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第19話 辺境への凱旋と、領民たちの祝福

 王都を発つ朝は、驚くほどあっさりと、および強引に決まった。

 前夜のうちに、ギルベルト様は国王陛下への事後処理の最低限の報告および、隣国側への「次はない」という強烈な抗議、および王家地下書庫で確認した資料の写しの保全について、必要な指示を部下たちへすべて終えていたらしい。

 その手際の良さ、というより圧倒的な行動速度に私は感心したけれど、同時に少しだけ呆れてしまった。

 なにしろ、その異常なまでの迅速さのすべてが、「私を一刻も早く安全な辺境へ帰し、自室に囲い込むため」だけに最適化されていたからだ。


「旦那様」


「なんだ」


「本当に、今日もうこのまま王都を出立なさるのですか」


「何か問題があるか」


「問題と申しますか……王都に残してきたものが、色々とあるのでは」


「残して困るものなど何一つない」


「国王陛下との、正式なお別れのご挨拶および謁見は」


「済ませた」


「いつの間にですか」


「お前が朝食を取って、着替えている間だ」


 呼吸をするように当然の顔で言われて、私はぱちぱちと瞬きを繰り返した。

 一国の王相手に、いつの間にそんな慌ただしい真似を、と思ったけれど、たぶんこれ以上聞くだけ無駄なのだろう。

 王都の別邸の私室。

 私はまだ朝の身支度の途中で、鏡台の前に座り、侍女のマリーに長い銀髪を梳かれている最中だった。

 その鏡越しに見るギルベルト様は、すでに出立用の分厚い黒い外套へ腕を通し終え、手袋まで嵌めている。まるで今すぐでも私を担ぎ上げて、馬車へ向かいそうな気迫および急かし具合だ。


「王妃様へのお礼および、ご心配をおかけしたお詫びも……」


「書状を持たせた」


「それもですか」


「それもだ。俺以外の人間と接触する時間は、一秒たりとも惜しい」


 完璧だった。

 完璧すぎて、もはや私の口を挟む隙が針の穴ほどもない。


「……もしかして旦那様」


「なんだ」


「昨夜のうちに、今日のこの強行軍を全部決めておられましたか」


「当然だ」


「やはり」


「お前をこれ以上、この不快な王都に置いておく理由がどこにもない」


 その不機嫌を隠そうともしない言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。

 嬉しい、と思うのと同時に、少しだけ可笑しくもあった。

 王都中を巻き込んだ前代未聞の誘拐騒動の直後だというのに、この人の中では何より優先すべき国家の案件が、私を“安全な自領の巣へ回収すること”なのだから。


「でも、王都の貴族の方々は、あまりの早すぎる出立に驚かれるのでは」


「知るか」


「隣国のレオンハルト王太子殿下も、拍子抜けなさるかも」


「知るか。というか、二度とその名を出すぐらいなら、舌を噛め」


「そこもですか」


「むしろ奴の反応など、死んでも知りたくない」


 完全に、ドス黒い本音だった。

 私は鏡越しに、彼を宥めるように小さく笑う。

 すると、ギルベルト様は私の笑みを見て、わずかに目を細めた。


「何が可笑しい」


「いいえ」


「言え」


「旦那様が、あまりにも昨日までと同じ、いつも通りで」


「……」


「少し、安心したんです」


 その私の一言に、彼はほんの一瞬だけ、毒気を抜かれたように黙った。

 それから、静かにこちらへ歩み寄る。

 マリーが気を利かせて一歩下がると、ギルベルト様は背後から私の両肩へ大きな手を置き、鏡の中の私を真っ直ぐに見据えながら、低く言った。


「俺は、まだ全然落ち着いてなどいない」


「……」


「お前がこうして目の前にいて、息をしていて、俺の方を見て笑っているから、辛うじて理性を保っているだけだ」


「旦那様」


「だから、安心するのは早い。俺の中の恐怖は、まだ完全に消えていない」


 そう言う声音は自分を戒めるように厳しいのに、私の肩に置かれたその指先は、驚くほどやわらかく、壊れ物を扱うようにそっと私を撫でていた。


「俺たちの辺境へ着くまで、絶対に気を抜くな」


「はい」


「馬車の外を見るな. また変な虫がつく」


「それは、長旅ですし、少しだけ無理です」


「では、俺越しにだけ見ろ」


「またその、旦那様を挟むという理屈ですか」


「嫌か」


「……少しだけ、近すぎて困ります」


「なら、少しだけ俺のために我慢しろ」


 やっぱり、この人はどこまでもいつも通りだった。


   


 王都を出る侯爵家の隊列は、来た時よりもさらに数段、異常なほど厳重だった。

 前衛および後衛を固める騎士の数は倍以上に増え、馬車の外周には、物理的な結界を維持する高位の魔術師まで数名配置されている。

 しかも、私およびギルベルト様が乗る巨大な馬車は、前回と同じ衝撃吸収の特注車両でありながら、今回は扉にまで、内側からしか開かない追加の封印術式が幾重にも施されていた。


「……旦那様. これ、もう移動用の快適なお部屋ではなく、移動用の鉄壁の要塞ではありませんか」


「問題ない」


「大いに問題はあります」


「ない」


「あります」


「ない」


 馬車へ乗り込む直前から、そんな不毛なやり取りを繰り返していたけれど、結局最後はいつも通り、彼の圧倒的な腕力および独占欲の前に敗北した。

 つまり――。


「旦那様、もう馬車に乗り込むだけですから、自分で乗れます」


「知っている」


「でしたら、降ろして」


「駄目だ」


「まだ何も」


「言う前から、お前が何を言いたいか分かる」


「……」


 私は問答無用で彼の両腕に横抱きにされ、そのまま車内へ運び込まれた。

 王都の別邸の門前で、使用人たちがずらりと整列して見送る中で、である。


「お、皆さまが見ておられますから、恥ずかしいので……」


「恥ずかしくない. 夫婦だ」


「私は恥ずかしいです」


「すぐ慣れる」


「そんなことに慣れたくありません……」


 そうして車内へ入った私を、ギルベルト様は今度こそ、あんなに広い向かいの長椅子へ座らせてくれるのかと思った。

 思ったのに。

 次の瞬間には、やはり当然のように、彼の硬い膝の上へすっぽりと横向きに収められていた。


「旦那様!」


「出発する」


「そういう問題ではありません. 私が重いですし」


「揺れるからだ」


「でも前回より警備も魔術師も増えており、馬車もさらに安定して」


「だから何だ」


「理屈が通りません」


「お前を抱くのに、理屈を通す必要がどこにある」


「あります……!」


 けれどその私の小さな抗議も、馬車が動き出してしまえば少しずつ弱くなる。

 なにしろ、今回の移動は前回以上に、本当に揺れが少なかった。術式でも追加されたのか、まるで厚い雲の上を進んでいるような、あるいは水面を滑るような感覚で、あの王都の息苦しい騒がしさから、じわじわと着実に遠ざかっていく。

 私は彼の膝の上に抱かれたまま、彼に隠れるようにして、窓硝子の外へ視線を向けた。

 高くそびえる城壁。

 綺麗に整備された石畳。

 好奇の目を向ける王都の人々。

 尾鰭のついた噂および、値踏みする視線および、きらびやかで嘘にまみれた華やかな灯り。

 つい数日しかいなかったはずなのに、あの夜会のことおよび王太子のことを思うと、ずいぶん長く、何ヶ月もあそこにいたような疲労感がある。

 王都では、たくさんのことがあった。

 夜会のワルツ。

 地下書庫での真実。

 隣国の王太子。

 誘拐未遂。

 および、あの昨日の夜。

 思い出すだけで顔から火が出そうになり、私は慌てて外から視線を外し、俯いた。

 だが、私のその微妙な体温の変化を見逃す人ではない。


「……何を考えている」


 低い声が、私の耳元へ熱を帯びて落ちる。


「な、何でもありません. ただの景色です」


「嘘だ. 景色を見てそんな顔をするはずがない」


「旦那様は、本当にすぐ見抜かれますね」


「お前が俺に対して、無防備で分かりやすすぎるだけだ」


「……」


 私は言い返せず、少しだけ唇を尖らせた。

 するとギルベルト様は、私のその仕草に小さく鼻を鳴らし、私の腰をぐっと引き寄せる。


「顔が赤いぞ」


「朝から、そのような心臓に悪いことを言わないでください」


「事実だ」


「それが困るのです」


「何が困る」


「……」


「言え」


「……昨夜の、あのお部屋でのことを、少し思い出してしまっただけです」


「少し?」


「……はい」


「俺は昨夜から今まで、ずっと思い出して狂いそうになっているが」


「だ、旦那様」


 さらりと、あまりにもストレートに返されて、私は完全に言葉を失う。

 本当に、この人はどうしてこう、時々平然と、人を恥ずかしさで殺せそうなことを言うのだろう。

 その後もしばらく、王都の城壁を離めるまでの車内は、彼の腕に包まれて静かだった。

 けれどその静けさは、行きのような重く不安なものではなく、むしろ大きな試練を越えて、ようやく心から肩の力を抜ける安堵に近かった。

 王都の郊外へ出る頃には、窓の外の景色もだんだんと自然のものへ変わっていた。

 石造りの重厚な街並みは、やがて土の見える広い街道へ変わり、さらに遠くまで開けた冬枯れの平野へ続いていく。

 馬車列が王都の喧騒を完全に背にし、遠ざかるほど、私の胸の奥のざわめきも、泥が沈むように少しずつ静まっていくのが分かった。


「帰っているんですね……」


 思わず零した私の声に、ギルベルト様が私の頭へ顎を乗せ、小さく頷く。


「ああ」


「辺境へ」


「ああ」


「私たちの……」


 そこまで言いかけて、少しだけ気恥ずかしくて言葉を飲み込んでしまう。

 けれど、私が言い淀むより前に、彼が低く、確かな声で答えた。


「俺たちの家へ戻る」


 その一言が、私の胸の真ん中へまっすぐ、深く落ちた。

 家。

 私のいた、あの実家ではない。

 冷たくて、息苦しくて、私の居場所など最初からどこにもなかったあの家ではなく。

 今、こうして私たちが帰ろうとしているのは、私が自由に笑ってもいい家、彼に守られてもいい家、および旦那様の隣で、ただ息をして生きていていい場所なのだ。


「……はい」


 私は小さく頷き、そっと彼の広い胸へ額を寄せた。

 すると、彼の手がすぐに私の背中を抱き、もう片方の手が私の銀髪を優しく梳いてくる。

 まるでそれが、これからの私たちの人生の、当然の合図であるかのように。


   


 辺境へ向かう道中は、行きよりもずっと精神的に穏やかだった。

 もちろん、ギルベルト様の神経質なまでの警戒は、一切解けていない。

 宿場町での休憩は最小限にとどめられ、私が馬車の外へ出る時は必ず彼が背後に張り付き、食事も飲み物も、毒見役より先に彼自身の安全確認が入る。夜の野営および宿では、当然のように同じ寝台で、しかも王都にいた時よりさらに腕の力が強く、私を逃がす気配がない。

 けれど、それらすべての過剰な過保護が、前のように息苦しい束縛に感じないのは、たぶん私自身の中で、“彼に守られること”への意味および解釈が完全に変わったからだ。

 以前の私は、彼に守られることに、どこか拭いきれない後ろめたさがあった。

 私が弱いから. 私が何もできないから. 自分は大した価値もない人間なのに、という遠慮および卑屈さが常に先に立っていた。


 でも今は違う。

 私はこの人にとって、どうしようもなく大事な存在なのだ。

 ただ呪いを鎮めるのに役に立つからではなく、ただ王家の記録にある聖女だからでもなく。

 ちゃんと、エルサという一人の人間として、彼に大事にされ、求められている。

 その確信があるだけで、同じ行き過ぎた過保護さも、どこか甘く、心地よい毛布のように感じるのだから、人間の心とは不思議なものだった。

 三日目の昼過ぎ。

 馬車の窓から見える景色に、私は思わず彼の膝の上で身を乗り出しかけた。


「旦那様、あれ」


「急に動くな」


「でも、あの遠くの山並み」


「……ああ」


 遠くの空に見える、雪を頂いたなだらかな稜線。

 黒々と連なる、魔物を拒む深い森。

 王都よりも少し冷たくて、澄んだ色の空。

 見慣れた、私の大好きな辺境の景色だった。


「帰ってきたんですね」


「ああ」


「本当に」


「ああ」


 私が目を輝かせて窓の外を見ると、ギルベルト様はいつもの無表情のままだったけれど、私の腰を抱く腕の力を、少しだけ緩めた。

 たぶん、私が心からこの景色を見てほっとしているのが、肌越しに分かったのだろう。


「そんなに嬉しいか」


「はい」


「王都の方が、女にとっては華やかで、美しかっただろう」


「華やかでした. 目も眩むほどに」


「なら」


「でも、私が帰りたいのは、旦那様のいるここです」


 その私の迷いのない返事に、彼は何も言わなかった。

 ただ、私の指先を大きな掌で包み込み、硬い親指で、静かに、愛おしむように撫でただけだった。

 領都へ入る少し前から、隊列の外の様子が妙に賑やかになった。

 最初は、行き交う荷馬車および農民たちが侯爵家の紋章を見つけて、いつものように畏れ多くて道を譲っているだけだと思った。


 けれど、進むにつれ、沿道に集まる人の数が明らかに増えていく。

 農具を持ったまま、作業の手を止めて立ち止まる者。

 店先から顔を出して、こちらを指差す女たち。

 隊列を追いかけるように走ってくる子ども。

 兵士たちの先触れでもあったのだろうか、領民たちの間には、すでに何かを待ちわびるような小さなざわめきが広がっていた。


「……何か、外が」


 私が不思議そうに呟くと、御者台にいるセバスチャンが、前方の小窓越しに淡々と告げた。


「旦那様および奥様のご無事のご帰還が、すでに領都の隅々まで伝わったのでしょう」


「え?」


「王都での一件も、すでにある程度は」


「そんなに早くですか. つい数日前のことなのに」


「ええ. よろしければ、もう少し控えめに、穏便に事後処理をしたかったのですが」


「控えめ、に?」


「旦那様が、まったく控えめになさいませんでしたので」


「……」


 私は恐る恐る、隣を見た。

 ギルベルト様は窓の外の喧騒を一瞥しただけで、ひどく興味のなさそうな、どうでもいいという顔をしている。


「旦那様」


「なんだ」


「私が見ていないところで、一体何をなさったのですか」


「別に大したことではない」


「その“大したことではない”という旦那様の基準が、一番信用できません」


「隣国側へ、二度とこちらへ手を出させないための、国を滅ぼすぞという宣戦布告に近い書簡を送っただけだ」


「……」


「王都でも、夜会でお前を貶めた余計な噂を流した連中を、少しばかり社会的に黙らせた」


「……」


「王城には、辺境側の軍事的な警備強化および、あの小賢しい王太子の全動向の監視を強硬に求めた」


「……」


「ついでに、領内には、お前が無事であり、俺が取り戻したと大々的に先触れを出した」


「最後だけは、少し安心いたしました」


「そこだけでいい」


 やはり、裏で色々やってのけていた。

 および、国家間の抗議および貴族の粛清を“ついで”のように言うあたりが恐ろしい。

 しかし、その彼の強権的な行動の効果は明らかだった。

 領都の中心部へ近づくほど、集まった人々の視線に含まれる色が変わっていくのが分かる。

 昔、私がこの領へ初めて生贄として連れてこられた頃。

 街の人々は、呪われたヴォルガード侯爵をひどく恐れていた。

 彼の馬車が通れば道を空け、誰もが息を潜め、顔を上げることも、目を合わせることすら避けていた。

 今も、圧倒的な力への畏れが完全に消えたわけではない。

 けれど、そこに向けられる視線には、別の温かい感情もはっきりと混じっている。

 主が戻った安堵、守護者への敬意、および――私への親しみ。


「旦那様、外を少しだけ見てもよろしいでしょうか」


「駄目だ」


「ほんの少しだけ. 皆さまが迎えてくださっています」


「駄目だ. お前の顔を安売りする気はない」


「……」


「……」


「……旦那様」


「なんだ」


「今は、王都ではなく辺境です」


「知っている」


「私たちのおうちの近くです」


「知っている」


「でしたら、少しくらい、皆さまの顔を見ても」


「……俺の肩越しなら、少しだけ許す」


 またしても条件付きだった。

 だが、完全な拒絶ではなく、許可は許可だ。

 私は少しだけ身体をずらし、ギルベルト様の広い肩越しに窓硝子の外を覗いた。

 その瞬間、思わず息を呑む。

 領都の門前には、私の想像をはるかに超える大勢の人が集まっていた。

 市場の商人たち. 土に汚れた農民たち. 手を引かれた子どもたち. 工房の職人. 兵士の家族らしい女たち. 皆が、侯爵家の隊列へ向かって、恐れることなく手を振ったり、声を上げたりしている。


「お帰りなさいませ、侯爵様!」


「奥様、ご無事でよかった!」


「本当に聖女様だ!」


「侯爵様が、奥様を王太子から助けたって聞いたよ!」


「おめでとうございます!」


 おめでとうございます。

 その不思議な言葉に、私は目を丸くした。


「どうして、無事に帰ってきただけなのに、おめでとう……?」


「……」


 ギルベルト様は少しだけ眉を寄せる。


「知るか. 俺に聞くな」


「旦那様も知らないのですか」


「平民および領民の考えることまで、いちいち心を読まん」


「読んでください. 当主様なのですから」


 小声で言うと、彼はわずかに不満そうに、けれど私を叱るでもなくこちらを見た。

 けれど、その直後。

 ぱあっ、と窓の向こうの視界が、鮮やかな色で埋まった。


「きゃ……! 」


 門前に集まっていた人々が、一斉に手元の籠から花びらを投げたのだ。

 白、桃色、薄青、黄。

 冬の厳しい気候の中で、温室で育てたか、乾燥させて保存していたものだろうか. 色とりどりの花びらが、冬の淡い陽光の中でふわりと舞い上がり、祝福の雨のように侯爵家の黒い馬車へ降り注ぐ。


「……わあ」


 私はその美しさに目を奪われ、思わず窓硝子に手をついた。

 もちろん、すぐにギルベルト様に、危ないとその手を背後から掴まれたけれど。


「危ない」


「危なくありません. ただの花びらです」


「窓だ. 割れたらどうする」


「閉まっております」


「それでもだ」


「でも、綺麗です……! すごく」


「……」


 彼は私がはしゃぐのを見て一瞬だけ黙り、それから私の手を引き寄せたまま、毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。


「お前が綺麗だと思うなら、それでいい」


 花吹雪の中、馬車はゆっくりと領都のメインストリートへ入っていく。

 人々の歓声は途切れない。

 侯爵を恐れて押し黙るようなかつての沈黙ではなく、帰ってきた無敵の主および、その妻を歓迎する、あたたかく熱を帯びたざわめき。


「聖女様、万歳!」


「奥様を取り戻した侯爵様も万歳!」


「奥様、おきれい!」


「侯爵様、顔が怖いぞー! もっと笑って!」


「馬鹿言うな、聞こえるだろ! 首が飛ぶぞ!」


 そんな、以前なら不敬罪になりそうな冗談めいた声まで混じっていて、私は思わず吹き出しそうになった。

 だが隣を見ると、ギルベルト様は相変わらず、人を殺しそうな厳しい顔を微塵も崩していない。


「旦那様」


「なんだ」


「少しだけ、皆さまに笑っていただいた方が」


「必要ない」


「でも、領民の皆さまが旦那様を歓迎して」


「俺は、外の連中に見せる愛想笑いの顔など持ち合わせていない」


「……」


「お前が俺を見て笑っているなら、それで足りる」


 また、息をするようにそういうことを言う。

 私は頬を熱くしながら、恥ずかしくてそっと俯いた。

 けれど窓の外の歓声は、まるでそんな私の照れた反応までをも祝福するみたいに、ずっと続いていた。

 領都の中央広場を抜け、侯爵邸へ向かう緩やかな坂道へ入ったところで、隊列は一度だけ予期せず止まった。

 前方で何か事故でもあったのかと、先日の記憶から身を固くした私の耳に、今度は子どもたちのはしゃぐ声が届く。


「待って、待って!」


「奥様にこれ、渡すんだ!」


「押すなよ、花が潰れるだろ!」


 護衛の騎士たちが、無邪気な子どもたち相手に剣を抜くわけにもいかず、少し困ったように声を抑えている。

 だが、やがてセバスチャンが小窓越しに告げた。


「旦那様、奥様. 領民の子どもたちが、どうしても奥様へお祝いの品をお渡ししたいと、馬車の前を塞いでおりまして」


「必要ない. 退けさせろ」


「いります! 受け取ります!」


 今度は私が、彼の言葉を遮って即答した。

 ギルベルト様が「何だと」とばかりにじろりとこちらを見たが、私は今日ばかりは負けじと見返す。

 数秒の無言の視線の攻防の後、彼はひどく不本意そうに、深いため息とともに眉を寄せた。


「……俺が出る」


「はい」


「お前は馬車の中にいろ. 絶対に窓から手を出すな」


「はい」


「身を乗り出すな」


「はい」


「子どもが差し出したものでも、知らないものを勝手に口にするな」


「最後は違います. 食べ物ではありません」


「念のためだ」


 そう言って、彼は分厚い外套を翻し、馬車を降りた。

 扉が開くと、外の歓声が一段と大きくなる。

 私は窓越しに、彼および子どもたちのその様子を見つめた。

 そこにいたのは、十歳にも満たないような、平民の子どもたちが数人。

 みな小さな手に、手作りの小さな花束や、拙い編み目の花冠を持っている。

 たぶん野で摘んだ冬の名残の花および、エドガーさんの温室で分けてもらった花を混ぜて作ったのだろう. 王都の宝飾品のように豪華ではない. むしろ不格好なほどに素朴だった。

 だが、その先頭に立っていたそばかすのある少女が、侯爵の威圧感に緊張で顔を真っ赤にしながらも、必死に声を張る。


「侯爵様!」


「……なんだ」


「奥様を、悪い人たちから助けてくれて、ありがとうございます!」


「……」


 周囲の空気が、その純粋な言葉に少しだけ静まった。

 少女はさらに、侯爵を前にして怖がるどころか、続ける。


「みんな、奥様がすごく優しいって知ってるの」


「……」


「温室のお花、私たちにも分けてもらったし」


「……」


「それに、侯爵様が最近ちょっとだけ怖くなくなったの、全部奥様のおかげだって、お父さんが言ってた!」


 領民たちの間から、ドッと温かい小さな笑いが起きる。

 ギルベルト様は、図星を突かれたのか、露骨に不機嫌に眉を顰めた。


「……余計なことを言うな. 俺はいつも通りだ」


「で、でも本当で……怒った?」


 少女が彼の顔の怖さに、しゅんと肩を縮める。

 私は思わず、フォローしようと窓を少しだけ開けかけたが、その前にギルベルト様の鋭い視線が飛んできた。

 開けるな、外の空気に触れるな、という無言の強烈な圧だった。

 なので私は、ガラス越しに、怯える少女へ向けてできるだけやわらかく笑いかけた。

 少女はそれを見て、ぱっと花が咲いたように顔を輝かせた。


「奥様、これ! 」


 彼女が背伸びをしてギルベルト様へ差し出したのは、小さな花冠だった。

 白い小花および薄桃色の花びらをツルで編み込んだ、幼い手仕事のぬくもりがそのまま残るような、愛らしい冠。


「みんなで、奥様のために作ったの!」


「……まあ」


 私の胸の奥が、きゅうと熱くなる。

 ギルベルト様はそれを受け取ると、一瞬だけ、驚くほど慎重な手つきでその小さな花冠を見下ろした。

 まるで、私の命そのものなど、世界で一番壊れやすいものに触れるときの顔だった。


「受け取る. 妻に渡そう」


「う、うん!」


 少女が満面の笑みで大きく頷く。


「絶対に、奥様に似合うと思って!」


 次の瞬間だった。

 ギルベルト様は馬車へ戻ると、扉を開けて乗り込み、花冠を両手で大事そうに持ったまま、私の前に片膝をついた。


「旦那様?」


「動くな」


「はい?」


 彼はひどく真剣な顔で、まるで戴冠式のような重々しい手つきで、その花冠をそっと私の銀髪の頭に乗せた。


「……っ」


 かすかな花びらが頬を掠める。

 不格好だけれど、領民たちのあたたかくて優しい香りがした。


「どうでしょうか……変ではありませんか?」


 恐る恐る問うと、ギルベルト様は私を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

 その沈黙に、私は似合わなかったのかと、少しだけ不安になる。


「旦那様?」


「……あまりにも」


「はい」


「似合いすぎている. 誰にも見せたくないくらいに」


 私は思わず、彼の本音に笑ってしまった。


「また、そのようなことを」


「本当だ」


「ただの花冠、ですのに. 王都の宝石ではありませんよ」


「だから何だ. 宝石より価値がある」


「子どもたちの手作りですよ?」


「だからこそ価値がある. お前の優しさが、領民に還元された結果だ」


 彼はそう言って、私の髪に優しく触れる。

 花冠がずれないように、ほんの少しだけ位置を直しながら。


「世界一の宝物を見つけたみたいな、そんなお顔をなさらないでください. 恥ずかしいです」


「お前が俺にとって、世界一の宝物だからだ」


 私はもう、何も言い返せなくなる。

 胸がいっぱいで、ただ嬉しさに小さく笑うしかなかった。

 窓の外では、私の姿を見た子どもたちが「似合う!」「やっぱり聖女様だ!」と大騒ぎしている。

 私は照れながらも、そっとガラス越しに彼らへ手を振った。

 それだけで、またわあっと大きな歓声が上がる。

 その様子を見ながら、ギルベルト様は私の隣に座るのではなく、なぜか少しだけ私の前に身体を寄せて、花冠を見つめたまま不満げに呟いた。


「……やはり、見せびらかしすぎたか」


「今さらでしょうか」


「気に入らない」


「何がですか. 皆さま喜んでおられますよ」


「お前が外に向かって笑うたび、外の連中まで嬉しそうな顔をする」


「私を迎えてくださる、大切な領民の皆さまですもの」


「それでもだ」


「……旦那様は本当に」


「なんだ」


「私の一番近くの特等席を、誰にも譲らず独り占めなさりたいのですね」


「当然だ」


 やはり、彼からの答えは即答だった。

 侯爵邸へ着く頃には、私の頬は嬉しくて笑いすぎて、少し熱くなっていた。

 こんなふうに、大勢の人々に心から歓迎されたことなど、私の人生で一度もない。

 実家にいた頃は、誰かに笑いかけられる時でさえ、その裏にある嫌味および打算を疑うのが癖になっていたのに。

 今、領民たちの声には、ただまっすぐな祝福および親しみしかなかった。

 本邸の玄関前では、使用人たちが総出で整列して出迎えてくれていた。

 セバスチャン、マリー、アンナ、温室のエドガーさん、および本邸で働く大勢の人々。

 皆が深々と頭を下げる中、マリーだけは顔を上げた瞬間に、私の頭の花冠へ気づいて、感極まったように目を潤ませた。


「奥様……!」


「た、ただいま戻りました」


「おかえりなさいませ……っ、本当に、ご無事で……!」


「ご心配をおかけしました. お留守番、ありがとう」


「旦那様、ちゃんとお守りになったのですね」


「当然だ. 俺が守らなくてどうする」


 ギルベルト様が即座に返す。

 すると、アンナが涙ぐみながらも小さく笑った。


「お二人の顔をご覧になれば分かりますとも. 王都への道中からずっと、片時も離しておられなかったのでしょう?」


「余計なことを言うな. お前たちには関係ない」


「図星なのですね」


 さすがにそのあたりの主人の扱いについては、使用人たちも慣れたものらしい。

 邸の奥へ戻ってからも、私はしばらく夢見心地だった。

 王都での緊迫した疲れは残っているはずなのに、辺境の澄んだ空気に触れた途端、身体の奥に積もっていた緊張が一気にほどけていくのが分かる。

 私室で休むのではなく、まずは大好きな温室へ行きたいと思ってしまったのも、そのせいかもしれない。


「旦那様」


「なんだ」


「少しだけ、お花たちの様子を見に、温室へ行ってもよろしいでしょうか」


「駄目だ」


「また即答ですか」


「当たり前だ」


「でも、王都から帰って最初に見たいのです. 枯れていないか心配で」


「休め. 花はエドガーが見ている」


「……」


「エルサ」


「はい」


「お前が無理をして倒れたらどうする」


「倒れません. 元気です」


「自分の体調に関するお前の自己評価は、一切信用できない」


「ひどいです」


「今日は特にだ. あの結界で魔力も使っただろう. 大人しく寝ていろ」


 私は唇を尖らせたが、結局その日は彼の言う通り、温室行きを諦めた。

 代わりに、エドガーさんが気を利かせて、小さな鉢植えをいくつか私の私室へ運んでくれて、私はそれに水をやるだけで我慢した。

 その間も、ギルベルト様は当然のように、私から一歩も離れず隣にいたけれど。

 夕食の席には、王都から戻ったばかりとは思えないほど、多くの報告が上がってきた。

 領内は概ね平穏。

 王都での誘拐未遂の一件は、すでにこの辺境でも噂になっているが、領民たちは恐れるどころか、むしろ「奥様を狙った他国の不届き者に、我らが侯爵様が激怒して叩き潰した」という、武勇伝のような形で捉えているらしい。

 そこには恐れだけでなく、自分たちの領主に対する、どこか誇らしさすら混じっているようだった。


「……領民の間では、奥様のおかげで『ちょっと丸くなった当主様』、だそうです」


 セバスチャンが、報告書を読み上げながら淡々と報告する。


「誰がだ」


「領民の一部にございます」


「俺は、丸くなどなっていない. 常に鋭利だ」


「では、冷酷だった以前のままですか」


「……当然だ」


「以前の旦那様が、子どもから貰った奥様の花冠を、自ら大事そうに頭に乗せるとは考えにくいかと存じますが」


「セバスチャン」


「失礼いたしました」


 口では失礼と言いながら、全然反省していない声だった。

 私は思わず口元を押さえて笑いを堪えたが、それを見たギルベルト様が、じろりとこちらを見る。


「笑うな」


「だって……」


「お前まで俺をからかうのか」


「でも、私は少しだけ嬉しいです」


「何がだ」


「領民の皆さまが、旦那様をただ血も涙もない、怖いだけの方ではないと知ってくださるのが」


「……外の連中の評価など、どうでもいい」


「本当でしょうか」


「本当だ」


「でしたら、どうして旦那様の耳が、少しだけ赤いのでしょう」


「気のせいだ. 部屋が暑い」


「そうでしょうか」


「そうだ」


 必死に強弁するあたりが、逆に彼の照れの答えだった。

 その夜。

 ようやく本邸の、完全に馴染んだ私室の寝台に戻った私は、王都の喧騒とは違う、本当の静けさに包まれて目を閉じた。

 遠くで風が、深い森の木々を揺らす音。

 どこかで領地を守る番犬が、低く吠える声。

 厚い石壁に守られた、辺境の夜の、心地よい静けさ。


「……帰ってきましたね」


 私は毛布の中で、小さく呟いた。

 隣で横になっていたギルベルト様が、すぐに腕を伸ばして私を引き寄せる。

 それはもう、息をするのと等しく、彼にとってごく自然な動作だった。


「ああ」


「王都は、短い間でしたけど、いろいろありました」


「ありすぎた. 思い出したくもない」


「でも」


「なんだ」


「こうして旦那様と一緒に帰ってこられて、よかったです」


「……」


「領民の皆さまにも、あたたかく迎えていただいて」


「……ああ」


「あの子どもたちの花冠も、とても嬉しかったです」


 すると、私の腰を抱く彼の腕が、少しだけ強くなる。


「取るな」


「え?」


「その花冠、明日までつけていろ」


「さすがに、寝る時は潰れてしまいますから外した方が」


「駄目だ」


「お花が傷みます」


「なら、傷まないように俺が保管する」


「……」


「俺の執務机に飾る」


「そんなにお気に召したのですか」


「お前がつけて、笑っていたからだ」


「……」


 やはり、どんな話題でも、最後はそう返ってくる。

 私は暗がりで頬を熱くしながら、彼の胸へ深く額を寄せた。


「旦那様」


「なんだ」


「領民の皆さまの前で、あんなふうにしてくださって」


「何がだ」


「花冠を、あんなに大事そうに、私の頭に」


「大事だ」


「それは、花冠が?」


「お前がつけているからだと言っている」


「……はい」


 結局、彼の行動の理由は全部そこへ戻るのだ。

 およびそのことが、今はどうしようもなく嬉しい。


「明日から、溜まった仕事でまた忙しくなりますね」


「俺はな」


「私は?」


「お前は休め」


「またですか」


「当たり前だ」


「私も、少しは侯爵夫人としてお役に立ちたいです」


「お前は俺の隣にいるだけで、十分に役立っていると何度言わせる」


「それは知っております」


「なら、同じことを繰り返させるな」


「でも、明日は温室には行きたいです」


「……」


「だめでしょうか」


「……エドガーに加えて、護衛を倍にする」


「増えましたね」


「嫌か」


「少しだけ. 目立ちます」


「なら妥協して、一・五倍だ」


「人数を細かく刻まないでください」


 そんな他愛のないやり取りをしているうちに、私は彼の規則正しい心音を聞きながら、少しずつ安心感から眠くなっていった。

 王都での誘拐未遂の騒動は、完全に終わったわけではない。

 隣国の王太子レオンハルトも、あれだけの執着を見せたのだ. きっと簡単には諦めないだろう。

 王家との、今回の件の政治的なやり取りもまだ残っている。

 けれど、それでも今夜は、ようやく、私自身の帰るべき場所へ帰ってきたという深い安心がすべてに勝っていた。

 辺境の侯爵邸。

 大好きな温室。

 見慣れた使用人たちの顔。

 領民たちのあたたかい祝福。

 および何より、私を絶対に離さないと抱きしめる、この熱い腕。

 私はもう、この場所を“鳥籠”と呼ばれても、一向に構わないと思えた。

 だってこの鳥籠は、私を冷たく閉じ込める檻ではなく、世界のどこよりも甘く、何よりあたたかい、私が自分で選んだ場所なのだから。

 および翌日からは、また穏やかで、少し騒がしい日常が戻ってくる。


 ――ただし。

 その穏やかな日常すら、独占欲の強すぎる侯爵様は、簡単には他の人へ分け与えるつもりがないらしい。

 妻が使用人たちと笑って楽しくお茶を飲む。

 たったそれだけのことすら、彼には「俺以外の奴と笑うな」と、少し気に入らないのだから。

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