服の裾を握りしめるような、ひどく不器用で『切実な響き』が孕んでいるように感じられた。
彼は、私が離れることを恐れている? まさか、そんなはずはないのに。
それでも私は小さく頷き、「……はい」と答えて、言われるままに彼のすぐ隣を歩き始めた 。
私が隣に並んだのを確認すると、ギルベルトの険しかった表情がわずかに緩んだ 。
(……間違いない。外の空気の中にあっても、痛みが薄い)
彼の体内を絶えず切り刻んでいた呪いの棘が、エルサの放つ見えない温かな膜のようなものに包まれ、完全に無力化されている。ギルベルトは、生まれて初めて味わう『痛みの一切ない穏やかな世界』を噛み締めるように、ゆっくりと街を歩き進めた。
しかし、その束の間の平穏は、突如として破られることとなる。
視察の途中、人通りの少ない町外れの路地へ差し掛かった時だった 。
「ゲホッ……! な、なんだ、息が……っ」
「ぐぁっ……目が、目が痛い……!」
異変は唐突に起きた 。路地の奥、古びた石壁の一部から、黒く濁った霧のようなものが噴き出していたのだ。
結界のほころびから漏れ出した『瘴気』だった 。
不意にその瘴気にあてられた通行人たちが、次々と喉をかきむしりながら激しく咳き込み、その場にバタバタと倒れ込み始めた 。
「な、何事だ!」
護衛の騎士たちが剣を抜いて前へ出る。だが、事態はそれだけでは終わらなかった。
「グルルルルル……ッ!」
腐肉のような悪臭と共に、瘴気の濃い霧の中から、それに引き寄せられるようにして異形の姿をした獣じみた巨大な魔物が姿を現したのだ 。
赤く濁った眼、涎を垂らす鋭い牙。体長は優に熊の二倍はある。
「ひぃぃっ! 魔物だ、逃げろ!」
パニックに陥った人々が悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。護衛の騎士たちが陣形を組んで駆け出そうとするが、魔物の標的は彼らではなかった。
「えっ……ああっ!」
路地の奥で、逃げ遅れた小さな男の子が石畳に足を取られて派手に転んでしまったのだ 。
「お母さぁぁんっ!」
泣き叫ぶ男の子に向かって、魔物が巨大な顎を開いて飛びかかろうとする。
「チッ……!」
ギルベルトは反射的に前へ出た 。
彼がその気になれば、己に宿る強大な力を使って、あんな魔物の一匹や二匹、瞬時に斬り伏せることは容易い 。
だが、彼の力は純粋な『破壊』の系統だった 。
力の発動の度、彼の身に宿る呪いが爆発的に強く周囲へ滲み出してしまうのだ 。今ここで彼が力を使えば、魔物を倒せたとしても、近くに倒れている領民たちや、背後にいるエルサまでもが呪いの直撃を受け、完全に『壊れて』しまう危険がある 。
(どうする……!)
被害を最小限に抑えるためにはどうすればいいか。その逡巡が、彼の中にほんの一瞬だけ致命的な『躊躇』を生ませた 。
そのわずかな隙を突き、魔物が鋭い爪を振り上げ、転んだ子どもへ向かって完全に跳躍した 。
間に合わない。誰もがそう思い、絶望に目を閉じた。
その瞬間。
「だめ……!」
私の身体は、恐怖に足がすくむはずの状況で、思考を置き去りにして、守らなければという衝動だけで勝手に前へと飛び出していた 。
頭で考えるより先に、私の身体は弾かれたように石畳を蹴っていた。
実家で虐げられ続け、常に「目立たないこと」「息を潜めること」だけを生存戦略としてきた私が、凶悪な魔物の前へ自ら飛び出すなど、正気の沙汰ではない。恐怖で両足はガタガタと震え、心臓は破裂しそうなほど警鐘を鳴らしている。
それでも、路地の奥で転び、絶望的な悲鳴を上げる幼い子どもの姿が、かつて暗い物置部屋で誰の助けも得られずに泣き叫んでいた自分自身と重なって見えたのだ。
(守らなくちゃ……!)
私の胸のずっと奥深く、自分でも存在を知らなかった『何か』が、ふつりと音を立ててほどけたような感覚があった。
次の瞬間、私の足元から、薄氷のように透明で、それでいてどこまでも温かい、不思議な光の膜が波紋のように広がっていった。
「な……っ!?」
背後で、護衛の騎士たちが驚愕に息を呑む声が聞こえた。
私を中心にドーム状に展開されたその光の結界は、瞬く間に路地全体を覆い尽くした。
空気をドロドロに汚染していた黒い瘴気が、光の膜に触れた途端にシュウゥゥと音を立てて浄化され、朝の澄んだ空気へと還っていく。
そして、子どもに飛びかかっていた巨大な魔物は、目に見えない強固な壁に激突したかのように「ギャウッ!」と短い悲鳴を上げ、無様に石畳の上へと弾き飛ばされた。
魔物の動きが、目に見えて鈍る。結界の中では、あの悍ましい魔力さえもが封じ込められているようだった。
それだけではない。路地の隅で瘴気にあてられ、喉をかきむしって倒れかけていた領民たちの激しい咳が、嘘のようにピタリと収まっていったのだ。苦痛に歪んでいた彼らの顔に血の気が戻り、荒い呼吸が次第に落ち着いていく。
「い、今のうちに……! 坊主、こっちへ!」
私が無意識に作り出した結界が魔物を足止めしているわずかな隙を突き、護衛の騎士が駆け込み、へたり込んでいた男の子を安全な場所へと引きずり出した。
しかし、この異様な光景の中で、誰よりも決定的な衝撃を受けていたのは、当主であるギルベルトだった。
(……痛みが、消えた?)
ギルベルトは、自分の身体に起きている信じられない現象に、完全に思考を停止させていた。
先ほどまで、彼の体内では常に『呪い』が暴れ回り、骨を削り、神経を焼くような鈍い痛みが絶え間なく続いていた。それが彼の日常であり、生まれながらに背負わされた業だった。
エルサが傍にいる時、その痛みは確かに『薄れて』はいた。
だが、今は違う。
彼女の足元からこの透明な光の膜が広がった瞬間、彼の体内を蝕んでいた禍々しい呪いの気配が、文字通り『完全に消滅』したのだ。
痛みが一切ない。身体が羽のように軽く、息を吸うだけで清浄な空気が肺の隅々まで満たされる。
こんな感覚は、彼が物心ついてからただの一度も味わったことのない、奇跡のような静寂だった。
(この女は……ただ呪いに耐性があるだけではない。俺の呪いそのものを、この結界で完全に抑え込んでいる……!)
ギルベルトの切れ長の瞳が、かつてないほどの鋭い光を放った。
「退がれ!」
地を這うような号令と共に、ギルベルトが前へ出る。
子どもが安全圏へ退避したのを確認した彼は、腰に帯びた長剣を抜き放ち、再び立ち上がろうとする魔物へ向かって踏み込んだ。
「グルァァァァッ!」
「……消えろ」
ギルベルトの剣閃は、一筋の黒い雷だった。
本来、彼が己の『破壊』の力を行使すれば、その強大な魔力に引っ張られる形で呪いが暴走し、周囲にいる人間たちにも致命的な悪影響を及ぼしてしまう。
しかし今、彼は躊躇なく力を使った。
黒い魔力を纏った剣が、魔物の分厚い装甲を紙のように切り裂き、一撃でその命を刈り取る。断末魔の叫びと共に、魔物は黒い灰となって霧散した。
強大な破壊の力を行使したにもかかわらず、周囲にいる領民たちは誰一人として倒れない。呪いの瘴気が全く漏れ出していないのだ。
暴走するはずの彼の呪いは、エルサが展開している光の膜の中で、優しく、そして完全に包み込まれ、霧散していた。
「あ……」
事態が収束し、路地に静寂が戻った瞬間。
私の身体から力が抜け、張り詰めていた光の結界がパチンと弾けるように消滅した。
ドサリと石畳の上にへたり込み、私はガタガタと震える両手を胸の前で強く握りしめた。
自分が何をしたのか、全く理解できていなかった。
ただ「守りたい」と願っただけだ。それなのに、世界が私の感情に勝手に反応し、あんな光を放ってしまった。
実家では、少しでも目立つことをすれば「気味が悪い」「生意気だ」と激しい暴力を振るわれた。ましてや、領民や、絶対的な力を持つ当主様の前で、こんな得体の知れない真似をしてしまったのだ。
必ず罰が下る。このお出かけを台無しにした罪で、今度こそこの屋敷から追い出されるに違いない。
「ご、めんなさ……」
足音を立てて近づいてくる黒いブーツのつま先を見て、私は反射的に身をすくませ、床に額を擦り付けるようにして謝罪の言葉を口にしかけた。
しかし、私の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
ギリッ、と骨が鳴るほど強い力で、私の細い手首が掴まれたからだ。
「……っ!」
見上げると、そこにはギルベルトがいた。
彼に手首を掴み上げられ、私は無理やり立たされる形になる。
彼から発せられる空気は、いつもの冷徹なものとは全く異なっていた。彼の端正な顔立ちはひどく強張り、息はわずかに荒く、私を射抜くような漆黒の瞳の奥には、確信と、そして得体の知れない『恐怖』が入り混じったような、酷く切実な感情が渦巻いていた。
「謝るな」
ギルベルトの声は、地鳴りのように低く、そしてかすかに震えていた。
それは怒りではない。
長年、自分を怪物へと貶めてきた絶対に解けないはずの絶望の鎖を、目の前のひ弱な令嬢が、いともたやすく断ち切ってしまったことに対する、根源的な畏怖と執着の声だった。
彼は私の手首を決して離さないまま、逃げ場を塞ぐように一歩距離を詰め、その問いを突きつけた。
「お前は……」
周囲の喧騒が、遠くへフェードアウトしていく。
ギルベルトの目は、まるで命綱にすがる遭難者のように、私だけを真っ直ぐに捕らえていた。
「お前は……俺の呪いを、消せるのか?」




