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第5話 溺愛の始まり

 当主ギルベルト・ヴォルガードは、寝台の上で丸くなり、声を殺して泣きじゃくるエルサの涙が止まるまで、その部屋から一歩も動くことができなかった 。

 泣き声に苛立ったからではない 。自身の胸の奥底に唐突に湧き上がった、名前のつかない厄介な感情が、泥のように重くまとわりついて離れなかったからだ 。


 彼は、自分の身体に起きている決定的な異変に気づいてしまっていた 。

 彼女がすぐ近くにいると、常に彼の身体の内側から刃で切り刻むように蝕んでいた“呪いの痛み”が、嘘のように薄れていくのだ 。

 決して偶然ではない 。先ほど、冷たい水たまりの中で意識を失った彼女を抱き上げた瞬間、確実に呪いの激痛は引いていた 。


(俺の呪いが、この女の傍では鳴りを潜めている……。いや、それどころか……)


 ギルベルトは、無意識のうちに自分の胸ぐらを強く握りしめた。呪いの痛みが消えた代わりに、彼女のひび割れた手や、痩せこけた背中の痛ましい痣を思い出すたび、別の正体不明の痛みが心臓を鷲掴みにする。


 翌朝。

 ギルベルトは執事のセバスチャンを自室に呼び出し、冷徹な仮面を被ったまま淡々と、しかし矢継ぎ早に指示を重ねた 。


「エルサの食事は、医師の指示通りに消化に良く栄養のあるものだけを整えろ 」


「は……。しかし、奥様は賄いで十分だと……」


「黙って私の言う通りにしろ。それから、客室の寝具は最高級の布団に替えろ 。部屋の場所もだ。あんな隙間風の入る北の外れではなく、屋敷の中心に近い、日当たりの良い南の部屋へ移す 」


「なっ……」


 完璧な執事であるセバスチャンが、驚愕に目を見開いた。


 だが、ギルベルトの指示は止まらない。


「彼女には専属の侍女を一人付けろ 。さらに、王都から一番腕の立つ仕立て屋を呼び、彼女の痩せた体に合う着物を数着、至急で用意させろ 」


 口ぶりこそいつもの絶対的な命令だが、その内容は明確に彼女を「回復させる」ため、そして二度と自分の手元から「失わせない」ための、執着に満ちた徹底的な“囲い込み”だった 。


 一方、新しい南の部屋に移されたエルサは、深い戸惑いと恐怖のどん底に突き落とされていた 。


(どうして……? 倒れてしまったのに、実家に送り返されないの……?)


 運び込まれた銀のトレイには、温かく湯気を立てる柔らかな白パンと、肉や野菜がたっぷりと煮込まれた黄金色のスープが乗せられている。

 しかし、私はその新しい食事に手を伸ばすことができなかった 。

 実家では、少しでも良いものを口にしようとすれば「泥棒猫」と罵られ、丸三日食事を抜かれる罰が待っていたのだ。


 さらに、専属だという侍女が、肌触りの良い真新しいドレスを何着も抱えて部屋にやってきた。


「奥様、旦那様からの贈り物でございます。どれかお召しになってみては……」


「ひっ……!」


 私は反射的に後ずさり、「私には、過ぎます……っ」と震える声で拒みかけた 。


 優しくされることに慣れていない私の身体は、このような分不相応な『贅沢』を目の前にすると、それがこの後に続く凄惨な『罰』の前触れだと、本能で反射してしまうのだ 。


「お、お願いです……元の、あの作業着を返してください……! 私、まだ床磨きが残って……」


「エルサ」


 部屋の入り口から、低く響く声が落ちた。

 ギルベルトだった。彼は、怯えて部屋の隅で膝を抱える私を見て、不快そうに眉をひそめた。


 ギルベルトは、私のその異常な反射的恐怖が気に入らなかった 。

 もちろん、それが彼女自身のせいではないことは痛いほど分かっている 。だからこそ、彼女にそんなトラウマを植え付けたバルトフェルト家の者たちに対するどす黒い怒りが、別の方向へと向かって激しく燃え上がっていたのだ 。


 だが、長年孤独を貫いてきた当主は、怯える小鳥を“慰める甘い言葉”など持ち合わせてはいなかった 。

 代わりに彼は、屋敷の者と私自身に対し、絶対的なルールの『線引き』として重々しく告げた 。


「よく聞け。ここでは私の許可なく、お前を叱ることは誰にも許さない。絶対にお前に手を出させない 」


 それは同席していた侍女たちを震え上がらせるほどの、強烈な威圧を伴った宣言だった。そして彼は、真っ直ぐに私を見据えて続けた。


「お前自身もだ、エルサ。二度と自分を罰するな 。目の前にあるものを食え 。温かい寝台で休め 。そして……二度と、私の前で倒れるな 」


 私は、ただ小さく頷くことしかできなかった 。

 彼の言葉は絶対的な命令の形をしているのに、その実、私をあらゆる外敵と、私自身の自己否定から力強く守り抜こうとしている 。

 その不器用すぎる優しさに理解が追いつかず、私の胸は壊れそうなほどに苦しく、熱く締め付けられていた 。


 その日の午後。

 静まり返った南の客室で、当主ギルベルトは確かめるように彼女へ触れた 。


「……少し、動くな」


 寝台の端に腰掛けたエルサがビクッと肩を跳ねさせるのを視界の端に捉えながら、彼は無造作に、しかしひどく慎重な手つきで、彼女の細すぎる手首を取った 。


 ほんの短い、脈を測るだけの些細な接触 。

 しかし、その短い接触が、ギルベルトの長年の常識を決定的に打ち砕いた。


(やはり……来ない)


 他者に触れた瞬間に襲いかかってくるはずの、あの呪いの鋭い痛みが来ないどころか、彼の内側で渦巻いていた禍々しい冷気までもが、さらに深く静まり返っていくのを感じたのだ 。

 間違いない。この女は、俺の呪いを中和している。

 その確信が深まれば深まるほど、ギルベルトの整った顔立ちは、安堵や喜びではなく、まるで死刑宣告を受けたかのように険しく硬く強張っていった 。


 彼の中に生まれたのは、底知れぬ恐怖だった。

 もし、この心地よい静寂を知ってしまった後に、彼女がこの屋敷から離れてしまったら、自分はあの狂おしい呪いの痛みに再び耐えられるだろうか 。

 もし、自分の呪いがいつか彼女のこの不思議な耐性を上回り、彼女を壊してしまったら、それは完全に自分のせいになるのではないか 。

 長年、他者を遠ざけることで自分を保ってきた男にとって、誰かに「生殺与奪のすべて」を握られてしまうことは、かつてないほどの恐怖だったのだ。


 ギルベルトは、逃げるようにエルサの手首を離すと、足早に部屋を後にした。

 廊下に出るなり、待ち構えていた執事のセバスチャンを冷たい眼差しで射抜く。


「セバスチャン。王都のバルトフェルト伯爵家の情報を、裏から徹底的に洗い出せ」


 地を這うような、絶対的な当主としての低い声だった。


「あの女の身体に残る虐げられていた無数の痕跡、婚約破棄に至った詳細な経緯、そして……なぜ伯爵家の長女でありながら、あそこまでボロ雑巾のように放置されていたのか。すべてだ」


「御意に。すぐに影の者を走らせます」


 さらに、ギルベルトは屋敷内にも冷酷な釘を刺した。


「エルサに関する噂は、いかなる些細な事であれ、絶対に屋敷の外へ漏らすな。特に――彼女の傍で『俺の呪いが静まった』などという呪いに関わる情報は厳禁だ。漏らした者は、俺がこの手で直接処分する」


 もし彼女が“呪いの治療薬”として王家や他国の貴族に嗅ぎつけられた瞬間、間違いなく彼女は政治の道具として奪われる。彼女を守るためには、完璧な情報統制が必要だった。


 その日の夜。

 エルサは、専属の侍女によって真新しい上質な着物を着せられ、姿見の鏡の前で一人、力なく立ち尽くしていた 。


(どうして、こんな……)


 鏡に映っているのは、艶やかな絹の布を纏った、見知らぬ令嬢の姿だった。

 自分がこんな“まともな布”を、それも侯爵家が用意した最高級の品を纏っていることが現実味を持たず、彼女の胸にはどす黒い罪悪感ばかりが込み上げてくる 。

 実家では、少しでも綺麗な布切れを持っていれば、義妹のセリナに「泥棒!」と叫ばれ、継母から髪を掴んで引きずり回された。

 私には、こんなものを着る資格なんてない。贅沢は、恐ろしい罰の前触れでしかないのだから 。


「脱がなきゃ……怒られる前に、早く……っ」


 震える指で帯に手をかけようとした、その時だった。


「……何をしている」


 扉が開く音と共に、ギルベルトが部屋に入ってきた 。

 彼は、鏡の前で美しい着物を纏って立ちすくむエルサの姿を目にした瞬間、言葉を失ったように一瞬だけ動きを止めた。

 痩せこけてはいるものの、上質な布に包まれた彼女は、彼がこれまで見てきたどんな貴族の令嬢よりも目を引く、儚くも透き通るような美しさを秘めていたのだ。


 しかし、ギルベルトはすぐにその動揺を隠し、わざとらしく視線を逸らしながら、ひどく硬い声で言い放った 。


「明日、外へ出る。領都で生活に必要なものを揃える。……お前も来い」 。


 それは有無を言わさぬ命令に見えたが、彼の本音は全く別のところにあった。

 屋敷の中だけでなく、外の環境でも、彼女が傍にいれば呪いの痛みは静まるのか――それを確かめたいという理由 。

 そして何より、自分に怯え、常に「返品」される恐怖に震えている彼女を、もう二度と“試用期間の返品前提”の枠に戻したくなかったのだ 。

 外の世界を見せ、自分が彼女を手放す気がないことを、行動で叩き込むために。


「お、お出かけ……ですか? 私が、ご一緒に……?」


「そうだ。支度をしておけ。倒れるなよ」


 それだけを一方的に告げると、ギルベルトは逃げるように背を向けた。


 扉の前で足を止め、彼は自分の胸の奥で暴れ回る独占欲を持て余すように、誰に聞かせるでもなく、独り言のように低く呟いた 。


「……解消金だろうが慰謝料だろうが、幾らでも払ってやる。だが――お前だけは、絶対に返さない」


 その言葉に込められた執着の深さを、部屋に取り残されたエルサはまだ、知る由もなかった。

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