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第2話 死地への赴き

 ガタガタと、車輪が荒れた石畳を弾く無骨な音が、絶え間なく車内に響き続けていた。

 華やかだった王都の景色はとうの昔に姿を消し、馬車は人影もまばらな荒涼とした街道をただひたすらに辺境へと進んでいく。


 王都を出発して数日。栄養失調でやせ細った私の身体には、サスペンションの効かない安馬車の揺れは拷問に等しかった。薄っぺらいクッションの敷かれた座席で、私は窓枠にしがみつくようにして、吐き気と痛みに耐えていた。


 道中、馬の休憩のために立ち寄った小さな宿場町での出来事が、私の心をさらに重く沈ませていた。

 水を補給する御者たちに、宿場の主人が小声で尋ねるのが聞こえたのだ。


「おい……まさかその馬車、あの『化け物当主』の屋敷へ向かっているのか?」

「ああ。また王都から新しい“生贄”が送られてきたってわけさ」

「可哀想に……。あの屋敷に向かって、まともな姿で帰ってきた人間はいねぇってのに」


 ヒソヒソと交わされる囁き声。私と目が合った町の人々は、まるで呪いがうつるのを恐れるかのように、弾かれたように視線を逸らし、そそくさと家の中へ逃げ込んでいった。

 御者も、護衛として付けられた実家の騎士たちも、必要以上に口を閉ざしている。彼らの態度は、花嫁を送り届けるというよりも、死刑囚を処刑場へ移送する看守のそれだった。


 ふと、足元に置かれた自分の荷物に目を落とす。

 小さな革の鞄が一つ。それが、伯爵家の長女である私の「嫁入り道具」のすべてだった。

 普通、貴族の令嬢が侯爵家へ嫁ぐとなれば、馬車数台に及ぶ豪奢なドレスや宝石、調度品が用意されるはずだ。しかし、私に持たされたのは最低限の着替えと、母の形見の手鏡だけ。

 それは嫁入り道具というより、いつでも実家に送り返せるようにまとめられた、“返品前提の梱包”に近いものだった。


『試用で合わなければ戻る。当主側から多額の解消金も出るわ』


 出発の朝、継母が浮かべていた欲深い笑みと、その言葉が脳裏に蘇る。

 あの言葉が、ここに来て生々しい現実味を帯びて私の胸の奥を冷たく侵食していった。

 私は、愛されるために嫁ぐのではない。呪われた当主の元へ投げ込まれ、壊れれば「不良品」として返品され、実家に金をもたらすための道具なのだ。


 やがて、馬車が深い森を抜けると、周囲の空気が一変した。

 ヴォルガード侯爵の領地に入ったのだ。

 空気は氷のように冷たく張り詰め、空は重苦しい鉛色に沈んでいる。領地に入ってからいくつか村を通り過ぎたが、どこも不気味なほど静まり返っていた。窓から見えた領民に「屋敷へ向かう」と御者が道を尋ねただけで、人々は怯えたように肩を震わせ、無言で視線を逸らした。誰もが、その名を聞くことすら恐れているのだ。


「着いたぞ。降りろ」


 護衛の無愛想な声と共に、馬車が乱暴に停車した。

 重い扉が開かれ、外に出た私は、目の前にそびえ立つ異様な光景に息を呑んだ。


 案内された先に現れた侯爵家の本邸は、貴族の華やかな城などではなく、まるで外敵を拒絶する要塞そのものだった。

 黒黒とした石で組まれた外壁。歓迎の旗も、庭を彩る花一つなく、ただただ分厚く堅牢な鉄の門が口を開けている。敷地の中に一歩足を踏み入れただけで、足元から這い上がってくるような尋常ではない冷気が、肌をチクチクと刺してきた。


「お待ちしておりました、エルサ様。当家の執事を務めております、セバスチャンと申します」


 出迎えた初老の執事は、完璧な礼の姿勢で私に頭を下げた。丁重な態度だったが、その瞳の奥にはどこか“慣れ”のようなものが滲んでいた。

 侯爵家に花嫁が来るのは珍しいことではない。だが、どうせ誰も長くは続かない――。そんな諦めのような前提が、彼の些細な所作や冷ややかな視線から痛いほど伝わってくる。


 広間へ通される前に、執事は事務的な手つきで数枚の書類を差し出した。


「お疲れのところ恐縮ですが、まずは『契約書類』の確認をお願いいたします。王都のバルトフェルト伯爵家と交わした条件です。一ヶ月の試用期間、および期間内の解消条件。そして、当主都合の解消となった場合の、慰謝料としての解消金と王都への護送費の取り決め……相違ございませんね?」


 あまりにも早い事務手続き。

 形式は完璧に整っているのに、そこには血の通った人間の温度が一切なかった。

「あなたがいつ壊れて返品されてもいいように、手続きは済ませてあります」と、暗に告げられているのと同じだった。


「……はい。相違、ありません」


 私は震えそうになる声を必死に押し殺し、乾いた声で答えた。

 逃げ道はない。実家という地獄から放逐された私には、この呪われた氷の要塞で、いつ終わるとも知れない命の砂時計を見つめ続けるしか道は残されていないのだ。


 執事は淡々と書類をしまい、「では、旦那様のもとへ」と薄暗い屋敷の奥へと歩き出した。

 その先に、噂の「化け物」が待っている。


 執事セバスチャンの足音だけが、不気味なほど静まり返った屋敷の廊下にコツコツと響いていた。

 案内されて薄暗い廊下を奥へと進むにつれ、私は自分の身体に起き始めた「奇妙な異変」に気がついた。


 肌を撫でる冷気が、一歩進むごとにじわじわと強まっていくのだ。

 ただの隙間風ではない。まるで目に見えない氷の沼に足を踏み入れているような、内臓の底から冷え切っていくような感覚。廊下の壁に掛けられた燭台の灯りが、風もないのにジリジリと微かに揺れ、今にも掻き消えそうに瞬いている。


「っ……」


 不意に、耳の奥がキーンと詰まるような、異様な圧迫感に襲われた。

 高山に登った時のそれに似ているが、もっと重く、粘り気のある何かが身体にのしかかってくるようだ。

 その時、私たちの横を通り過ぎようとした若い侍女の一人が、唐突に口元を押さえて激しく咳き込んだ。


「ゲホッ、ゴホッ……っ!」


 彼女は顔からスッと血の気を失い、青ざめた顔で壁に手をついてうずくまった。

 私が思わず駆け寄ろうとした瞬間、セバスチャンが片手で私を制止した。彼も、他の使用人たちも、苦しむ侍女を一瞥しただけで何事もなかったかのように通り過ぎていく。

 誰も助け起こそうとしない。まるでそれが、この屋敷では“日常茶飯事”であり、いちいち気に留めることすら無駄だと言わんばかりに。


 これが、呪い。

『傍にいる者が次々と体調を崩す』という噂は、決して大げさな比喩ではなく、事実としての「暴力」としてこの空間を支配していたのだ。


 やがて、屋敷の最奥にある一際大きな両開きの扉の前に辿り着いた。


「旦那様。王都より、バルトフェルト伯爵家のご令嬢が到着いたしました」


 セバスチャンの声に応じる声はない。ただ、重厚な扉がギィッと低い悲鳴を上げて内側へと開かれた。


 広間の中央。

 そこに佇んでいたのは、毛むくじゃらの怪物でも、醜悪な悪魔でもなかった。


「……ぁ……」


 私は思わず息を呑んだ。

 噂の「化け物当主」は、恐ろしい怪物などではなく、恐ろしいほどに整った顔立ちをした一人の青年だった。

 雪のように白い肌と、夜の闇を溶かしたような漆黒の髪。切れ長の瞳は氷細工のように冷たく、一切の感情を宿していない。

 しかし、彼が私を見据え、ゆっくりと一歩前へ踏み出した瞬間――室内の温度が、さらに数度急激に下がったように感じた。


 呪いの中心。その濃密な死の気配が、津波のように私に襲いかかる。

 並の人間なら白目を剥いて倒れてもおかしくないほどの重圧。私は反射的に身を強張らせ、ドレスの裾を強く握りしめた。

 呼吸が浅くなり、心臓が早鐘を打つ。息苦しい。けれど――不思議と、意識ははっきりと保てていた。膝から崩れ落ちることもない。


 当主であるギルベルトは、微動だにしない私をわずかに見下ろした後、視線をスッと隣のセバスチャンへと移した。

 セバスチャンが、無言で小さく一度だけ頷く。

 それは『契約書類は整っております。いつでも試用期間の手続きとして受け入れ可能です』と言外に告げる、冷徹な合図だった。


 だが、ギルベルトの薄い唇から紡がれたのは、歓迎の言葉でも、契約の確認でもなかった。

 彼は、絶対零度の声で淡々と結論だけを落とした。


「帰れ」


 短く、一切の交渉を許さない命令。

 セバスチャンが驚いたように一瞬だけ目を見開いた。


 いつもなら、数日は様子を見ていたのだという。だが、当主は呪いに耐えられずに壊れていく人間をこれ以上屋敷に置くことを良しとしなかった。すぐに追い返す――冷酷に見えるその即断は、彼なりの“慣れ切った保護”の形だったのかもしれない。


「解消金は全額払う。王都への護送も付けよう。お前がここにいる必要は、一切ない」


 静かに、けれど決定的な宣告。

 私は言葉を失った。

 帰れと言われても、私には帰る場所などどこにもない。

 あの地獄のような実家に戻れば、今回金にならなかった腹いせに更なる虐待を受けるか、別の恐ろしい縁談で使い潰されるだけだ。

 ここに残れば、いずれ呪いに蝕まれて死ぬかもしれない。

 けれど、戻っても待っているのは別の形の「死」なのだ。


 私の生きる道など、最初からこの世界のどこにも用意されていなかった。


「お引き取りを。馬車はすぐに手配いたします」


 セバスチャンが促すように一歩近づいてくる。


 その時だった。

 私は、震える両手を胸の前で強く、爪が手のひらに食い込むほどに握りしめた。

 そして、自分でも驚くほどはっきりとした、かすれてはいるけれど決して折れない声で言い放った。


「……帰れません」


 広間の空気が、ピタリと止まった。

 ギルベルトの氷のような瞳が、初めて微かに揺れた。

 彼が見たのは、ただの令嬢のわがままや拒絶ではない。絶望の底から這い上がろうとする、“破滅を恐れない無謀な覚悟”だった。

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