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第20話 最も甘く、幸せな鳥籠

 王都の冷たい喧騒から辺境の本邸に戻って数日が過ぎ、屋敷の空気は少しずつ、本来の穏やかな呼吸を取り戻していった。

 もちろん、表向きには何もかもが以前とまったく同じというわけではない。

 王都での白昼堂々の誘拐未遂の一件を受けて、侯爵邸の警備は以前より明らかに、異常なほど厳重になった。正門の見張りは倍増し、屋敷全体を覆う結界は最高位のものに張り直され、来客の身元確認も今まで以上に徹底されている。

 私が少し庭や温室へ向かうだけでも、護衛の数は相変わらず過剰で、私が廊下を歩けば、常に遠巻きに複数の気配がついて回ることもしばしばだった。


 けれど、それでも。

 朝の光がやわらかく差し込む窓辺。

 温室に満ちる、湿った土と甘い花の匂い。

 食堂から微かに響く、使用人たちの控えめな笑い声。

 執務室の重い扉の奥から聞こえる、セバスチャンとやり取りする低く静かな旦那様の声。

 そんな何気ない日常の一つひとつが、私にとってはもう、ちゃんと“帰ってきた”と心から安堵できるものになっていた。


「奥様、こちらの新しい苗ですが」


「はい。少しだけ葉先が乾いていますね」


「やはり奥様にもそう見えますか。水は足りているはずなのですが」


「たぶん、ここは昼間の陽が強すぎたのだと思います。この鉢を少しだけ、あの背の高い木々の陰へ移せば……」


「おお、なるほど。適度な日陰を作るわけですね」


 光の差し込む温室の中で、私はエドガーさんと並んで新しく入った花苗を熱心に見ていた。

 王都から戻って数日。

 最初の二日ほどは、さすがにギルベルト様に「倒れるまで休め」とベッドに縛り付けられ、温室へ近づくことすら半ば禁止されていた。けれど、私の顔色も戻り、ようやく体調も落ち着いたと彼に渋々認められたらしく、今日から久しぶりに大好きな“お仕事”が再開されたのだ。

 とはいえ、その労働条件は相変わらず過保護を極めていた。

 温室の入り口三箇所に立つ、重装備の騎士。

 温室の外周巡回のさらなる増員。

 ガラスの天井付近にまで見張りの影。

 内部に常に付き添う侍女二名。

 および私が少しでも疲れたそぶりを見せれば、すぐに当主へ報告が上がり、強制終了となる体制。


「……やっぱり、多いですよね。護衛の方々」


 私が外の物々しい気配に小声で呟くと、付き添っていたマリーが横でにこりと笑った。


「旦那様が奥様の絶対の安全のために決めたことですから。仕方がありません」


「でも、ここは本邸の敷地内の、ただの温室ですよ?」


「ただの温室ではありません。奥様がいらっしゃる温室です」


「それは、確かにそうですけれど……」


「つまり、旦那様にとっては、金庫室よりも重要な、屋敷の中で一、二を争う最高警戒対象エリアです」


「どうしてそんな大袈裟なことに」


「奥様が、あの旦那様にとっての唯一無二の宝物として、そこにいらっしゃるからです」


「……」


 この侯爵家の使用人たちの理屈は、どこへ行っても変わらないらしい。

 私は照れくささに少しだけ苦笑しながら、それでも目の前の小さな花へ、銀の水差しをそっと傾けた。

 柔らかな乾いた土がぐんぐんと水を吸い込み、青々とした葉先に小さな雫が宿り、陽の光を受けて宝石のように光る。

 その静かな命の営みを見ていると、あの王都での恐ろしい騒動が、まるでひどく遠い昔の出来事のように思える瞬間だった。

 もちろん、忘れたわけではない。

 暗い地下書庫で知った、自分に流れる聖女の血および呪いの真実も、隣国の王太子の毒のように甘い誘いも、あの離れで無意識に張った光の結界の感触も、全部私の中には確かな記憶として残っている。

 でも、それらの重い事実を抱えたままでも、私は今、こうして穏やかに花に触れていられる。

 それが今の私には、何よりありがたく、幸せだった。


「奥様」


 エドガーさんが、土をいじる私を見て、ほんの少しだけ嬉しそうに深い皺を寄せて目を細める。


「最近は、温室にいらっしゃる時のお顔が、ずいぶん柔らかく、明るくなりましたな」


「そうでしょうか」


「ええ。この屋敷にいらした最初の頃は、何かをするたびに、ビクビクと“本当にこれでいいのか”“怒られないか”と、常に誰かの顔色を確かめておいででした」


「……」


「今は、ご自身の意思で花に触れる時の手つきが、ひどく自然で、慈愛に満ちておいででございます」


 私は自分の両手を見下ろした。

 少しだけ黒い土で汚れた、小さな指先。

 実家にいた昔なら、こんな汚れた手を見て義妹および母に“みっともない”“汚らわしい”と叱られる前に、慌てて背中に隠そうとしただろう。

 でも今は、その土の汚れを見ても、少しも嫌な気持ちにはならない。


「ここが、好きなんです」


 私は花を見つめながら、ぽつりと答えた。


「旦那様のお屋敷で、エドガーさんおよびマリーたち皆さまが優しくて、このあたたかい温室があって……」


「はい」


「だから、ここで私らしく、ちゃんと侯爵家の奥様らしくなれたらいいなって、そう思えるんです」


「もう、十分でございますよ」


「え?」


「私ども使用人にとって、奥様は王都へ行かれるずっと前から、かけがえのない大切な奥様です」


 その温かい言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。

 私が泣きそうになって返事をしようとした、その時。

 温室のガラス扉の外で、やけに見覚えのある、威圧的な黒い外套が翻った。


「……」


 私は固まる。

 マリーおよびアンナは、なぜかちょっとだけ「あーあ」という生温かい目をした。

 エドガーさんに至っては「おや、お迎えですかな」と言いながら、そっと私の傍から一歩引く。

 入り口に立っていたのは、もちろんギルベルト様だった。

 今日も黒の礼装に身を包み、辺境侯爵として完璧に隙のない姿。

 ただし、その顔だけは、執務中に見せる冷徹さより、もっと私的な感情で少しだけ険しい。


「旦那様?」


「……何をしている」


「何って、ご覧の通り温室のお仕事を」


「それは見れば分かる。知っている」


「でしたら、どうしてそのようなお顔を」


「予定より三十分長い」


 私はぱちぱちと瞬きを繰り返した。


「三十分……」


「お前の体調を考慮して、そろそろ部屋に戻って休憩のはずだった」


「まだ疲れていません。元気です」


「お前のその言葉は、一番信用ならん」


「ひどいです」


「実際、お前は土いじりが楽しくなると、自分の体力を忘れて没頭する」


 その通り図星だったので、私は少しだけ言葉に詰まる。

 するとギルベルト様は、ずかずかとこちらへ近づきながら、さらに低く不機嫌に続けた。


「それに」


「はい」


「さっきから、他の奴らと笑いすぎだ」


「……はい?」


「使用人どもと、何をそんなに楽しそうに話していた」


 そこでようやく、私は彼の不機嫌の本当の理由を理解した。


「もしかして旦那様」


「なんだ」


「ずっと外から、見ておられたのですか」


「……通りがかりに、少しだけだ」


「少しだけ、ではない、ずっと待っていたような顔をしておられます」


「気のせいだ」


「そうでしょうか」


 私が小首を傾げると、背後でマリーが小さく俯いて肩を震わせた。

 絶対に笑いを堪えているのだろう。

 エドガーさんに至っては、もう隠す気もなく「ははあ、なるほど」と納得したように深く頷いている。


「では旦那様、山積みの執務の途中で、わざわざ私を監視にこちらへ?」


「お前を迎えに来たと言っている」


「まだお花の確認が終わっておりません」


「終わった」


「終わっておりません」


「俺が今終わったと言った」


「……」


 相変わらず、理不尽極まりない。

 けれど、この程度の強引さでシュンと引く私では、もうない。

 たぶん旦那様も、私の少し強くなった反応を分かっていて、わざとやっている節がある。


「旦那様」


「なんだ」


「私はまだ、新しく入った花の状態を半分も見ておりません。責任があります」


「残りは明日エドガーにやらせろ」


「明日も見ますが、今日は今日の分として」


「駄目だ」


「どうしてですか」


「今日は午後に、また別の予定があるだろう」


「……あ」


 そうだった。

 今日は、王都からの無事の帰還後の一区切りとして、使用人たちと小さなお茶会を開く約束をしていたのだ。

 王都から戻ってきた私を、屋敷の皆が「本当に無事でよかった」と涙ぐんで迎えてくれたお礼も兼ねて、温室で育てた花を飾ったささやかな会を開こうと、マリーたちが数日前から嬉しそうに準備してくれていたのである。

 私がその予定を思い出すと、ギルベルト様の眉間の皺が、なぜかさらに一本深く刻まれた。


「その顔は、何でしょうか」


「気に入らない」


「何がですか。お茶会のお菓子ですか?」


「お茶会そのものだ」


「使用人たちへの、ささやかな労いおよび感謝の会です」


「それが気に入らない」


「……」


 私はしばし、呆れて沈黙した。


「旦那様」


「なんだ」


「もしかして、私がお茶を飲む使用人の方々にまで、嫉妬なさっておられますか」


「……」


「旦那様?」


「……否定はしない」


 否定しないのだ。

 そこは当主の威厳として、せめて「馬鹿なことを言うな」と誤魔化してほしかった。

 マリーがとうとう堪えきれず、すっと背中を向ける。

 絶対に笑っている。

 アンナはアンナで、「まあ、存じておりましたけれど。旦那様ですから」と小さく呟いている。

 皆ひどい。

 私は額に手を当てて天を仰ぎたい気持ちをこらえながら、それでも、彼の不器用な独占欲がおかしくて笑ってしまった。


「旦那様は、本当に」


「なんだ」


「大人げなくて、過保護で、独占欲が強くて、困ってしまいます」


「俺が重くて困るなら、やめるか」


「やめません」


「……」


「だって」


 私は少しだけ背伸びして、彼の黒い袖へそっと指先を伸ばした。


「そんな不器用な旦那様が、私は一番好きですから」


 その一言で、ギルベルト様は雷に打たれたようにぴたりと黙る。

 黒曜石の瞳が、少しだけ見開かれ、まっすぐこちらを見た。

 数秒の葛藤の後、彼は完全に毒気を抜かれ、諦めたように深く息を吐いた。


「……今日は、俺の負けだ」


「勝ち負けで考えておられたのですか」


「お前のその言葉には、絶対に勝てない」


「それは、ちょっと大袈裟では」


「事実だ」


「……」


 


 結局その日は、私はきちんと温室の仕事を予定通り終え、そのあと自室で着替えて、午後から使用人たちとの小さなお茶会へ出ることができた。

 会場は、本邸の南向きにある、日当たりの良い小広間だった。

 貴族を呼ぶような大げさなものではない。

 丸いテーブルがいくつか無造作に置かれ、温室から運ばれた色とりどりの花が飾られ、厨房が腕によりをかけた素朴な焼き菓子および、香りの良い茶が用意されている。

 出席したのは、私の身の回りの世話をしてくれる侍女たち、執事見習いの若者、温室および厨房の担当者、および古参の使用人たち十数名。

 皆、最初こそ身分差から少しだけ緊張していたけれど、私が「今日はかしこまった席ではありません。ただ、皆さまにお礼を言いたかっただけです」と笑ってみせると、少しずつ表情が和らいでいった。


「奥様、王都はやっぱり、噂通り怖かったですか?」


 若い下働きの少女が、おそるおそる、けれど興味津々に訊ねる。


「怖かったです。見知らぬ方ばかりで」


 私は着飾らず、正直に答える。


「でも、ずっと旦那様が傍にいて、守ってくださったので」


「ああ、やっぱり!」


 隣にいた侍女見習いが、なぜか妙に納得したように大きく頷いた。


「絶対そうですよね! 旦那様、奥様を片時も離さなかったでしょう?」


「ど、どうしてそんなことまでご存知なのですか」


「だって旦那様、奥様が王都へ行かれると決まってから、ずっと機嫌が斜めで」


「こら、お前」


 マリーが慌てて咳払いをして止める。


「その先は使用人間の内緒です」


「もう十分、私にも伝わっております……」


 場が、ドッと和やかな笑いに包まれる。

 私はそんな空気が、嬉しくて、および不思議でたまらなかった。

 こうして下働きの人々も皆と同じテーブルを囲み、冗談を言い合い、笑い合う。

 昔の、実家の物置にいた私には、夢にすら見ない考えられない光景だ。


「奥様」


 今度は、厨房を仕切る年配の恰幅の良い女料理長が、新しい茶器を置きながら、少し照れたように言った。


「王都のきらびやかなお土産話より、私は、奥様がご無事で、こうしてここで笑ってくださってるのが一番嬉しいです」


「え……」


「この屋敷にいらした頃より、ずっとよく笑われるようになりましたね」


「……そうでしょうか」


「ええ。とても、綺麗です」


「それは、きっと」


 私は自然と、小さく微笑んでいた。


「皆さまが、私に優しくしてくださるからです。ここが、あたたかいからです」


 その言葉に、小広間が少しだけ静まり、次の瞬間、なんとも言えないやわらかく、温かい空気が広がった。

 誰も大げさに忠誠の言葉を言うわけではない。

 けれど、その場にいた全員が、ほんの少しだけ目元を緩め、嬉そうな顔をしたのが分かった。

 その時だった。

 小広間の重い扉が、バタン!と勢いよく開いた。

 全員が一斉に驚いてそちらを見る。

 そこに立っていたのは、予想通りというべきか、やはりギルベルト様だった。

 黒い外套姿。

 執務の途中らしく、片手にはまだ未決裁の書類が数枚残っている。

 だがその顔は、明らかに「執務のついでに、妻の様子を見に寄った」ような穏やかなものではない。


「……旦那様?」


 私が首を傾げると、彼はその場の空気を凍らせるような鋭い目で全員を一瞥し、最後に私へ視線をピタリと止めた。


「探した」


「い、今、皆さまとお茶をいただいているところで」


「知っている」


「でしたら」


「それが気に入らない」


「……」


 やっぱりだった。

 場の空気が一瞬だけピキリと固まったあと、マリーが「またか」という顔でそっと俯く。

 アンナはもう完全に笑いを堪える顔で、肩を震わせている。

 セバスチャンだけが、いつの間にか開いた扉の外に立っていて、すべてを察したように静かに目を閉じていた。


「旦那様」


 私はできるだけ落ち着いた、夫人らしい声で呼びかけた。


「まだ、お茶の途中です。お話も弾んでおりますし」


「見れば分かる」


「でしたら、後ほどお部屋へ戻りますから」


「駄目だ」


「どうしてですか」


「お前の笑顔が多すぎる」


「はい?」


「さっきから、誰にでも無防備に笑いかけている」


「同じ屋敷で働く、使用人の皆さまです」


「それでもだ」


「……」


 私は呆れて、ついに額に手を当てた。

 けれど今は、私および彼、夫婦二人の問題ではない。ここには大勢の皆がいるのだ。


「旦那様、皆さまが見ております。当主として」


「見ればいい。俺の妻だ」


「よくありません」


「よくないのは俺の方だ」


「何がですか」


「お前が俺のいないところで楽しそうすぎる。腹が立つ」


 あまりにも率直すぎる、嫉妬の台詞だった。

 小広間の空気が、今度は恐怖ではなく、別の意味でぴんと張る。


「だ、旦那様……」


「お前の笑顔は」


 彼はまっすぐ私を見て、誰にも有無を言わせない声で低く告げた。


「俺だけのものだ」


 沈黙。

 完全な、沈黙だった。

 たぶん私は、その場で耳まで真っ赤になって、湯気を立てていたと思う。

 だってそんな赤面するような台詞を、こんな大勢の皆の前で、なんの迷いもなく堂々と言い放つ人が、この世界のどこにいるのだろう。

 いや、目の前にいたのだけれど。


「……侯爵様」


 料理長が、ひどく遠慮がちに、空気を読んで口を開く。


「奥様は、ただ私どもと楽しくお話を」


「知っている」


「でしたら、もう少しだけお時間を」


「それでも連れていく」


 もう何を言っても無駄だ、俺は譲らないという顔で、彼は大股でこちらへ歩み寄ってきた。

 私は慌てて椅子から立ち上がる。


「旦那様!」


「なんだ」


「さすがに、それは我儘すぎます」


「俺が連れて行くのが嫌か」


「嫌というより、恥ずかしいですし、まだご挨拶も」


「俺は、お前が他の奴と笑っているのが嫌だ」


「……」


「だから、来い」


 無茶苦茶だった。

 貴族の理屈も何もない。

 ただの巨大な独占欲の暴走である。

 なのに、どうしてだろう。

 その一切の飾りのない真っ直ぐな我儘が、少しも嫌ではない。

 困る。恥ずかしい。皆の前だし、当主として本当にどうしようもない。

 でも、その呆れるほどの全部を押しのけるくらい、私の胸の奥があたたかく、愛おしさで満たされていく。


「奥様」


 マリーが、絶妙なタイミングで口を開いた。

 その目は完全に笑っている。


「ここは、可愛い旦那様を立てて差し上げた方がよろしいかと」


「可愛い!? マリー!?」


「ええ。旦那様、本日朝から奥様がいないことで、かなり限界のご様子でしたので」


「アンナまで!」


「執務室で、イライラして書類を三回ほど破りかけておられましたからね」


「お前たち、余計なことを言うな」


 ギルベルト様が、図星を突かれて低く凄む。

 しかし、もはや手遅れだった。

 使用人たちの間に、彼を恐れるのではなく、堪えきれない微笑ましさおよび温かい笑いが広がっていく。


「……皆さま」


 私はもう、完全に顔を覆いたくなった。


「どうしてそんなに、旦那様の暴走に平然としておられるのですか……」


「慣れておりますので」


 セバスチャンが、扉の外から静かに答える。


「慣れとは恐ろしいものです。奥様も早く慣れてください」


「それは今、執事として言うべきことですか」


「はい。事実ですので」


 味方がいない。

 本当に、この屋敷には私を彼から引き離してくれる人がいない。

 とうとう私は観念し、小さく息を吐いた。

 それから、できるだけ落ち着いた顔を作って、ギルベルト様を見上げる。


「……旦那様」


「なんだ」


「分かりました。少しだけ、待ってくださいませ」


「どれくらいだ」


「皆さまに、お開きのきちんとしたご挨拶を」


「……」


「それくらいは、この屋敷の侯爵夫人として必要です」


「……わかった。十秒待つ」


「短いです」


 なんとか譲歩を引き出した私は、くるりと使用人たちへ向き直った。


「今日は、本当にありがとうございました」


 私は両手を胸の前で重ね、心からの感謝を込めて小さく微笑む。


「こうして皆さまと美味しいお茶を飲めて、私はとても嬉しかったです」


「奥様……」


「旦那様がこんな調子で、いつもお騒がせしますが……また、ぜひお付き合いくださいませ」


「もちろんですとも!」


 誰かが元気よく答え、そのあと小広間に、あたたかく優しい拍手が広がる。

 私はその音に胸がいっぱいになりながら、一度だけ深く頭を下げた。

 するとその直後、私の身体がふわりと宙へ浮いた。


「きゃ……!」


「挨拶は終わったな」


「お、終わりましたが!」


「なら行くぞ」


 もちろん、ギルベルト様だった。

 当然のように私の膝裏および背中に腕を回して横抱きにし、そのまま踵を返して歩き出している。


「だ、旦那様!」


「騒ぐな. 落ちるぞ」


「騒ぎます! 皆さまの目の前です!」


「もう十分見られただろう. これ以上は見せん」


「そういう問題ではありません!」


 背後から、使用人たちの「ああ……」「やっぱり最後はこうなるのね……」という、妙に納得した楽しげな気配および笑い声が聞こえる。

 私は恥ずかしさで、本当にどうにかなってしまいそうだった。

 けれど、ギルベルト様はそんな私の抗議などまるで気にせず、長い廊下を大股で進み、本邸の一番奥にある自分の私室まで一直線に向かった。

 ガチャリ、と私室の扉が閉まり、内側から重い鍵がかかる。

 その音を聞いて、私は彼の腕の中で、ようやく少しだけ観念した。


「……本当に、皆の前からさらってしまわれました」


「最初から、そのつもりで広間に行った」


「開き直らないでください」


「開き直る必要もない. 俺の妻を俺の部屋へ連れてきて何が悪い」


「……」


 彼は私を、広い寝台の端へそっと下ろすと、そのまま私の目の前に立つ。

 高い。

 近い。

 部屋は広く逃げ道はあっても、たぶん彼が私を逃がす気はゼロだという顔だ。


「旦那様」


「なんだ」


「ただのお茶会に嫉妬なさるなんて、さすがに少し、大人げないのでは」


「少し?」


「……かなり」


「そうか」


「認めるのですね」


「認める. 俺は大人げない」


「……」


 やはり、何を言ってもだめだった。

 けれど、ギルベルト様はそのまま私の頬へ、大きな両手を添える。

 手袋を外した指先の温度が、じんわりと私の肌に伝わる。


「お前が、あそこで笑っていた」


「はい」


「俺以外の皆に」


「はい」


「心底楽しそうに」


「はい」


「……気に入らない」


 その言い方が、昼間のような苛立った不機嫌とは少し違った。

 もっと静かで、もっと率直で、ひどく甘く、私を求めている声。


「旦那様は、本当に」


 私は苦笑しながら、私の頬を包むその大きな手に、自分の手を重ねる。


「過保護で、独占欲が強くて、困ってしまいます」


「俺が重くて困るか」


「困ります」


「だが、嫌ではないだろう」


「……」


 見抜かれていた。

 というより、たぶん私の顔に出ていて、まったく隠せていなかった。


「嫌ではありません」


 私は小さく、白状するように認める。


「むしろ、少しだけ……嬉しいです」


「少しだけ?」


「たくさん、と言うと、旦那様がさらに調子に乗って私を囲い込みそうですので」


「もう遅い」


「旦那様」


 彼は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 それだけなのに、私の胸はまた、初めて出会った時のようにどくりと大きく鳴る。


「エルサ」


「はい」


「お前は、今日どうしてあんな顔で笑っていた」


「どんな顔、でしょう」


「俺に見せるのと同じ、穏やかな顔だ」


「……」


「最初にこの屋敷へ来た時は、そんな顔をしなかった」


 私は少しだけ目を丸くした。

 私がずっと怯えていたあの頃のことを、旦那様はきちんと覚えていたのだ。


「そう、ですね」


「いつも怯えていた」


「はい」


「何かに怯えて、泣きそうな顔ばかりしていた」


「……はい」


「今は違う」


 私はゆっくりと頷いた。

 否定する理由は、もうどこにもなかった。


「違います」


「なぜ変わった」


「……旦那様が、ここにいるからです」


「……」


「この屋敷が、私にとって、本当のおうちになったから」


「……」


「皆さまが優しくしてくださって、大好きな温室があって、毎日ちゃんと、私の居場所があって」


 私は、彼の目を見つめて微笑んだ。


「それを全部、旦那様が私にくださったからです」


 長い沈黙が落ちる。

 ギルベルト様は何も言わなかった。

 ただ、じっと私の顔を見ている。

 その漆黒の視線が、いつもより少しだけ、感情に揺れて見えた。


「……お前は」


 ようやく落ちた声は、ひどく低く、やわらかかった。


「本当に、俺を甘くする」


「旦那様は、私に対しては最初からお甘いです」


「違う」


「そうでしょうか」


「お前の前でだけだ」


 その言葉に、胸がくすぐったく熱くなる。

 私は少しだけ背伸びをして、彼の広い胸元へこつんと額を寄せた。

 するとすぐに、彼の太い腕が私の腰へ回る。


「旦那様」


「なんだ」


「今日は、楽しかったです」


「知っている」


「皆さまとお茶を飲んで、笑って……」


「知っている」


「でも」


 私はそのまま、彼の服をそっと掴んだ。


「こうして、最後に旦那様にさらわれるのも」


「……」


「嫌いではありません」


 腰を抱く腕の力が、少しだけ強くなる。

 きっと、今の一言で、また彼の何かの限界を越えたのだろう。


「それは駄目だ」


「え?」


「そういう可愛い言い方は、するな」


「どうしてですか」


「今後、俺がお前を毎回さらうための理由になる」


「……もう十分、理由にしておられると思います」


「足りない」


「足りないのですか」


「お前を俺の部屋にさらう理由は、いくらあってもいい」


 本当に、この人の重すぎる愛には敵わない。

 私は堪えきれずに笑ってしまう。

 するとギルベルト様は、今度こそ少しだけ機嫌を直したらしく、私の額へ軽く、愛おしむように口づけた。


「エルサ」


「はい」


「これからも、お前が心の底から笑う時は」


「はい」


「できるだけ俺の見えるところ、俺の隣で笑え」


「……独占欲がすごいです」


「知っている」


「でも、たまには皆さまとも笑います」


「……」


「旦那様が嫌がっても、です」


「嫌だ」


「でも笑います」


「……」


「その代わり、旦那様の前では、誰よりも一番たくさん笑いますから」


「……」


「それでは、駄目ですか?」


 ギルベルト様はしばらく考えるように黙ったあと、やがて不本意そうに、けれど少し嬉そうに言った。


「……それなら、少しだけ許す」


「少しだけ、ですね」


「俺にとっては十分だ」


「ありがとうございます」


「だから礼はいらない」


「では」


 私は少しだけ、いたずらっぽく微笑んだ。


「旦那様の笑顔も、私の前ではもっと見せてくださいませ」


「無茶を言うな」


「お互い様です」


「……」


 今度は、本当に少しだけ。

 彼の引き結ばれた口元が、やわらかく緩んだ。

 それはほんの一瞬で、たぶん他の誰にも絶対に見せない、私だけの顔だろう。

 でも、私にはそれで十分だった。

 窓の外では、辺境の静かな夜が更けていく。

 遠くで風が深い森の木々を揺らし、本邸の分厚い石壁は、冷たい夜気から私たちを完全に守っている。

 私は、彼の腕の中でふと思う。


 昔の私なら、“鳥籠”という言葉に怯えただろう。

 誰かに閉じ込められて、逃げられなくて、誰かの都合で生かされるだけの暗い場所。

 そんなものを想像して、きっと震えていた。

 でも今は違う。


 この鳥籠は、誰より過保護で、誰より不器用で独占欲の強い人が、私を守るためだけに作ったものだ。

 鍵はたくさんあって、護衛もやたら多くて、時々呆れるほど息苦しい。

 それでも、その中にはあたたかな寝台があり、甘い花の匂いがあり、笑って迎えてくれる人たちがいて、および何より、私を世界で一番大事な宝物みたいに抱きしめる人がいる。

 だから私はもう、この場所を怖いとは微塵も思わなかった。

 むしろ、こんなにも甘くて幸せな鳥籠なら、ずっとこの中にいたいとさえ思う。


「旦那様」


「なんだ」


「私、幸せです」


「……」


「とても」


 ギルベルト様の腕が、もう一度だけ、私を強く抱き寄せる。


「俺もだ」


 短い返事だった。

 けれど、その一言の重さだけで十分だった。

 やがて彼は当然のように私を軽々と抱き上げ、寝台の奥へと連れていく。

 私はもう抵抗しない。

 ただ、その首へそっと腕を回すだけだ。


「また、さらわれてしまいました」


「何度でもさらう。お前は俺のものだ」


「困りました」


「嘘だ」


「……少しだけ、嘘です」


「知っている」


 寝台へ下ろされた私の銀髪を、彼の指がやわらかく梳いていく。

 そのたびに、胸の奥の幸せが、温かいお湯のように静かに満ちていく。

 これから先も、きっと色々なことがあるだろう。

 王都からの面倒な手紙も届くし、隣国の動きもあるし、領地の仕事も増える。

 旦那様は相変わらず過保護で、私はそのたびに呆れて、でも結局、その重たい愛に甘やかされるのだと思う。


 それでも、いい。

 そんな騒がしくてあたたかい日々が、ずっと続けばいい。


 最も甘く、

 最も不器用で、

 最も幸せな、この鳥籠の中で。


 私たちの物語は、たぶん、これからもずっと、こんなふうに甘く、少しだけ呆れながら、続いていく。

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