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第4話 初めての謝罪

「……エルサ。エルサ・バルトフェルトと申します」


 凍てつくような冷気の中で名を問われ、私はひび割れた唇を震わせながら短く名乗った 。

 当主ギルベルトは、その『エルサ』という響きを一度だけ口の中で静かに反芻し、ふいっとすぐに視線を外した 。彼が私に情けをかけたわけではないのだと、自分自身に言い聞かせるかのように、意図的に作られた冷酷な横顔だった。


「勝手に動くな。……そして、倒れるな」


 ただそれだけを命令として残し、彼は翻る漆黒のマントと共に廊下の奥へと去っていった 。

 残された私は、その言葉の意味を必死に頭の中で噛み砕いていた。

 実家での経験が、私の思考を極端な生存本能へと結びつける。


(倒れるな、勝手に動くな……。つまり、それが私がここにいてもいい『条件』なんだわ)


 私は彼の命令を、この屋敷での滞在を許されるための絶対条件だと受け止めた 。倒れて役に立たなくなれば、即座に実家へ送り返される。あの地獄へ逆戻りすることだけは、絶対に避けなければならない。


 一方、屋敷の者たちはギルベルトのその命令を、別の意味で解釈していた。


「旦那様も、結局はいつものように『期限付きの滞在』として扱っておられるのね」

「ええ。どうせあの令嬢も、じきに呪いに耐えきれずに壊れるわ」


 使用人たちはそう囁き合い、呪いの巻き添えになるのを恐れるように、私に対して明確な距離を取るようになった 。


 孤立無援の冷たい屋敷。しかし、私にとっては実家での執拗なイジメや暴力がない分、まだ呼吸がしやすかった。


『働けば、ここにいる存在を許される。役に立てば、捨てられない』


 実家の底辺で長年かけて骨の髄まで刷り込まれたその強迫観念の癖のまま、私はさらに労働にのめり込んでいった 。

 与えられた仕事だけでは足りない。誰かに「もう十分だ」と言われても、恐怖が背中を押して止まらないのだ。私は使用人たちが嫌がる水汲みや、凍えるような冷水での裏庭の洗濯など、頼まれてもいない過酷な仕事まで次々と抱え込み、休むことを一切自分に許さなかった 。


 食事もろくにとらず、睡眠も削り、ただひたすらに手を動かす。

 手が霜焼けでひび割れ、血が滲んでも、実家で継母から鞭で打たれる痛みに比べればなんてことはない。私は自分の身体が悲鳴を上げていることすら、無意識のうちに無視し続けていた。


 しかし、この屋敷の真の恐ろしさは過酷な労働ではない。

 当主ギルベルトの身から絶えず発せられる『呪い』は、屋敷の空気そのものに毒のように潜み、影響を及ぼし続けていた 。

 彼が廊下を歩いて近づいてくるだけで、近くにいた使用人が突如として激しく咳き込み、顔色を土気色に悪くしてうずくまる場面が日常茶飯事のように起きるのだ 。


 当然、私も例外ではない。彼が視界に入る距離に現れるだけで、鋭い氷の針で全身の皮膚を刺されるような、肺の空気が凍りつくような強い冷気の感覚を覚える 。

 ……けれど、私は倒れなかった 。

 息苦しさに胸を押さえ、足元がふらつくことはあっても、決して意識を手放すことはない。


 それが、ギルベルトの心を激しくかき乱していることを、私は知る由もなかった。

 遠くから密かに私の姿を監視していた彼は、眉間を深く寄せていた。

 これまで、彼が放つ呪いの圧に当てられた人間は皆、一様に倒れ、あるいは正気を失ってきた。しかし、私が“本来なら完全に壊れるはずの距離”にいても壊れないという異常な事態は、当主である彼の心に得体の知れない不安を煽っていたのだ 。


『この女が壊れないのなら、ずっと傍に置けるのではないか』


 そんな、彼が長年諦めていた淡い希望。


『しかし、今は耐えられていても、このまま屋敷に置き続ければ、いずれ俺の呪いが彼女を完全に壊してしまうのではないか』


 一方の深い恐怖。

 相反する二つの矛盾した感情が、彼の胸の奥でどす黒く膨らみ続けていた 。


 そして、限界は唐突に訪れた。


 昼過ぎのことだった。

 私は裏庭の井戸から、両手でようやく抱えられるほどの重い水桶を運び、屋敷の長い廊下を歩いていた 。


「あと少し……これを厨房に運べば……」


 自分を励ますようにつぶやいた瞬間、ふっと、視界の端が白く滲んだ 。


(え……?)


 瞬きをしても、白い靄は晴れない。それどころか、足の裏の感覚がふっと消え失せた。

 実家での長年の虐待による慢性的な栄養失調。それに加えて、この数日間の睡眠不足と極度の緊張。私の身体には、すでに致死量に近いほどの『無理』だけが積み上がっていたのだ 。


「あ……」


 指先から力が抜け、重い桶が傾く 。

 ガシャン!という大きな音と共に、冷たい水が石造りの床に勢いよく広がる 。

 それを呆然と見下ろした次の瞬間、私の両膝は糸の切れた操り人形のようにガクリと折れ、冷たい水たまりの中へと崩れ落ちた 。


「奥様!」


 近くにいた使用人が悲鳴のような声を上げ、反射的に駆け寄ろうとする。しかし、呪いに当てられて倒れたのかもしれない私に直接触れていいものか、彼らは恐怖で躊躇して立ちすくんでしまった 。


 薄れゆく意識の中、ひんやりとした床の感触だけが頬に伝わってくる。

 

―—ああ、約束を破ってしまった。倒れるなと言われていたのに。これで私は、不良品として実家に送り返される。


 絶望で目の前が真っ暗になりかけたその時。


「どけ」


 凍てつくような、しかしどこか切羽詰まったような低い声が響き、使用人たちの群れを割って、漆黒の影――当主ギルベルトが姿を現した 。


 凍てつくような、しかしどこか切羽詰まった低い声が響いた。

 使用人たちの群れがモーゼの十戒のように割れ、そこへ漆黒の外套を翻した当主ギルベルトが姿を現した。


 彼は、床に倒れ伏し、こぼれた冷たい水たまりの中に沈んでいる私の姿を認めるなり、一切の躊躇なく歩み寄ってきた。

 周囲の使用人たちが、ヒッと短い悲鳴を上げて息を呑む 。

 無理もない。この屋敷の絶対的な常識として、当主が誰かを長くその腕に抱えれば、相手は呪いの直撃を受けて完全に『壊れて』しまうからだ 。


 ギルベルト自身も、その残酷な事実を誰よりも理解していたはずだった 。

 だが彼は、迷いなく膝をつき、冷え切った私の身体を軽々と抱き上げた 。


(あ……怒られる、打たれる……)


 薄れゆく意識の中で、私は反射的に身を強張らせた。実家では、倒れることは「怠慢」であり、重い鞭打ちの罰を意味していたからだ。


 しかし、ギルベルトの腕に抱き上げられた瞬間。

 私の身体を襲うはずだった呪いの冷たい痛みは、微塵も感じられなかった。それどころか、彼の腕の中で私の苦しい呼吸は嘘のように落ち着いていったのだ 。


 一方、ギルベルトの内心は、かつてないほどの激しい衝撃に見舞われていた。

 彼が他者に触れた瞬間に走るはずの、相手を蝕み、彼自身をも内側から引き裂くような『呪いの冷たい痛み』が、自身の体内から急速に薄れていくのを感じたのだ 。

 まるで、長年彼を縛り付けていた呪いの鋭い棘が、彼女に触れた途端に丸く鈍ってしまったかのように 。


(馬鹿な。俺の呪いが……引いているのか?)


 ギルベルトは目を見開いた。彼女を抱きしめる腕の力を、無意識のうちに少しだけ強める。温かい。彼女の細い身体から伝わる微かな体温が、彼自身の凍てついた心を溶かすように伝わってくる。


「急ぎ、医師を呼べ! 私の部屋の近くの客室を開けろ!」


 怒声にも似た当主の叫びに、屋敷中が弾かれたように動き出した。



 ふかふかとした、雲のように柔らかい感触。

 鼻先をくすぐる、微かな薬草の香り。

 私が重い瞼を押し上げると、そこは見たこともないほど豪奢で、温かい灯りに包まれた客室の寝台だった 。上質な羽毛の布団が、私の身体を優しく包み込んでいる 。


(……ここは?)


 記憶が混濁している。水桶を運んでいて、途中で意識が途切れて……。

 その事実を認識した瞬間、私の身体は、恐怖という名の反射でビクンと激しく硬直した 。


 罰が来る。

 こんな贅沢で温かい場所を与えられるなんて、絶対にあり得ない。実家での経験が、私の脳に危険信号を鳴らしていた。これは、次に与えられる凄惨な罰の前の「一時的な気まぐれ」だ。早く起き上がって、謝って、床に這いつくばらなければ、殺される。


「ご、めんなさ……っ」


 眩暈に襲われる頭を無理やり振り立て、私は寝台から転がり落ちるようにして起き上がろうとした 。


「動くな」


 不意に、枕元から低く硬い声が降ってきた 。

 ギルベルトだった。彼は腕を組み、彫像のように静かに寝台の脇に座っていたのだ。

 私はその声を「お前のような底辺の女が、勝手に動くことは許さない」という叱責だと思い込み 、ブルブルと肩を震わせてシーツを握りしめた。


「申し訳、ありません……すぐに、掃除に、戻りま……っ」


 しかし、私の震える言葉を遮るように、彼から紡がれたのは、全く予想だにしない言葉だった。


「……すまない」


 時が、止まったかと思った。

 ポツリと、絞り出すようにこぼれ落ちたその一言 。

 当主が、それもあの絶対的な力を持つギルベルトが誰かに謝罪するなど、この屋敷の長年仕える者ですら一度も見たことがない光景だった 。


 私は、その言葉の意味が全く理解できず、ただ呆然と彼を見つめ返した 。


 少し時間を遡る。

 私が運び込まれた後、呼ばれた医師の診立ては『呪い』によるものではなかった 。極度の疲労と、長期にわたる深刻な栄養失調 。

 それに加えて、医師は私の腕や背中に無数に残る、悍ましい古い痣の痕を彼に報告したのだ 。

 それは言うまでもなく、この屋敷に来る前から――実家で長年刻み込まれ続けてきた、暴力の痕跡だった 。


 その報告を聞いた後、ギルベルトは無言で拳を強く握りしめ、執事のセバスチャンに低い声で命じていた。


「彼女に最も栄養のある食事を用意しろ。薬湯もだ。……そして、この怪我のことは誰にも口を滑らせるな」


 自分が無理をさせて倒れさせたのではない。彼女は、ここへ来るずっと前から、生き地獄の中で一人で壊れかけていたのだ。その事実が、ギルベルトの胸を正体不明の痛みで締め付けていた。


「すまない」

 もう一度、彼が言った。


 その瞬間。

 私の瞳から、自分でも制御できないほどの大粒の涙が、ボロボロと溢れ出した 。


 痛くされても、冷水を浴びせられても、食事を奪われても、決して泣かなかった。泣けば余計に殴られるからだ。

 けれど、生まれて初めて「謝られた」こと。誰かが私の痛みを認め、理不尽ではない言葉をかけてくれたこと。

 謝罪されたことがない私の人生において、その不器用な優しさは、どんな鋭い痛みよりも先に、凍りついていた胸の奥を粉々に壊した 。


「あ……う、ぁ……っ」


 声を殺そうと必死に唇を噛んでも、しゃくり上げる声が止まらない 。

 温かい布団を握りしめた指が、白くなるほどに震えていた 。


 ギルベルトは、まるで迷子になった子供のように声を殺して泣きじゃくる私を前に、完全に言葉を失っていた 。

 彼の手が微かに動き、私の頭を撫でようとして、呪いを恐れて空中でピタリと止まる。


 しかし、彼はそこで初めて、確信に近い『違和感』を覚えた 。

 いつもなら暴れ狂うはずの自分の中の呪いが、泣いている彼女の傍では、まるで凪いだ海のように静まり返っているのだ 。


 ギルベルトは、信じられないものを見るような目で自らの手を見つめ、やがて、息を吐き出すように静かに呟いた。


「……お前がいると、痛みが引く。なぜだ」


 それは、呪縛に囚われ続けた孤独な王が、初めて見つけた「一筋の光」に対する、戸惑いと切実な問いかけだった。

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