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第3話 逃げない令嬢

 

「帰れ。解消金は払う。王都への護送も付ける」


 ”化け物”侯爵、ギルベルト・ヴォルガードの言葉は、氷の刃のように冷たく、一切の感情を帯びていなかった。

 傍らに控える初老の執事セバスチャンも、それがいつもの『手続き』であるかのように即座に動きかけようとした。すぐに馬車を回し、私を王都へと送り返す手配をするために。

 彼らにとって、呪いに耐えられずに壊れていく人間をこれ以上屋敷に置かないことは、冷酷な仮面を被った安全な『保護』の提案なのだ。


 しかし、私はその場から一歩も動かなかった。

 ドレスの裾を握りしめた両手はガタガタと情けないほどに震え、歯の根が合わないほどの恐怖が全身を支配している。それでも、私は彼らの決定に、小さく、だがはっきりと首を横に振った。


「帰れません」


 その一言は、広間の重苦しい静寂を縫うように、思いのほか澄んだ音で響いた。

 セバスチャンの足がピタリと止まり、完璧なポーカーフェイスの奥で微かに目を見開くのが分かった。無理もない。これまでこの屋敷に送り込まれてきた令嬢たちは皆、ギルベルトの放つ恐ろしい呪いの気配に当てられ、泣き叫んで逃げ帰るか、泡を吹いて倒れるかのどちらかだったのだから。


 ギルベルトは、まるで感情を持たない彫像のように私を見下ろしていた。

 彼にとって、私のこの拒絶は完全に想定外だったのだろう。普通であれば、この濃密な呪いの気配に耐えきれず、泣いて縋るか、怒って喚き散らすはずだ。あるいは「この化け物!」と罵倒して逃げ出すか。

 しかし私は、彼から逃げるどころか、その場にしっかりと両足で立ち尽くし、淡々と事実だけを口にしている。


 彼が一歩、私へと距離を詰めた。

 ドクン、と心臓が激しく跳ねた。見えない冷たい手が首を絞め上げてくるような呪いの圧迫感が倍増する。肺の空気が奪われ、視界がチカチカと明滅し、指先から急速に体温が奪われていく。それでも、私は彼から目を逸らさなかった。


「……なぜ、残ろうとする」


 地を這うような、恐ろしく低い声だった。


 なぜか。理由は痛いほど明確だった。

 もし今、王都の実家へ戻ればどうなるか。

 解消金という名の莫大な金貨だけが父や継母の懐を潤し、私は「試用期間すらまともに務まらなかった不良品」として、以前よりも過酷な虐待の的になる。物置部屋に閉じ込められ、腐った水とカビの生えたパンだけを与えられ、冬の寒空の下で凍えながら床を磨く日々。そしてほとぼりが冷めた頃、今度はもっと質の悪い、例えば金だけは持っている好色な老貴族の愛人にでも売り飛ばされ、完全に使い潰されるだろう。


 私にとって『帰る』ということは、救済でもなんでもない。ただの、別の形の凄惨な『死』へのカウントダウンでしかなかった。


「ここに残れば、お前は私の呪いで壊れるかもしれないぞ」


 脅しではない。それは彼がこれまでに見てきた、残酷な真実なのだろう。

 けれど、私は正直に答えた。


「壊れても……構いません」


 広間が、水を打ったように静まり返った。


「戻るよりは……あの家に戻るよりは、ずっとましです」


 ポツリとこぼしたその言葉には、私の18年間の絶望のすべてが詰まっていた。ここに残って得体の知れない呪いに命を削られる恐怖よりも、実家という逃げ場のない地獄に戻る恐怖の方が、私にとっては遥かに絶望的で恐ろしかったのだ。


 その瞬間、ギルベルトの氷のような無表情が、初めて微かに、しかし決定的に硬直した。

 彼の瞳の奥に、どす黒い怒りのような感情が渦巻くのが見えた。

 彼は自身の呪いを忌み嫌い、他人を壊してしまう自分を呪縛して生きてきたのだ。他人を守るために、冷酷な仮面を被ってまで令嬢たちを追い返してきた。

 それなのに、目の前のちっぽけな女は「壊れてもいいからここに置け」と、自らの命を投げ出すような自己犠牲を突きつけてくる。


 彼にとって、自分から『壊されに来る』というその歪んだ覚悟は、最も受け入れがたい、神経を逆撫でするものだったに違いない。


「……ふざけるな」


 吐き捨てるような低い声。

 ギルベルトは私を睨みつけ、そして、怒りを押し殺したような声で冷たく突き放すように言った。


「勝手に死ぬな。ここに残るというのなら、私の言うことを聞け」


 それは、拒絶の形をとった許可だった。

 命令の形をした、彼なりの不器用すぎる保護。

 セバスチャンが静かに息を吐き出し、深く一礼した。彼は長年仕える当主の意図を正確に理解したのだろう。


「承知いたしました。では、最低限の客室と侍女を手配いたします」


 こうして、私はこの呪われた要塞のような屋敷に、ひとまずの『仮の居場所』を得た。

 案内されたのは、広間や当主の私室から遠く離れた、質素な客室だった。

 すれ違う屋敷の使用人たちの目は、一様に冷ややかだった。彼らの瞳が雄弁に語っている。『どうせこの花嫁も長続きしない。いずれ呪いに耐えきれずに出ていくか、壊れるだけだ』と。


 私自身、ここで侯爵家の『妻』として優雅に振る舞う発想など、微塵も持ち合わせてはいなかった。

 実家での経験が、私の骨の髄まで染み込んでいる。

 価値がない者は捨てられる。役に立たない者は、生きることを許されない。

 私がこの屋敷で生き延びるためには、自分から価値を証明するしかなかった。


「……働かなくちゃ」


 私は震える手で、唯一の持ち物である古びた鞄を開け、着慣れた粗末な作業着を引っ張り出した。

 令嬢としての矜持など、とっくの昔に実家の冷たい床に擦り付けてすり減らしてしまった。

 生き延びるための生存本能が、貴族としての体面を完全に上回っている。

 私はそっと部屋を出ると、通りかかった若い侍女を呼び止め、貴族の令嬢としてはあり得ないほど深く頭を下げた。


「あの、何でもします。私に、お役に立てることをさせてください」


「……は?奥様、何を……?」


「掃除でも、洗濯でも、厨房の雑務でも構いません。どんな重労働でも文句は言いませんから……!」


 困惑し、後ずさる侍女の顔を見て、私はさらに必死に取りすがった。

 働かなければ、居場所がなくなる。

 私はただ、自分がここに『存在してもいい理由』を、恐怖に急き立てられながら必死に探そうとしていたのだった。


「……これで、少しはお役に立てるでしょうか」


 冷たい石造りの床に膝をつき、私はひたすらに雑巾を走らせていた。

 バケツに張られた水は氷のように冷たく、ひび割れた指先から感覚を奪っていく。それでも、私の手は止まらなかった。実家から着の身着のまま持ち出した粗末な作業着の裾は泥と水で汚れ、王都の令嬢としての面影などどこにもない。


 私には、この恐ろしい屋敷で「妻」として優雅に振る舞う発想など、最初から欠落していた。

 実家で骨の髄まで刷り込まれた生存戦略。それは『価値がないなら働くしかない』という呪縛だ。

 役に立たなければ捨てられる。捨てられれば、あの地獄のような実家に連れ戻され、今度こそ命を絶たれるか、さらにひどい扱いを受ける。だから私は、令嬢としての矜持などかなぐり捨て、生き延びるための反射的な行動として、屋敷中の掃除や洗濯などの過酷な雑務を自ら引き受けていた。


 その姿に、屋敷の使用人たちは遠巻きに戸惑いの視線を向けていた。


「あの方、本当にバルトフェルト伯爵家のご令嬢なの……?」


「信じられない。あんな冷水で、一人で床を磨き続けるなんて……」


「それに、何も要求なさらないのよ。お食事も、私たちの賄いのおこぼれで十分だなんて仰って……」


 令嬢が自ら這いつくばって手を動かすなど、この屋敷では異様な光景だった。

 しかも私は、誰かに褒められたいわけでも、同情を買いたいわけでもない。ただ、無理をしてでも黙々と働き続けることで、自分の「存在を消す」技術を実践していたのだ。

 目立たないように。邪魔にならないように。ただの「便利な道具」としてこの屋敷の隅に置いてもらえるように。

 それが、虐げられ続けた私が知る、唯一の身の守り方だった。


 ――夕刻。

 屋敷の廊下に、長く濃い影が落ち始める頃。

 私が重い水桶を両手で抱え、ふらつく足取りで廊下を歩いていた時のことだった。


 突如として、廊下の空気が氷点下まで凍りついた。

 チカチカと明滅する燭台の灯り。肌を刺すような、目に見えない無数の棘を持った冷気が、廊下の奥から津波のように押し寄せてくる。


「……っ」

 私は思わず足を止め、喉の奥から込み上げる咳を必死にこらえた。


 前方に現れたのは、当主ギルベルトだった。

 彼の周囲には、常人なら近づいただけで正気を失うほどの、濃密で禍々しい『呪いの圧』が渦巻いている。彼が歩みを進めるたびに、見えない重圧が私の華奢な身体にのしかかってきた。


 ギルベルトの足が、ピタリと止まる。

 彼の氷のような視線が、床に這いつくばるようにして水桶を抱える小さな私を捉えた。


(……なぜ、倒れない?)


 ギルベルトの胸中に渦巻いたのは、純粋な驚愕だった。

 彼がこれほど近づけば、本来なら呪いの圧に当てられ、悲鳴を上げて逃げ出すか、顔面を蒼白にしてその場に崩れ落ちるはずだ。

 しかし、目の前にいる女は違う。

 顔色は死人のように悪く、今にも折れそうなほど細い身体を震わせているのに、彼女は意識をはっきりと保ち、水桶を落とすこともなく立ち続けている。

 まるで、呪いの痛みよりも恐ろしい「何か」に背中を押されているかのように。


 ギルベルトは、不快な沈黙の中で、自分の中に全く新しい感情が芽生え始めているのを認めざるを得なかった。

 それは、弱者に対する憐憫でも、哀れな女への同情でもない。

 もっと根の深い、彼の存在そのものを揺るがすような根源的な感情。


『なぜ、この女だけが俺の呪いで壊れない?』という強烈な違和感。

 そして――。

『これ以上近づけば、この奇跡のように壊れない女を、俺自身の手で壊してしまうのではないか』という、かつて抱いたことのない強烈な「焦り」だった。


 自分が歩み寄れば、彼女を傷つける。

 これまで、数え切れないほどの人間を壊してきた彼にとって、それは当たり前の事実だった。だからこそ、彼は他人を遠ざけ、自らを孤独という檻に閉じ込めてきたのだ。

 しかし今、彼は目の前で必死に咳をこらえながら床を拭こうとする小さな背中から、どうしても目を逸らすことができなかった。


 カツン、と。

 ギルベルトのブーツが、私の目の前で止まった。


「あ……」


 見上げると、そこには彼がいた。

 呪いの中心。痛いほどの冷気。私は反射的に「邪魔をして申し訳ありません」と謝罪し、水桶を抱えて道を開けようとした。罰を与えられる。実家でそうされたように、冷水を頭から浴びせられるかもしれない。

 恐怖で身体がすくみ、私はギュッと目を閉じた。


 しかし、降ってきたのは暴力でも罵声でもなかった。

 当主は私の前に静かに立ち塞がり、まるで自分自身の恐ろしい力に抗うかのように、低く、しかしどこか切実な響きを帯びた声で問いかけたのだ。


「……お前、名は」


 その問いは、単なる身元確認ではない。

 彼が初めて、自分から「壊したくない」と願った人間に対する、執着の始まりを告げる声だった。

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