第18話 魂の調律と、永遠の誓約
その夜、王都の別邸は、昼間とはまったく違う意味で重苦しく静まり返っていた。
廊下や庭を巡回する武装した騎士たちの足音は昼間の数倍に増えたはずなのに、なぜか屋敷全体が、大きな獣が息を潜めているようにしんと感じられる。
それはきっと、今日この場所で起きたことが、あまりにも現実離れして大きかったからだ。
隣国の王太子による、白昼堂々の誘拐未遂。
王妃様の来訪中という、外交上あり得ない最悪のタイミング。
王城の精鋭と別邸の厳重な警備を易々とすり抜けた、未知の空間魔法具。
そして、私自身が無意識に発現させた、あの温かい光の結界。
私自身、今日起きたそのすべてを、まだ現実の出来事として受け止めきれていなかった。
ただ強烈に肌で理解しているのは、あの瞬間、ギルベルト様が駆けつけるのが本当に数秒でも遅ければ、私はこの温かい部屋には戻ってこられず、見知らぬ国へ連れ去られていたかもしれないという、背筋の凍る事実だけだ。
「……奥様」
侍女のマリーが、私の銀髪を丁寧に梳き、寝支度を整えながら、そっと気遣うような声をかけてくる。
「今日は本当に大変な一日でございました。お疲れでしたら、旦那様をお待ちにならず、もうお休みになってくださいませ」
「はい……」
「旦那様は、少しだけ別棟の執務室へ向かわれました」
「……やはり、今回の件の後始末が」
「ええ。国王陛下からの使者もひっきりなしに来ておりますし、別邸の警備の全面的な見直しもございますので。旦那様はご自身で指揮を執られております」
私は小さく頷いた。
分かっている。
今日の件は、ただの貴族間の諍いや個人的ないざこざではない。王家と隣国を巻き込む、一歩間違えれば戦争という政治の問題にもなりうる重大な事態だ。
いくら私を優先するギルベルト様でも、すべてを放り出して黙って寝台へ潜り込めるはずがない。
それでも、胸の奥は少しだけ心細く、落ち着かななかった。
昼間、あの離れから別邸の主棟へ戻ったあと、ギルベルト様は一度たりとも私を一人にせず、物理的に傍を離れなかった。
私室へ移してからも、遅めの食事の間も、侍女がこうして髪を梳く間ですら、彼はずっとソファに座り、私から視線を外すことはほとんどなかった。
けれど、そうして私の傍へいる間も、彼の中の何かはずっと、ギリギリの糸のように張りつめたままだったのだと思う。
私を怖がらせまいと、黒い魔力こそ意図的に抑え込まれていたけれど、その重たい沈黙は、昼間の殺気よりもよほど重かった。
隣国への怒りも、私を取り戻せた安堵も、そして私を失うかもしれなかった恐怖も。その全部を胸の奥へ無理やり押し込めたまま、まだ言葉にしないでいるような、ひどく不器用な沈黙。
「……旦那様、ちゃんとお仕事が終わったら、戻ってきてくださるでしょうか」
不安に駆られ、ぽつりと零れた私の言葉に、マリーは少しだけ驚いたように目を丸くし、それからやわらかく、安心させるように微笑んだ。
「もちろんでございます」
「そう、ですよね」
「むしろ旦那様の方が、奥様のお部屋……いえ、今は旦那様の私室でしたね。そこへ一刻も早く戻らずにおられるとは、私には到底思えません」
「……」
「この世のすべて、たとえ国王陛下の御前であっても後回しにして、旦那様は必ず奥様のところへお戻りになりますよ」
そこまで確信を持って言い切られると、少しだけこわばっていた肩の力が抜ける。
侍女たちはもう、旦那様の私に対するそういう異常な執着と愛情を、完全に理解しているのだろう。
支度を終え、マリーたちが深々と一礼して下がると、鍵をかけられた広い部屋には私一人だけが残った。
旦那様の私室。
二人で寝ても余るほど大きな寝台。
柔らかな魔導灯の灯り。
分厚い窓硝子の外には、王都の夜の灯りが遠く滲んで見える。
私は寝台の端へ腰を下ろし、自分の両手を見つめた。
今日、この手で、見えない光の結界を張った。
あの回廊で、この手で、怒り狂う旦那様の袖を掴んで引き止めた。
この手で、私は“旦那様の隣にいる”と、はっきりと自分の意思で選んできた。
なのに、ほんの少し前までの私は、いつも怯えて、ずっと受け身だった気がする。
彼に守られて、庇われて、傷つかないように抱きしめられて。
もちろん、それが嫌だったわけではない。
むしろ、実家でそんなふうに誰かに大事にされたことなど一度もなかったから、毎回胸がいっぱいになって、泣きそうになった。
でも今日。
あの冷たい離れで。
王太子に迫られ、結界の中で一人になった時。
私は初めて、ただ「彼に守られる」だけではなく、自分の明確な意志で「ギルベルト様のもとへ帰りたい」と強く願い、彼を選んだのだと思う。
その意味を、今さらのように静かに噛みしめていた時。
扉の向こうで、護衛の騎士と短く言葉を交わす低い声が聞こえた。
ガチャリ、と重い鍵が回る音。
次いで、重厚な扉が開く。
私は反射的に、寝台から立ち上がった。
「旦那様」
入ってきたのは、もちろんギルベルト様だった。
昼間の漆黒の礼装は、すでに堅苦しい上着を脱いでいる。
けれど、シャツの襟元はまだ少し乱れたままで、いつもは隙のない銀髪にも、手で掻きむしったようなわずかな乱れが残っていた。肉体的にも精神的にも疲労しているはずなのに、その黒曜石の瞳だけは、飢えた獣のように異様に冴えている。
彼は扉を閉めると、しばらくその場から動かず、少し離れた位置から私をじっと見ていた。
何かを、恐る恐る確かめるように。
自分の目の前に、奪われかけた宝物である私が、本当に無事に存在しているのかを、もう一度視覚で確かめるみたいに。
「……おかえりなさいませ」
静寂の中、ようやく私は、そう言葉を紡いだ。
次の瞬間。
ギルベルト様は長い足でまっすぐこちらへ歩み寄ると、何も言わずに私をきつく抱きしめた。
「……っ」
強い。
昼間、離れで私を抱きとめた時と同じくらい、いや、それ以上に。
私の骨が軋み、息が止まりそうになるほどの、腕の力。
けれど今日はもう、その理屈不尽な苦しさすら、少しも嫌ではなかった。
「旦那様」
「……」
「お疲れ様でした」
「……疲れてなどいない」
「嘘です」
私が背中に手を回してそう言うと、重なり合った胸元の向こうで、彼が小さく、観念したような息を吐く気配がした。
「どうして、お前はすぐに見抜く」
「旦那様のことばかり、ずっと見ておりますから」
「……」
「それに、いつもよりお声が少しかすれています。無理をなさいましたね」
しばらく、深い沈黙が落ちる。
やがて、ギルベルト様は私の肩口へすっぽりと顔を埋めるようにして、地を這うような声で低く呟いた。
「……王太子側は、ふざけたことに、表向きは“誤解を招く偶発的な魔法具の暴発事故だった”と白々しく言い張っている」
「そんな……あれだけの私兵を連れておいて」
「こちらも国王陛下の面子と、他国との外交関係がある。今日の時点では、公には俺の独断で戦争という大ごとにしきれん。それが腹立たしい」
「……」
「だが、二度目はない。次、俺の視界であいつが少しでも妙な動きを見せれば、あいつも、あいつの国も、条約ごとまとめて潰す」
その低く静かな声には、怒りを超えた、冷たい確信しかなかった。
「王妃様は、お怪我なくご無事でしたか」
「ああ。護衛が間に合った。少し驚かせてしまったがな」
「よかった……」
「よくない」
「え?」
「お前が、俺の目の届かないところで攫われかけた」
私を抱きしめる腕が、また少しだけギリッと強くなる。
「……まだ、手が震える」
絞り出すように低く落ちたその言葉に、私は息を呑んだ。
あの無敵のギルベルト様が、自分自身の恐怖を言葉にして、そんなふうに弱音を吐くなんて思わなかったからだ。
「旦那様」
「あの離れへ着いた時、お前が光の膜の中にいた」
「はい」
「無事だった。どこにも傷はなかった。なのに」
「……」
「あの客間からお前が消え、離れへ至るまでのほんの数分で、俺の頭の中で何度、お前がもう二度と戻らない光景を見たか分からない」
彼の抱える絶望の深さに、私の胸がぎゅっと締めつけられる。
私は彼の背中へ回した手に、少しでも私の体温が伝わるように、きゅっと力を込めた。
するとギルベルト様はようやく私を少しだけ離し、けれど完全には手を放さず、すぐ近くにあった長椅子へ、私ごと倒れ込むように腰を下ろした。
そのまま私は、半ば彼の長い脚の膝へ乗せられるような格好になる。
「旦那様」
「今日は諦めろ。俺から離れるな」
「まだ何も、嫌だとは言っておりません」
「言うつもりだった顔だ」
「……少しだけ、重いなとは」
「駄目だ」
やはり、彼からの解放は駄目だった。
でも、その“いつもの”強引なやり取りがあるだけで、私はひどく安心する。
昼間の彼の制御不能な怒気と不安が、少しだけ、私の知っている不器用な旦那様の輪郭へ戻ってきた気がした。
「エルサ」
「はい」
「……怖かったか」
その問いだけは、普段の彼らしくなく、ひどく静かで、私の顔色を窺うようだった。
私は少しだけ考えてから、誤魔化さずに正直に頷いた。
「はい」
「……」
「すごく、怖かったです。突然見知らぬ場所へ飛ばされて、足が動かなくて、頭の中が真っ白になって」
「……」
「でも、無我夢中で、あの光の結界が張れた時」
私は、自分の胸の真ん中へそっと手を当てる。
「あの温かい光の中で、私が最初に思ったのは……怖い、ではなく、旦那様が必ず助けに来てくださる、でした」
「……」
「ちゃんと、心の底からそう思えたんです」
ギルベルト様の黒曜石の瞳が、大きく揺れた。
私は彼の目から視線を逸らさず、続ける。
「実家にいた頃の前の私なら、誰かが助けてくれるなんて微塵も思わず、ただ絶望して怯えるだけだったと思います」
「……」
「でも今は、どんなに怖くても、最後には必ず旦那様が私を見つけて来てくださるって……信じられました」
「……エルサ」
「だから」
私は彼の手を取った。
剣を握り続けてきた大きくて、骨ばっていて、極度の緊張のせいで少しだけ冷たくなっているその手を、私の両手でそっと包み込む。
「私は、今日、あの離れでもっとちゃんと分かったんです」
「何をだ」
「私が、どれだけ旦那様の傍にいたいか、です」
その瞬間、彼の呼吸が、ほんの少しだけピタリと止まった気がした。
「……お前は」
「はい」
「そういう俺の理性を壊すようなことを、どうしてそんな、無防備な顔で言う」
「どんな顔でしょう」
「……俺を、完全に狂わせる顔だ」
彼の言葉に、私は少しだけ頬が熱くなった。
でも今日は、絶対に目を逸らしたくなかった。
「旦那様」
「なんだ」
「狂ってください」
「……は?」
「私のことで、です」
「……」
「だって、旦那様はもうとっくに、私のことでそうなのでしょう?」
深い沈黙のあと、ギルベルト様は耐えきれないように、空いた片手で自分の顔を覆った。
照れと動揺で返す言葉を失っているようだった。
「お前は時々、俺が必死で抑えているものを」
「はい」
「あまりにも簡単に煽る」
「そんなつもりでは」
「ある」
「ありません」
「ある」
断言されてしまった。
けれど、その声はまったく怒っていなかった。
むしろ、私の放つ言葉の威力に深く諦めているようで、同時にどうしようもなく甘い響きがあった。
彼は顔を覆っていた手を下ろすと、改めて、至近距離で私を見た。
その瞳の奥には、昼間私兵たちへ向けていたのとは違う、別の熱がある。
怒りとも嫉妬とも違う、もっと深くて、もっと抗いがたい、静かな熱。
「……本当は」
低い声が、夜の部屋の静寂へ溶けるように落ちた。
「今日、お前をあの離れで見つけた時」
「はい」
「その場で王太子たちを全部終わらせて、お前をこのまま、誰の目にも触れないどこかへ連れて行きたかった」
「どこか、ですか」
「誰も俺たちを知らない、遠い場所だ」
「……」
「王都のしがらみも、王家への恩義も、隣国との国交も、侯爵としての義務も全部捨てて」
「旦那様」
「お前だけ連れて、二度と誰にも見せずに、俺の手の届く鳥籠の中に完全に囲ってしまいたかった」
胸がどくりと大きく鳴る。
これはたぶん、常識的に考えれば、普通なら恐ろしい言葉だ。
でも、私にはそれが、彼のエゴによるただの支配欲としては聞こえなかった。
私を失うかもしれなかった恐怖の、あまりにも不器用で、むき出しの形だった。
「そんなことをしたら」
「頭では分かっている」
「領民や、セバスチャンたち皆さまが困ります」
「知るか」
「知ってください、当主様」
「今は知りたくない」
「……」
その子供のような駄々に、思わず少し笑ってしまう。
けれど次の瞬間、ギルベルト様の目が、ひどく痛そうに、切なげに細められた。
「笑うな」
「だって」
「俺は、今も半分本気だ」
「……」
「お前を誰かに奪われるくらいなら、本当に、自分以外の全部がどうでもいいと、本気で思っている」
その重すぎる言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
同時に、彼の孤独と恐怖を思い、切なさが込み上げた。
「旦那様は」
私はそっと、彼の頬へ手を伸ばして言った。
「本当に、そんなに怖かったのですね」
「怖かった」
即答だった。
一切の強がりも、侯爵としてのプライドもない。
「お前が俺の隣からいなくなるのが、あまりにも」
彼はそこで一度、言葉を切る。
まるで、その先の言葉を口にするだけで、自分の何かが決定的に壊れてしまいそうなほど、慎重に。
「……耐えられそうになかった」
私は息を呑んだ。
ギルベルト様は、強い。
誰よりも、恐ろしく強い人だ。
広大な辺境を武力で支配し、身を灼く呪いを一人で抱え、国王や隣国の王太子といったどんな相手にも微塵も怯まない人だ。
そんな強靭な人の口から、“耐えられそうになかった”なんて弱音が出る日が来るとは思わなかった。
「今まで」
彼はぽつりと、自分の過去を吐き出すように続ける。
「俺は、何かを失うことには慣れていた」
「……」
「大事な人も、自分の時間も、他者からの期待も、全部だ。この呪いがある限り、最初から壊れるものだと思っていれば、諦めもつく」
「……」
「だが、お前は駄目だ」
「……」
「お前を失う想像だけは、今日、どうしてもできなかった」
静かに言いながら、彼の手袋を外した指先が、私の頬へそっと触れる。
ひどく丁寧に、世界で一番尊い壊れ物に触れるみたいに。
「……エルサ」
「はい」
「俺は、お前がいると駄目だ」
その静かな一言で、私の胸の奥で堰き止められていた何かが、完全に決壊した。
私はもう、頭で考えるより先に動いていた。
彼の膝の上でそっと身を乗り出して、彼の太い首へ、自分から両腕を回す。
「……っ」
ギルベルト様が、不意打ちにわずかに息を呑む。
「私もです」
「……」
「私も、旦那様がいない世界なんて、絶対に嫌です」
「……」
「怖かったです。あの時、転移させられて一番怖かったのは、あのまま、もう二度と旦那様のところへ戻れないことでした」
「エルサ」
「だから」
私は彼の広い肩へ額を押し当てた。
感情が高ぶって言葉が震えてしまいそうで、それでもちゃんと、この人に伝えたかった。
「私は、どこにも行きません」
「……」
「ずっと、旦那様の傍にいます」
「……」
「これは、私が妻として誰かに命じられたからでも、呪いを鎮める聖女だからでもありません」
「……」
「私自身の、意思です」
深い、長い沈黙が落ちた。
やがて、ギルベルト様の大きな手が、私の背中へゆっくりと回る。
昼間の戦闘の時のように強く縛りつけるのではなく、私の存在を確かめるように、じわりと温かい力を込める、深い抱擁。
「……反則だな」
「え?」
「お前の口からそんなことを言われて、俺にまだ理性が残ると思うか」
「……」
「お前は本当に、俺を甘やかしすぎる」
私は少しだけ頬を熱くしながら、それでも逃げずに、彼の肩から顔を上げた。
「では、もっと私に我儘を言ってください」
「……」
「今日は、私が旦那様を甘やかしたいです」
その瞬間、彼の瞳の奥の色が、はっきりと変わった。
黒曜石のような冷たさの底で、重い熱が灯る。
静かで、深くて、もう絶対に後戻りできない種類の熱。
「エルサ」
ひどく低い声で、名を呼ばれる。
それだけで、私の胸がきゅうと締まる。
「今、自分が何を言っているのか、分かっているか」
「……はい」
「お前に、後悔するようなことは絶対にさせない」
「はい」
「だが、もう俺は止まれないぞ」
「……はい」
自分でも驚くくらい、素直に頷けた。
未知のことへの恐怖がないと言えば嘘になる。
でも、それ以上に、彼のこの深い不安と愛情を、もう一人にしておきたくなかった。
私だって、この人にちゃんと行動で伝えたかったのだ。
ただ守られているだけの存在ではない。
私も、あなたを選んでいるのだと。
ギルベルト様の少し荒れた指が、私の頬から耳、および銀色の髪へとゆっくりと滑る。
その触れ方のすべてが丁寧で、なのに触れられるたび、私の胸の奥が火を点けられたように熱くなる。
「……本当に、いいんだな」
最後の確認のように、彼が掠れた声で問う。
私は小さく息を吸って、しっかりと頷いた。
「旦那様に、私の全部を預けたいです」
次の瞬間、私たちの唇が重なった。
昼間の離れでの、あの強引で激しい口づけとは違う。
深く、長く、お互いの存在を何度も確かめ合うような口づけだった。
甘いのに、切ない。
相手を奪うというより、互いに縋りつくような熱を帯びていて、口づけられるたびに私は胸がいっぱいになる。
「……っ」
すぐに息が乱れる。
けれど少しも離れたくなくて、私は彼のシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。
それだけで、彼の呼吸がひとつ、深く荒くなる。
「そんな顔をするな」
「どんな、ですか」
「……これ以上、俺の理性を煽る顔だ」
少しかすれた色気のある声に、私はますます顔が熱くなる。
でも、もう私も引き返したくはなかった。
やがて彼は私を軽々と抱き上げ、そのまま広い寝台の中央へ運んだ。
羽毛が深く沈む音。
柔らかな上質な寝具の感触。
その上に落とされる、彼の白銀の髪および、私を覆う黒い影。
まるで鳥籠の中へ完全に囲われるようなのに、不思議と息苦しさは微塵もない。
むしろ、その熱い腕の中で、私はようやく自分の本当の居場所を見つけたみたいだった。
「……エルサ」
「はい」
「痛かったら、すぐ言え」
「はい」
「怖くなってもだ」
「言います」
「絶対に、俺のために我慢はするな」
「……はい」
たぶん彼は、私に対してはどこまでも優しい。
それを骨の髄まで知っているから、私は安心して目を閉じ、彼に身を委ねることができた。
その夜、私たちは初めて、心だけではなく身体の奥深く、魂の底まで近づいた。
初めて触れられるたび、私は未知の感覚および恥ずかしさで震えた。
けれど、それ以上に、彼への愛おしさの方が大きかった。
この人の大きな手が、唇が、声が、どれほど必死に、壊れ物を扱うように私を大事にしようとしているかが、痛いほど分かってしまうから。
ギルベルト様は、ひどく甘かった。
普段の彼らしい独占欲や強引さはそのままなのに、私への触れ方だけは驚くほど丁寧で、私が少しでも息を詰めればすぐに動きを止め、汗ばんだ額へ口づけては「大丈夫か、やめるか」と低く問う。
そのたびに私は、首を横に振ってこくりと頷き、また彼の名を呼ぶ。
「旦那様……」
「ここにいる」
「はい……」
「どこにも行かない」
「……はい」
交わす言葉は、それだけで十分だった。
やがて、私の胸の奥で、あの温かい光がふわりと灯り、彼の内側に渦巻く黒い魔力と、静かに、および完全に重なった。
昼間のような、外へ弾き出す眩しい光ではない。
むしろ、月の光が夜の湖へ溶けていくみたいに、やさしく、深く、互いの境界線がなくなっていくような不思議な感覚。
私ははっと息を呑む。
「……旦那様」
「分かっている」
彼の声も、驚きで少し震えていた。
「私、光って、います」
「ああ. 綺麗だ」
「兵士を弾き飛ばした光ではありません. 全然怖くないです」
「俺もだ. 痛みが、完全に消えていく」
その瞬間、私はようやく、本当の意味で理解した気がした。
王家地下書庫の古い文書にあった“調律”という言葉の真意。
それはきっと、どちらかがどちらかを一方的に鎮めたり、支配したりするものではない。
ただ、欠けていた二つの魂が、ようやくあるべき場所へぴたりと重なって、永遠に安らげる形を見つけることなのだ。
私の光が彼の積年の痛みを溶かし、彼の闇が私を外の悪意から包み込む。
奪うのでも、支配するのでもない。
ただ、深く、静かに、互いの存在を受け入れていく。
その魂が重なり合う感覚があまりにもあたたかくて、私は思わず幸福で泣きそうになった。
「どうした. 痛いか」
「……いえ. 幸せ、だと思って」
彼の額が私の額へ、こつんと触れる。
「俺もだ」
それから先の時間は、熱に浮かされた夢のように曖昧だった。
何度も、愛おしげに名前を呼ばれた。
何度も、甘く口づけられた。
強く抱きしめられて、熱に包まれて、溶かされるみたいに深く一つになった。
そこにはもう、忌まわしい呪いも、国が求める聖女の力も、王都の貴族たちの思惑もない。
あったのはただ、互いを絶対に失いたくないと願う二人が、ただの男と女として求め合う熱だけだった。
長い夜の果て、ようやく部屋に静けさが戻った頃。
私はギルベルト様の広い胸の上に半ば抱き込まれるようにして、浅く息を整えていた。
身体の芯にはまだ、彼が残した熱がくすぶっている。
でも、心は驚くほど穏やかで、満ち足りていた。
「……エルサ」
「はい」
「後悔していないか」
「まったくしておりません」
「……」
「旦那様は、私で後悔しますか」
「するわけがない」
即答だった。
私は彼の胸に顔を埋めたまま、少しだけ笑う。
すると彼はその私の笑みを見て、ようやくすべての緊張を解いたみたいに、長く息を吐いた。
「ならいい」
「はい」
「本当に」
「本当に、です」
私は彼の胸へ、すりすりと頬を寄せる。
規則正しい鼓動は、まだ少し速い。
でもその力強い音が、今の私には妙に心地よかった。
「旦那様」
「なんだ」
「今日は……」
「うん?」
「私が、流されるのではなく、ちゃんと自分で選べた気がします」
「……」
「旦那様の傍にいたいって、言葉だけじゃなくて、行動で」
「……ああ」
「よかったです」
彼の腕が、愛おしむように、またゆっくりと私を抱きしめる。
「俺は別に、お前に選ばせたかったわけじゃない」
「え?」
「お前が嫌だと言っても、最初から俺のものにするつもりだった」
「……」
「だが、お前が自分でそう言って俺を選んでくれるなら、これ以上嬉しいことはない」
私は呆れ半分、嬉しさ半分で、そっと彼の硬い胸を小さく叩いた。
「旦那様」
「なんだ」
「そういうところです」
「どこだ」
「愛が重すぎるところです」
「知っている」
「ご自覚があるなら、少しは直してください」
「直さない」
「……」
やはりだめだった。
でも、その重すぎる愛も、今はもう心底愛おしい。
しばらくして、ギルベルト様は私の銀髪を指で梳きながら、低く言った。
「王都には、もう長くいない」
「……」
「明日にも、いや、できるなら今夜すぐにでも、このまま辺境へ戻りたい」
「そんなにですか」
「足りないくらいだ」
「でも、国王陛下とのお話や、昨日の事件の事後処理が」
「分かっている. だから、必要最低限のことだけ済めて切り上げる」
「……」
「お前をこれ以上、こんな不穏な王都に置いておきたくない」
私はその決断の言葉に、小さく頷いた。
もう、王都の社交界に長居して彼に反対する気にはなれない。
「帰りましょう」
「……」
「私たちの、辺境へ」
「……ああ」
「私たちのおうちへ」
ギルベルト様の漆黒の瞳が、わずかにやわらぐ。
その微細な変化が嬉しくて、私はもう一度だけ、彼の胸へ深く顔を埋めた。
「旦那様」
「なんだ」
「これから先も、もし私が自分のことに自信がなくなって、不安になったら」
「……」
「今日みたいに、ちゃんと我慢せずに言葉にします」
「そうしろ」
「旦那様も」
「何だ」
「怖い時は、怖いと私に言ってください」
「……俺が?」
「はい」
「当主として、格好がつかない」
「今さらです」
「お前な」
「だって、今日、怖いと教えてくださったではありませんか」
「……」
「私は、隠されるより、その方がずっと嬉しいです」
しばらく沈黙が続いた。
および、ようやく彼は観念したように低く呟いた。
「……分かった」
「はい」
「お前の前では、無理に隠さないようにする」
「はい」
「その代わり」
「何でしょう」
「お前も、二度と何も一人で抱え込むな」
「……はい」
それは誓いの約束だった。
誰に強いられたわけでもない、国王にも神にも縛られない、私たちの、たった二人だけの永遠の約束。
窓の外では、王都の冷たい夜がゆっくりと更けていく。
けれど、この部屋の中だけは、ようやくすべてが調律された、穏やかな夜になっていた。
私は旦那様の腕の中で、静かに目を閉じる。
身体は少し気だるいのに、心はかつてないほど満ち足りている。
もう、“呪いを鎮めるのに役に立つから必要とされる”のではない。
“王家が記した聖女だから選ばれた”のでもない。
私はエルサという私自身として、旦那様に求められ、および同じように旦那様を求めている。
その揺るぎない確信が、胸の真ん中で柔らかく、確かな温度を持って光っていた。
夜明け前。
薄い朝の光が重いカーテンの隙間から差し込む頃、私は半分まどろんだまま、私の頭上へ落ちてくる低い声を聞いた。
「エルサ」
「……はい」
「愛している」
あまりにも自然に、息を吐くように告げられたその言葉に、私は眠気の中でゆっくりと目を開けた。
黒曜石の瞳が、すぐそばにある。
もう私に対して隠すものなど何もない、穏やかな顔で、まっすぐ私を見ている。
胸がきゅうと幸せに締まって、私は少しだけ笑った。
「私もです」
「……」
「愛しています、旦那様」
その私の返事に、彼はひどく静かに、でも確かに嬉しそうに目を細めた。
および、まるで世界で一番大切な宝物をしまい込むみたいに、もう一度だけ私を腕の中へ深く包み込む。
王都での騒動は、まだ完全に終わっていない。
私を狙う隣国の王太子も、思惑を抱える王家も、これから侯爵家として対処すべきことはたくさんある。
けれど、その前に、私たちはもう一つの確かな答えを見つけたのだ。
血塗られた呪いでも、伝説の聖女でもない。
ただ、互いを失いたくないと願う心が、二人を強く結びつけているのだと。
私たちは王都を急ぎ発つ支度を始めることになる。
悪意および欲望が渦巻く騒がしい都を後にして、
今度こそ本当に、二人が共に生きる、帰るべき辺境の地へ向かうために。




